第七八話 まずうちさぁ、浴場、あんだけど……なお話

 臭いから風呂に入れ。


 少年が裕子に言われたことを端的に表せば、そのような内容だった。学院に来て一夜を明かし、車を埋もれさせんばかりに積もった雪にゲンナリしていた少年に、裕子は言ったのだ。




「この学校、小型の風車とソーラーパネルが備え付けてあるから、一応電気は使えるの。外じゃまともに風呂とか入れなかったでしょ? 電気が使えるのは昼間だけだから、今のうちに入ってきたらどう? ほら、身だしなみとかって大事だし……」




 あからさまに「くさい」とは言わなかったが、彼女の目はそう言っていた。


 ライフラインが途絶えたせいで、風呂なんて長い間入っていない。昔ながらのドラム缶風呂ならば電気やガスが使えずとも入浴は可能だが、綺麗なドラム缶を見つけ、薪を探し、お湯を沸かしている余裕は少年にはなかった。なによりそんなことをしていたら、無防備のところを感染者に襲われて殺されかねない。


 かといって身体を洗わないのは不衛生極まりなく、病院も医者もない今の状況で病気になるわけにもいかない。一人で行動している間も数日おきに熱湯に浸したタオルで身体を拭いてはいたのだが、それにも限界があった。




「風呂か……もう何カ月も入ってないな……」


「でしょ? 今ならうちの子たちは授業中だし、風呂は空いてるわ」


「授業?」




 授業という単語は、もう9カ月以上聞いていなかった。既に学校なんてものは過去の遺物と化したと思っていたのだが、ここではまだ存在しているらしい。




「そうよ? とはいっても他にやる事がいっぱいあるから、昔みたいに朝から晩までってわけじゃないけどね。あなたも受けてみる?」


「僕は男子ですよ? 女装しろとでも?」


「そう言うと思った。でも、意外といいものよ? こんな状況でも授業が続けられるってことは。教育って大事なのよ?」




 確かに教育は大事だ。文字が読めなければ知識が詰まった本はただの燃えるゴミだし、計算が出来なければ物を数えることも出来ない。教育が充実していないばかりに大変な思いをしている人々は、平和な時代にもアフリカや中東に大勢いた。


 だが今の少年にとって必要なのは古文の単語や因数分解ではなく、単純に生き延びるための知恵や技術だった。優先順位の一番上に来ているのは感染者との戦い方で、その下に応急手当の方法や機械の直し方などが続いていく。平和な時代にやっていた受験勉強のための授業なんて、一番下だ。




「いえ、遠慮しておきます。正直、ここの人たちに歓迎されているようには思えないし」


「でしょうね、昨日も何度も私のところに生徒が来たわ。でも私はあなたを信じたい。まず相手を信じなければ何事も始まらないし」




 いい先生だな。少年は頭の片隅でそう思った。生徒たちが裕子を慕う理由もよくわかる。


 だけど生憎、少年は彼女とは反対側の立ち位置から世界を見ていた。誰も信じられない。信じられるのは自分だけで、残りの人間は敵かまだ敵じゃない人間でしかない。心を許せば、あっという間に食われる。殺されたくないのならば、誰も信用しない。




 ここの生徒たちが少年を歓迎していないのも、ある意味当然のことだった。9か月前の平和な日々でたとえるならば、ある日通っている高校に、突然内戦中の国から少年兵が転校してきたようなものだろう。


 生きてきた環境も常識も何もかもが違う。人間の汚い部分を徹底的に見せつけられ、今まで見ないふりをしてきた世界の現実と向き合わされる。もしも少年が彼女たちの立場にあったら、同じように今の自分を歓迎などしなかっただろう。


 外の過酷な世界を体現する少年になど、会いたくは無かっただろう。もしも少年がこの学院に来なければ、平和だった時代と同じ生活を続けていられたのだから。




 昔は同じ人間だった感染者を容赦なく殺し、自分一人が生き延びるためならば女子供も平気で手に掛ける。そんな人間は少年がよく観ていたハリウッド映画で、最後に筋肉モリモリマッチョマンの主人公たちに倒される悪役と同じだ。少年が憧れていたのは誰もを助けるヒーローであり、極悪非道な悪役ではない。


 こんな人間にはなりたくなかった、だけど世界はそれを許さなかった。かつて人だった存在が襲い掛かり、同じ人間ですら殺しに掛かってくる。少年が生き延びるためには、自分以外の全てを敵と見なす覚悟を持つ必要があった。そして生き延びるためのルールを定め、行動していった結果、今の自分がある。




