第七九話 漂流する教室のお話

 少年に会わなければよかったと考えているのは、学院の生徒たちも同じだった。外の世界が悲惨な状況に陥っていることにショックを受け、亜樹は昨夜ほとんど寝れなかった。他の生徒も同じようで、今朝は目を赤く泣き腫らしたり、濃い隈を作っていた生徒も多かった。


 授業に出てこない生徒も、半分近くに上っていた。パンデミックの直前に多くの生徒が学院を離れ、その後教師が裕子一人だけになっても、小百合女学院では授業を行っていた。とはいっても生徒は二年生と三年生を合わせて(パンデミックは3月に起きたため、新入生が来ることは無かった)11人のみ。対して大半の教師は一時帰宅をしたまま戻らなかったので、裕子一人しかいない。二年と三年が合同で授業を行っていたのだが、今まで休む者はほとんどいなかった。




 亜樹たちが授業を受け続けていたのは、パンデミックが収拾した後に、再び学校が再開されるであろうという希望を持っていたからだ。特に亜樹たち3年生は受験の年。こんな状況で大学の入学試験が行われるとも思えなかったが、それでももしかしたらという思いで今まで英単語を暗記し、古典文法を学んできたのだ。


 だが少年によって外の世界の実態を教えられてからは、それすらも無意味になってしまった。来年になれば大学が再開されるどころか、大学という制度そのものが綺麗さっぱり消え失せてしまっているかもしれない。それどころか、文明的な社会も永遠に失われたままという可能性すらある。受験勉強をやったところで、何の意味もない。




「はぁ……」




 生徒たちの一時帰宅に加え、自室から出てこない生徒が増えたせいで、ただでさえガラガラの教室の空席がさらに目立っている。誰かが溜息を吐き、黒板にチョークで英語の文法を記していた裕子が手を止めた。


 溜息を吐きたいのは亜樹も同じだった。覚悟はしていたが、少年の言葉は亜樹たちの恐れを現実のものとしてしまったのだ。




 テレビに映し出されていた炎上する都市の光景や、ライフラインの途絶によって外の世界が一片してしまったであろうことは薄々感づいていた。それでも亜樹たちは学院の中から一歩も出ないことによって、それらの現実から目を背け続けていたのだ。


 出ようと思えば、外には簡単に出られた。寮監も教師たちも裕子一人を残していなくなったし、学院にはいくつか自転車も置いてある。車こそ無かったが、歩けば30分で森を出られる。しかし亜樹たちは外に出ることを躊躇った。代わってしまった外の世界を、見るのを恐れたのだ。




 ウイルスの流行によって一時的に社会が混乱しているだけで、すぐに元に戻る。誰もがそう思い込みながら生活を続けていた。一カ月が経ち、半年が経過しても、そう思うことで心の平穏を保ちながら生活を続けることが出来た。


 しかし亜樹たちが知る世界が既に失われてしまったこと、そして元には戻らないであろうということを少年は告げてしまった。生徒たちは現実に打ちのめされてしまったのだ。




 全寮制ということもあり、この小百合女学院の生徒たちは親元を離れてこの学校で生活している。運悪く帰宅できなかった生徒たちは、パンデミック後もこの学院に留まることを余儀なくされた。携帯電話もラジオも使えず、家族や地元の友人と連絡を取れなくなった生徒たちだが、皆無事であると思い込むことで不安な気持ちに蓋をしていた。


 しかし昨日の少年の話により、自分の親が生きているのかすら怪しくなった。というよりも、死んでいる可能性の方が高い。そのことを知ってしまい、誰が平気でいられるものか。亜樹だって皆をまとめる三年生の立場でなかったら、他の二年生達と同じように自室に篭もって泣いていたかもしれない。






 亜樹の父親は警察の官僚だ。母親は亜樹が中学生の時に病死し、卒業と同時に地元を離れる形でこの小百合女学院に入学した。亜樹が一時帰宅できなかったのも、東京の警視庁本部で勤務する父親が忙しかったためだ。


