機内モード
『携帯電話などの電波を発生する状態にある機器はご使用になれません。電波を発しない状態に切り替えていただくか電源を切り、他のお客様のご迷惑に...』
ひと昔前はそんなアナウンスが流れたが、今はせいぜいシートベルトの着用喚起と、もしもの場合に備えて非常ドアの位置や救命胴衣の使い方を教えるだけになっている。
もはや飛行機にフリースポットWifiがついているのは当たり前の時代。
頭ではそう分かっていても前時代的な考えが抜けない私は、1万メートルの上空を飛ぶ、3列シートの中央座席から、両側に座っている人物を不安そうに眺めた。
左側には小学校4年生くらいの少年が座っている。両親が一緒に搭乗しているならば私の位置に席を取っているだろうから、どうやら一人で乗っているらしい。子供だけで心細くはないかと心配したが、手元の携帯ゲーム機に夢中でそれどころではないようだ。
右側に乗っている男性は若いサラリーマンのようで、背面テーブルの上にノートパソコンを広げて、忙しそうに取引先とメールのやり取りをしている。
「すみません。」
私がそう声をかけると、彼は迷惑そうに睨み付けてきた。目の前の商談よりも重要な案件をもちかけてきたのか、とでも言いたそうな表情だ。
「お手洗いに行きたいので、少し通して貰えませんか?」
彼は露骨に嫌な顔を向けたが、仕方なさそうに席を立ってくれた。戻って来る際も、あのやり取りをすると思うと気が滅入る。
だが立ち上がって後方の座席を見た時、私は眩暈がした。座っている乗客全員がスマートフォンやタブレットを触っているのが見えたためだ。彼らにとっては、飛行機の窓から見える景色など何の興味もないのだろう。
動画サイトを覗けば、世界中の航空写真や、宇宙から見た地球の美しさを眺めることができる。
そして残念なことに、殆どの現代人はもっと低俗な動画に通信料を支払っているのだ。ああ、この頭痛は電磁波のせいに違いない。
皆が液晶に張り付いているためか、化粧室の前には誰もいなかった。私はポケットを探り、スマートフォンを取り出す。最も悲観しなければならないことは、私自身もその現代人の一員であるということだ。
「本当に大丈夫?」
誰もいない鏡の前でそう呟き、私は恐る恐る電源を入れようとした。だがその瞬間、頭上からアナウンスが聞こえた。
『当機はお客様方が使用した機器の電波障害によって異常が発生したため、今から機内のモードに移行いたします。』
そう言い終わると、辺りの照明が消えて真っ暗になった。同時にグワンと機体が揺れ、その反動で私の体は宙に浮いた。
ほらやっぱり電磁波のせいじゃないか、と思った。
空の旅と言えば、旅行雑誌を捲って、到着したら何処に行こうかと思案を巡らせたり、空港の売店に置いてあるB級出版社の民俗史や都市伝説の本を買って、無駄に手荷物を増やすのが様式美だったのに...
人生が終わるまでの間、そんな現実逃避を続けているはずだった。だが、いつまで経っても飛行機は墜落しない。
それどころか、揺れは収まってないものの、どうやら体勢を持ち直して飛行を続けているようだった。私は手探りで出口を探し出し、窮屈な化粧室の扉を開くことにした。
案の定、機内は暗闇とパニックに包まれていた。赤ん坊が泣き叫び、どこかの婦人が悲鳴を上げて倒れた。窓から差し込む太陽の光と液晶から漏れ出るブルーライトだけがぼんやりと室内を照らしている。
国民性なのか暴動が起きているというよりも、誰もがどうしたらいいか分からず戸惑っているようだった。どうやらこの場を収めることのできるキャビンアテンダントの姿は見当たらないようで、操縦室に呼び掛けてみてもなんの反応もないらしい。
こんな非常事態だというのに、『飛行機 墜落 助かり方』と打ち込んでも検索結果は返ってこないのだろう。頼みの綱のインターネットは封じられ、誰もが動かないガラクタを手に困惑している。
これなら離陸前に流れたビデオをもっとよく見ておくべきだったと後悔しているに違いない。
だが私が知りたいことは、なぜこんな状況でも飛行機が動いているかである。
とりあえず私は自分が座っていた席に戻ってみることにした。しかし先ほど私が座っていた位置に、さっきのサラリーマンが移動しており、なにやら作業をしていた。
「すみません。」
と声をかけてみるが、今度は私の存在に目もくれる余裕がないほど忙しいようで、カタカタと何かを打ち込んでいる。
パソコンの画面を覗きこむと、外気温、風向き、天候、といった様々な気象データが映っている。そして先程は着けていなかった、ヘッドマイクを装着し何処かとやり取りをしているようで、時折左に座っている、少年の方へその情報を話しかけていた。
少年の方に視線を移すと、相変わらず真剣にゲームをしていた。彼の持つゲーム機は一世代前のもので、上下に二つの液晶画面が付いている。
上画面には空の景色が広がっており、下画面にはなにやら複雑そうなメーターやボタンが、大量に配置されている。彼はそれらをタッチペンで器用に操作していた。
私の身体がブルっと震えた。そこで機内の室温が急激に下がっていることに気が付いた。
(非常電源を入れなくては)
私はそう思い、右手に持っていたままのスマーフォンの電源ボタンを押した。するとそれに対応するように、パッと機内が明るくなった。
光が灯ったことにより、乗客達から安堵の声が出る。だがそれでも空調の調子は万全ではないらしく、子供やお年寄りの乗客は寒そうに体を縮こまらせている。
(毛布を配らないと)
私の頭の中には、自然と次にやるべきことが思い浮かんでいた。スマホの画面には、機内の見取り図と保管物資の位置が表示されている。
「手伝います。」
声をかけてもいないのに何人かの乗客が私の周りに集まってそう言った。私は彼らに指示を出し、手分けして毛布や飲料を客席に運んでいく。
赤ん坊を泣き止ませ、気絶していた婦人を介抱した後で、気分がすぐれないお客様を前の方の座席へ誘導していると、少年の携帯ゲームの電源ランプが赤く点滅していることに気が付いた。
「お客様の中に充電器をお持ちの方はございませんか?」
私がそう尋ねると、何人かの若者が自分のパソコンからモバイルバッテリーを引き抜いて渡してきた。私は少年の鞄をあさり、充電ケーブルを引っ張り出す。
少年とサラリーマンの周りには、いつの間にか人だかりができていた。誰もが時間を忘れて、食い入るように、ゲーム画面を注視している。
窓からは沈んでいく夕日が見えた。腕時計を見ると、既に到着予定時刻よりも40分が過ぎていた。
「目的地が見えたぞ。」
誰かが窓の外を見てそう叫んだ。その言葉を聞いて、乗客達の心中では希望や不安、興奮や焦燥などあらゆる感情が渦巻いていく。
「ああ、これだったのか。」
その時になって初めて私は、自分が求めていたものの正体に気がついた。
私は飛行機に無関心な搭乗者達に、私が抱いていた、飛行機が墜落しないだろうかという僅かな心配と、きっと目的地に辿り着いてくれるに違いないという盲目的な期待を、共有して欲しかったのだ。
皆が固唾を飲んで彼の操縦を見守る中、小さな機長が私を見て頷いた。私は頷き返すと、乗客達を不安にさせないよう、精一杯の笑顔で告げた。
「間もなく着陸体制に入ります。皆さま、安全のため席に座ってしっかりとシートベルトをお付けください。」
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