 少女たちと会わなければよかった。そう思っているのは少年も同じだった。


 ある意味で彼女たちは純真無垢な存在だった。この9か月間学院の外に出ていないという少女たちは、人間はおろか感染者の一体すらも倒したことがないに違いない。いくらか環境が悪化しているとはいえ、パンデミック前の生活を続け平和だった時代の常識を持ち続けている彼女たちに出会い、少年はこの9か月間で変わり果ててしまった自らの醜さを思い知らされた。


 感染者すら殺したことがない彼女たちが、正直言って羨ましくもあった。もしも平和だった時代の少年が今の自分を見たら、きっと絶望するに違いない。憧れていたヒーローとは正反対の存在に、道を踏み外してしまったのだから。




 とはいえ、自分のやってきたことが間違いだとは思えない。いや、思いたくないのが少年の本音だった。手段はどうあれ、自分は生きるために最善だと思ったことをやってきたまでだ。もしも自分が間違った方法を選んでいたのならば、今頃あちこちに転がる死体か、涎を垂らして人間を追い求める感染者の仲間入りをしていただろう。だから少年は、自分が間違っていないと思い込もうとしていた。


 それでも少年は生きるためとはいえ、自分が捨ててきてしまった大切なものを彼女たちがまだ持っているように感じた。






「あれ、どこ行くんですか?」




 裕子が教室を出て行き、少年が着替えなどが詰まったリュックを持って教室の扉を開けると、ちょうど今通りがかったとでもいうかのように一人の少女が扉の前にいた。昨日少年の拳銃に目を輝かせていた、ミリタリーオタクの杉下葵だった。




「……何の用だ?」


「やだなあ、私は今偶然ちょうどたまたまこの教室の前を通りがかっただけで」


「お前ら普段は寮で暮らしているんだろ。授業をする時は二階の教室で、一階は使われていないってあの先生から聞いたぞ」




 普段一階を使っていないからこそ、一階にある教室が少年に割り当てられたわけなのだが。しかも先ほどから裕子が授業を始めているはずで、尚更一階を誰かが通り掛かるというのは考えられない。


 ばれちゃいましたか、と葵が頭を掻く。もしかしたら武器を奪いに来たのかもしれない、と少年は大腿のホルスターに収めた拳銃に、それとなく手を置いた。


 少女たちに歓迎されていない雰囲気は、十分少年にも伝わっている。自分を殺して武器を奪えば、脅威を排除し戦う手段も入手できる。平和な時代の常識に浸かっていた少女たちが昨日の今日でそんなことを考え付くとは思えなかったが、それでも何をするのかわからないのが人間だ。もしも葵が襲ってきた場合、即座にこの学院の生存者全てを殺害することを少年は決定していた。




「そのですね、この学院を案内しようかと思って来たんです」


「学校の案内図なら貰った。それに教室から外に出ることもほとんどないだろうから、案内は要らない」


「そんなことを言わずに、お願いしますよ。私、久しぶりに学院以外の人間と話したいんです」


「話なら昨日しただろう」


「昨日は質問タイムがほとんどなかったじゃないですか。それに昨日はショックで会話を続けられませんでしたし」




 まるで玩具を目の前にした子犬のようだった。目を輝かせる葵と数秒間視線を合わせた少年は、溜息と共に「わかったよ」と答えてしまっていた。


 今の葵からは、敵意や殺意といったものを感じ取れない。彼女は純粋に、自分と話がしたくて来たのだろう。少年はそう判断した。もっとも、いつ心変わりをするのがわからないのが人間という生物でもあるので、油断は出来ない。




「だけど、まずは風呂に入らないと。まさか風呂の中について来てまで話を聞きたいわけじゃないだろう?」


「よかったらお背中流しましょうか?」


「冗談に決まってるだろ」






 


 風呂場は寮の裏手にあった。元は多くの生徒が共同生活を送っていたということもあり、寮には大浴場が備わっているらしい。しかし発電所が機能停止した今、ソーラーパネルや小型風車で生み出せる電力量では大浴場を満たすほどのお湯はとても沸かせないとのことで、今は使われていない。


 今回少年が使用を許可されたのは、教師用の小浴場だった。シャワールームに、数人が一緒に入れる大きさのバスタブ。今となっては生徒たちはこちらの風呂場を使っているらしい。