 思春期ということで他の女の子たちと同じくらいには父親を疎ましく思っていたが、それでも死んでもいいと思えるほど険悪な仲ではなかった。パンデミック対策の会議で父が徹夜の連続であったことも、亜樹の身を案じていてくれたことも知っている。そして水際での阻止に失敗しウイルスが日本に上陸し、社会が混乱に陥っていた時は、亜樹も父の安全を願っていた。




 官僚とはいえ警察組織に属しているのだから、少なくとも一般人よりは安全だろう。亜樹はそう思い込むことで心の平穏を保とうとした。実際、それは役に立った。一カ月もすれば、外の世界が酷い有様であろうことも、父の安否が不明であることも思い出すことはほとんど無くなった。


 だが昨日の話を聞いて、亜樹も他の生徒同様絶望のどん底に落とされた。既に生きている人間よりも死んだ人間や感染した人間の方が多い。大都市圏は人口が大きい分感染者も多く、被害も甚大……。東京には1200万人の人間が住んでいたのだ。その内の一パーセントが感染者と化したとしても、12万体の感染者がいることになる。実際には、もっと多いだろう。


 警察官がそこらじゅうで死んでいたという少年の言葉も、さらに不安を掻きたてた。官僚である父は、実際に現場に立つことはほとんどないと聞く。しかしもしも人手不足で父まで現場に駆り出されていたら。あるいは勤務する警視庁の本部が襲われていたら。


 そもそも警察官の方が一般人よりも危険であるということを、亜樹は忘れていた。いや、考えないようにしていた。感染者が発生した場合、真っ先に駆けつけて対処するのが警察の人間なのだ。いくら拳銃を持っているからといって、死ぬ可能性は一般人と変わりない。少年が持っていた武器が警察のものであるということが、その事実を証明している。






 改めて文明社会の終焉が訪れてしまったことを実感し、亜樹の心の中は恐怖と不安でいっぱいだった。他の生徒も同じなのだ。授業への出席は強制ではなかったが、今まではほとんど全ての生徒が毎日参加していた。それが今では半分しか出て来ていない。同室の葵はミリタリーマニアなので、銃を持っている少年のところへ行っているのは間違いないと亜樹は思っていたが。




「……今日はこれでおしまい。こんな状態じゃ皆、授業に集中できないでしょ? お昼ご飯を食べた後、皆で手分けして二年生のケアに当たりましょう」


「先生、あの男子はどうするんですか? 一応今日まで滞在を認めるとは言っていましたが」




 眼鏡をかけた佐久間が、挙手して言った。その言葉に、裕子は首を横に振る。




「その通りだけど、こんな状況じゃ彼も出て行くことは出来ないでしょうね」




 窓の外に広がる世界は、真っ白に染まったままだ。結局雪は大人の膝くらいの高さまで積もり、加えて曇り空によりまったく溶ける気配がない。少年が校舎の正面に乗りつけたワゴン車も、ポーチに吹き込んできた雪でタイヤが半分埋もれてしまっている。天候は回復しないし、今後も雪が降る可能性がある。当分の間、少年はここから動くことが出来ないだろう。




「雪が積もっている間は、私も彼の滞在を認めざるを得ません。好まざる客といえど、雪の中に放り出すわけにはいきませんからね。しかし雪が融けて再び行動が可能になった時、彼には出て行ってもらうべきだと私は思います。あの男子は危険です」


「危険? 確かに銃とかいっぱい持ってるけど」


「先生も昨日聞いたでしょう? 彼は人を殺したと言ってるんですよ? そして彼が銃を持っている以上、それは嘘ではないはずです。人殺しと一緒に暮らせますか? 私にはできません」




 佐久間の言うことにも一理あった。確かに彼はどこか危険だと、亜樹の本能が告げている。昨日も話をしている時に、少年の目にはほとんど感情が伺えなかった。


 亜樹は少年をロボットみたいだ、と思った。決められたプログラムに従い、自己保全を第一として行動を続けるだけのロボット。「生き延びる」という目的を達成するならば、障害となる全てを排除してもおかしくは無い。そんな雰囲気を少年は漂わせていた。彼が人を殺したのは本当だろうと、亜樹は感じていた。




