遠くの声
レビューがついた!それも、一日で。
まさか、本当に読んでもらえるとは露ほども思っていなかった。
僕は、あと何日かつまらない小説を書き続けて、読者が誰もいないのを確認して、
それから思いっきり自分の書きたいことを、遺書の代わりに書いて、
「ああ、僕はこんなにも努力しているのに、誰も見てくれない。後の時代になって、誰かがひそかに評価してくれたらな」
と感傷に浸って、自分を運の無い天才だと思い込んで首をくくるつもりだったのです。
それが、一人。読者がいるのだ。どうしよう?
おとぎ話をしよう。
遠い国のお話。
お城で育てられているお姫様がいて、ある日、幼いころから部屋に置いてある一冊の本に興味を示して、開いてみる。
本当に偶然で、普段は本も読まず、ただ宮廷のいろいろな出来事を毎日過ごしているお姫様なのに、
その日はたまたま何もなくて、それが特別で、だから特別その本が目に留まった。
それとも必然だろうか?先代、お父さまや爺やはこの本のことを何か知っているようだけど、
彼らの目つきやなにげない仕草が、この本だけは違う、たくさん本の入っている棚の中で、この本は、少し背表紙の色味が違うだけじゃない、何かあるんだ、と、
背中で語っていたのではないか。それで、お姫様も父さまも、誰も気づかないうちから、
彼女がこの本を開くことは運命で決まっていたのかもしれない。
ともかく、この本を読むことがなければ、全ては始まらなかった。だから偶然のように見えて、必然であったようにも思われる。
その本とは?
滑稽無糖、よくある話、錬金術の本である。
お姫様の部屋の本棚には昔から、歴史書と哲学の本がたくさん並んでいる。
簡単に言ってしまえばみるからに行儀のいい道徳的な本棚である。毎日読んでいるだけで博学な善人になれそうな。
実はその中に一冊だけ、紛れ込んだ悪徳的な本がある。彼女が手に取った錬金術の本こそそれである。
タイトルは書いていない。
開くと、最初のページから彼女の知らない言葉が並んでいて、次のページもそう、読めそうなところはひとつもない。
おそらくあのあたりの地方の言葉だろう、と彼女は推察するが、確信は持てない。この部屋には辞書がいくつもあるので、その気になれば調べることはできる、と思った。
彼女がページをめくっていると、妙なページが目につくようになった。
妙とは?それを示すのは難しいが、言語からして前のページのものとは違っていて、東洋の言葉だろうか、と彼女は思ったが、そもそも印象からして、意思を持った人間の痕跡が感じられない。これは何を書いているのだろう?彼女はぼんやりと考えるうちに、その紙から伝わってくる印象、いわば非人間的な秩序に、不可解で動かしがたいものを感じ、恐ろしくなって、ページをめくった。
だがその先は、どれだけページをめくっても、同じように、文字とは呼べないような、しかし単なる汚れとは絶対に違う、知らない言語で埋め尽くされているのであった。
彼女は喉元までせりあがる恐怖であと少しで嘔吐するか悲鳴を上げるところだったが、しかし私はただ本を読んでいるだけだ、誰が襲ってくるわけでもない、ただ一人で本を見てそれが怖いというだけだ、と言い聞かせ、どうしてか、ページをめくる手を止められないでいた。
本の様子は後のページほどなお不可解になる。あるページには一面インクをぶちまけたようなシミがあり、それには不自然な、意図的な濃淡がついていて、絵のように見える。ほんの一瞬、彼女がそれを見つめると、何か、そう何かわからないが「何か」が、絵から視界を通じて彼女の中に飛び込んでくるような気がして、彼女はきゅっと目を閉じ、次のページを開いた。
しばらく目を細めてページの様子を眺める。あるページには、彼女が知らないがまだ人間味のある文字がつらつらと並んでいたり、あるページには精巧な絵が描かれていたり、図形が描かれていたり、あるページには血の飛沫らしきもの、それもかなり古いものが染みついていたり、ときおりページに留められている、何かの皮、粉、本当に何かわからないもの、それから人の手の皮が張り付けられているのを見たとき彼女はほとんどめまいがした。だがページはあと少しだけだ、何故かわからないが彼女は最後まで一通り目を通そうと決めていた。
途中からまた知らない言葉がつらつらと書き連ねて、彼女はそれを見た途端、おそらくこの国のかなり古い言葉だろうとわかるのだが、それが長い間続き、あるページまでで途切れた。そこから先、終わりまでの数ページは白紙である。
彼女は何も書かれていない最後の数ページをめくりながら、疲れでぼんやりしていた。眼はうつろに白紙の上に落とされていた。終わりの何もないページ、本当に何もないものか?恐れる気持ちは少しだけあった。だから見張っている。この不可解な本も、最後の最後には、静かになるのだ、それで安心したいのだ。不思議な心の動きだが彼女は自覚していない。
ところが彼女の視界に何かが飛び込んできた。悪魔。そう映った。だが実際には、彼女がしばらく跳ねる心臓を収まるのを待って、自分が悪魔に襲われたのではないことを確信した後、よく目をこすって、じっとそのページを見ると、やはり白紙なのである。
しかし彼女は確かに見たのだ。それでこそ驚きに胸を貫かれている。瞳には確かに見た影が張り付いている。そう、まるでページの向こうから顔を出すように、何もないように見える木から鳥が羽ばたくように、白い紙の上に、悪魔の、というより、恐ろしい黒い影、理由なく恐怖を煽る影が、ぞっ、と飛び出したのだ。
その次のページも、次のページも白紙だった。その次のページで本は終わっている。古い背表紙が彼女を覗いている。
彼女は本を閉じてまた同じように本棚にしまった。
それからしばらく呆然と、目を瞑って、何かを待っていた。
しばらくすると爺やが来て彼女を呼んだ。いつもの宮廷の用事がある。
顔が白いようですが、と言われて、彼女は、なんでもない、と言った。どうしてか打ち明ける気にはなれなかった。
最初から読まなかったことにしようと思った。
あんなものはこの世に存在しない、私が夢を見ていたのだ。そう思うことにした。
だが彼女はすぐに思い出している。恐怖の記憶を何度も味わうように思い返す。
宮廷の秩序の中に、あのような不可解なものが紛れ込んでいたとは。
この日から、彼女のつつましく模範的な自室は、誰も知らない、神をも恐れぬ研究室と化すのである。
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