「ぬああああああん疲れたもおおおおおおおん」




 そんなことを呟きつつ、少年は脱いだ服を脱衣所のカゴに突っ込んだ。裕子が来るまで教室でトレーニングをしていたせいで、汗でシャツがビショビショだった。体力の維持のためにも、少年は毎日筋トレを欠かしていない。いざという時に動けない、戦えないでは困るからだ。


 早く風呂に入ってさっぱりしたい。それが今の心境だった。やはり身体を拭いているだけでは、どうしても限界がある。




 今まで着ていた服は脱衣所に残していっても、流石に武器まで置いていくわけにはいかない。脱衣所の扉には鍵がかけられるが、この学院の人間なら鍵を持っているので無意味だ。風呂に入っている間に武器を奪われ、全裸で射殺されるなんて情けないことこの上ない。


 拳銃や刃物を防水仕様のリュックに突っ込み、少年は浴場のドアを開ける。風呂場といえども、気を抜ける場所ではない。




 教職員用の浴場はホテルや旅館にでもありそうな、ごくありふれたものだった。数人が一緒に入れる大きなタイル張りの浴槽と、いくつか並んだシャワーノズル。この学院では教職員も普段は泊まり込みで仕事をしているらしいので、教師たちもこの浴場を使っていたそうだ。


 冷え切った身体に、熱い湯が染みる。暖房でも厚着でも生み出せない熱が、身体の奥まで浸透していくのを感じた。親父くさい呻き声を上げた少年は、久しぶりの湯船に肩まで浸かった。


 風呂に入れただけでも、この学院を訪れた価値はあったかもしれない。改めて文明の偉大さに感謝しつつ、少年は久しぶりの風呂を堪能した。もしも自分が大人だったら、冷えたビールで一杯やっていただろう。






「あっつー」




 20分近く湯船に浸かったのち、少年はようやく風呂から上がった。真っ赤になった身体をタオルで拭き、リュックから予備の服を取り出す。


 今まで汚れていた服は手洗いしていたのだが、ここでは洗濯機も使えるらしい。電気様様だな、と思いつつ着替え終わった少年は脱衣所の扉を開けた。すぐ目の前の廊下の壁にもたれ掛かるようにして、葵が立っていた。




「次はどこ行きます? 図書館? それとも外の温室でも見に行きますか?」


「何で外は雪が積もってるのに、わざわざ風呂上りに外に出なきゃならないんだ。というか、僕が風呂に入っている間ずっと待ってたのか? 案内は要らないって言っただろ」


「えー、いいじゃないですか。私がやりたくてやってるんですから」


「ここの人たちに迷惑をかけるつもりはないから、勝手に出歩いたりはしないよ。だから案内は要らない。あっそうだ、お前さっき僕が着替えてる時、チラチラ見てただろ」




 脱衣所で着替えている時に、少年は葵の視線を感じていた。脱衣所と廊下はドアで仕切られているし、鍵もかけてあった。しかしドアにはめ込まれた擦りガラスの向こうから、葵が脱衣所を見張っている気配は何となく伝わって来ていた。




「いや、見てないですよ」


「嘘つけ絶対見てたぞ」


「何で見る必要があるんですか?」


「そりゃ、監視だろ。大方あの先生に、僕を見張ってろとでも言われたんじゃないか?」




 さっきから執拗について来て回っているのも、自分を見張るためではないかと少年は思っていた。昨日の今日で、この学院の生徒たちが少年のことを信用するはずもない。むしろ危険人物だと疑ってかかるのが当然だ。だから何かしでかさないように自分を見張ろうとするのは当然のことだと少年は受け止めていた。


 無論、監視を受けることについてはあらかじめ覚悟している。余計な戦闘を避けられ、彼女たちに危害を加えられないという条件が付くのならば、見張られる程度でことが済むのは大歓迎だ。しかしそれにも限度がある。行く先々についてこられたら、流石にウンザリする。




「何が目的だ? 物か、お金か? 金なら持ってないぞ、今じゃ何の役にも立たないからな」


「違います! 別に私は、裕子先生には何も言われてません。ただちょっと、その銃を見せてもらいたくて……」




 そう言って葵が指差したのは、少年の腰から下がる自動拳銃だった。そういえばコイツは昨日拳銃を見せた時、異様にテンションが高かったなと思いだす。




「おまわりさんのニューナンブとかM37なら散々見てきましたけど、日本国内で実物のUSPが見れるなんて! ちょっとでいいんです、触らせてください! 何でもしますから!」