「でも正当防衛って言ってたよね、あの子」




 そう言ったのは、やはり三年生ということで授業に出ていた礼だった。彼女だけは、少年が来てからも以前と同じように見える。礼も少年と同じく何を考えているかわからない奴だと亜樹は思っていたが、ベクトルが違う。少年が無表情で感情が伺えない存在とするならば、礼は常に笑顔という仮面を顔に張り付け、心の中を誰にも読ませないようにしている奴だ。とにかく、飄々とした態度の彼女は、普段から何を考えているかわからない。




「外の様子も皆薄々わかってたんだし、正当防衛で人を殺すこともあったんじゃない?」


「だからといって、彼が危険じゃないって証拠はないでしょう? あなたも三年生なら、皆のために考えて行動したらどうなんです?」


「その皆のためを思えば、今後もあの子にはいてもらった方がいいんじゃないの?」




 礼は昇降口前のポーチに停まったままのワゴン車を、窓から見下ろしながら言った。ワゴン車の後部ドアを開けた少年が、後部席のシートを何やら捲っている。礼は少年が手にしているのがライフル銃だとすぐに分かった。




「彼の話が本当ならば、この学院の外は私たちが考えているよりもはるかに最悪な状況だってことになる。もしかしたら、モヒカンに肩パッドを装着したヒャッハーな集団が、バイクに乗って攻めて来るかもね」


「今時そんな恰好の人たちはいません」


「今のは例えだって。でも、法律も警察も無くなったのをいいことに、やりたい放題やっている奴は絶対にいる。そして感染者だって死に絶えていない。私たちが今まで平和に暮らせていたのは、単に運が良かっただけだよ。もしもそんな連中がこの学院に来ていたら、今頃私たちは死ぬかそれよりもっと酷い状況に置かれていただろうね」




 女だけで、武器もろくに持っていない。そんな状況で感染者か暴徒にでも攻め込まれたら、亜樹たちは逃げることしか出来なかっただろう。銃でもない限り、戦うのは不可能だ。


 だがその銃を少年は持ってきた。それも一丁だけではなく、恐らくここの全員が武装できるだけの銃を。礼が言いたいのはそのことだった。




「幸い彼には実戦経験もあるし、こっちには葵ちゃんもいる。……まあ彼女の場合、ミリタリーオタクで知識が深いってだけだけど。それでもド素人よりはマシだ」


「まさか、私たちも戦うべきだと?」


「むしろ今まで戦わなかった私たちの方が、この世界にとっては異常なんじゃないかな? もうこの学院で生温い平穏な日々を送るだけの生活は終わった。これからは私たちも、あの子みたいに戦わなければ生き残れない」




 今まで平和に暮らせていたのはこの学院が人目につかない場所にあったことと、食料を始めとした大量の物資が備蓄されていたからだ。しかしその物資も9か月以上の生活によって、大分消費されてしまった。温室で野菜を育てたりしてかなり節約しているつもりだが、それでもこのペースではあと一か月で食糧は無くなる計算だった。




「倉庫にある非常食が無くなれば、温室の野菜だけでは食べていけない。もう誰もトラックで学院に食料の補充に来てはくれないんだよ。でも外にはまだ、物資が残っている。それらを調達する時、高い確率で私たちは戦う羽目になると思う。その時に銃があればかなりやりやすいし、戦える人間がいれば生き延びられる確率も上がる」


「だから、彼を仲間として迎え入れろと? 素手に近い女ばかりの環境に、銃を持った男が一人。ロクな結果になるとは思えません」


「そこはホラ、色々と使える物は使わないと。色仕掛けでもなんでもやって、あの子をこっちの側に引き込む必要があるね」


「色っ……!」




 佐久間の顔が真っ赤になった。


 亜樹としてはあの少年が大人しく仲間になってくれた方が、礼の言う通り色々やりやすくなるとは思う。食糧の消費のペースが上がるが、それ以上にメリットの方が大きいだろう。


 だけどやっぱり、今一信頼できない。昨日時折少年が見せた、全てを諦めきったような瞳を思い出しながら、亜樹の思考はその地点に戻ってきてしまった。

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