「ん? 今何でもするって言ったよね?」


「はい、胸くらいなら揉んでもいいですよ?」


「えぇ……」




 彼女に羞恥心というものはないのだろうか? 男に免疫がないあまり、警戒を通り越して無抵抗になっているのではないか? そう思ったが、葵の場合は単に本物の銃を触りたいという一心からなのだろう。オタクやマニアという人種は、自分の目的ならば金だろうと何だろうと犠牲にするものだ。


 無論、頼まれたところでそう簡単に銃を触らせてやろうなどと少年は思わなかった。もしも武器を奪われて、その銃口がこちらに向けられたなら、自分の甘さの代償は自分の命で支払わなければならないのだ。




「断る」


「そんなぁ! じゃあ脱げばいいんですか?」


「脱ぐなよ。第一、今の僕は女に興味が無い」


「え? じゃあ同性愛者ってことですか?」


「違うよ。そんなことを考えている余裕なんてないってことだ」




 性欲なら売って歩けるほど余りある年頃だが、不思議と少年は女に飢えていなかった。マズローの欲求5段階説で言うならば、少年は最底辺の生存欲求とその上の安全欲求に基づいてのみ行動している。自己実現が出来る平和な社会は既に存在しないし、自分を認めてくれる人々も既に死ぬか理性を失ってしまった。少年はただ生きたいという欲求しか、今は抱いていない。性欲なんて抱いている暇はない。


 昔だったら葵の提案に一も二もなく乗っていたかもしれないが、今は何の魅力も感じない。自分以外の人間なんてどうでもいい、女だろうと知ったことではないというのが今の素直な心境だ。第一、誰が敵になるかもわからない状況なのに、性的な欲求が湧いて出てくるものか。




「一生のお願いですから! ほんのちょっと、先っぽだけでいいんで!」


「先っぽってなんだよ……」


「私、今までモデルガンしか触ったことがないんですよ。外国に行くにも未成年じゃ銃を撃てないし……。一回だけでいいんです、お願いします」


「……一回だけだぞ」




 どうやら葵が興味を抱いているのは、少年よりも拳銃の方なのだろう。となれば、おとなしく彼女の欲求を満たしてやれば、これ以上付きまとわれずに済むかもしれない。そう判断した少年は、太腿のホルスターから自動拳銃を引き抜いた。


 15発の9ミリ弾が収まった弾倉を取り外し、スライドを引いて薬室に装填されたままの銃弾も排出する。これで拳銃は、ただの金属とプラスチックの塊になった。葵が銃弾を持っていて、手渡した瞬間素早く装填し発砲する、という事態も想定しなかったわけではない。しかし日本では拳銃用の9ミリ弾は入手が困難だし、今まで学院の外に出ていなかった生徒たちが銃弾を手に入れているという可能性はゼロに近い。


 それに万が一葵が銃を向けて来ても、即座に射殺できる自信が少年にはあった。腰に巻いた弾帯には、予備のリボルバー拳銃が収まったホルスターが下がっている。もしも葵が不審な動きを見せた場合は、すぐさまもう一丁の拳銃を引き抜くつもりだった。弾が入っていなくとも、人に銃口を向けた時点で敵意ありと見なされるのが当然なのだ。




「僕に銃口を向けるなよ。向けた瞬間に殺す」


「大丈夫ですよ。味方には銃口を向けない、撃つ時以外は引金に指を掛けない。常識ですから」




 味方、という言葉が引っかかったが、少年は葵の差し出した手に自動拳銃を載せた。葵はその重さに少し驚いたのか目を見開きつつも、手にした拳銃をしげしげと眺める。見つめすぎて穴が開くのではないかと思うほど観察を終えた後、グリップを両手で握り、少年がいない方へ向けて拳銃を構えた。




「すっごい……」




 本物の銃を触ったという嬉しさを隠し切れない葵とは対照的に、少年の心は冷めたままだった。


 葵はきっと、あの銃の元の持ち主がどんな最期を迎えたのか知らないのだろう。そしてその拳銃から吐き出された銃弾が、感染者と人間を問わずどれだけの命を奪ってきたのかも。


 葵は銃を殺人の道具ではなく、平和だった時代と同じように自分の趣味の対象としてしか見ていないのだ。しかし少年は葵のその純粋さが、少しだけ羨ましかった。今の自分が純粋とは程遠いところまで来てしまったことを、よく理解していた。

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