第七七話 18歳、高校生です。のお話

 少年が裕子に案内された教室は、机や椅子が並べられたままだった。まるで世界が一変してしまう前と同じで、朝になればいつも通り授業が行われそうな光景だ。


 ずっと放置されたまま――――――というわけではなさそうだ。机や椅子に埃は積もっていないし、床も綺麗だ。まさか裕子たちは、利用しない教室の掃除を毎日やっていたとでもいうのだろうか?




「そうよ? 掃除は大事でしょ?」




 何を当然なことを、と裕子は言った。いつも通りの行動を繰り返すことで外の現実から目を逸らし続けていたのか、それとも単に無駄な事をし続けるだけの余裕があったのか。裕子の様子を見る限り、後者だろうと少年は思った。彼女たちは外で何が起きているのかを、正確に理解していない。もしも外の世界の惨状を知れば、体力の無駄にしかならない掃除なんて止めるだろう。




 他の仲間と話してくると言って、裕子は少年に宛がった教室を出て行った。誰もいない薄暗い教室を見回し、少年は溜息を吐く。こんな状況で自分を自由にさせるとは、馬鹿なのかお人よしなのか。だがそのどちらでも生きていけないのが今の世の中だ。馬鹿は言わずもがな、お人よしは利用された挙句殺されるだけだ。




「にしても、流石お嬢様学校だな」




 そう呟き、手近な机に腰掛ける。椅子も机も、少年が通っていた県立高校とは比べ物にならないほど良いものを使っているのは明らかだった。使われている天板の材質からしてまず違う。


 しかし邪魔にしかならないので、それらをどかしてどうにか身体を横たえられるスペースを作る。ハッキリ言って机などバリケードの構築にしか役に立たなそうだが、勝手にものを壊したり乱雑に扱うのはマズイだろう。重い机と椅子を引きずり、空いたスペースに持参した寝袋を敷く。




 少年が就寝の準備を終わらせたちょうどその時、ランタンを持って裕子が教室に戻ってきた。




「これからあなたに、一緒に寮に来てもらうわ。外の様子を知りたがってる子が大勢いるから、話してもらえるとありがたいんだけど」




 少年が年下であることを知ってから、裕子の口調は生徒を相手にする教師のそれになった。少年としては泊めてもらえる代価が話をするだけならば大歓迎だが、生存者たちが歓迎してくれるかどうかはわからない。念のため裕子に気づかれないように武器を点検しつつ、彼女の後に続いて教室を出た。


 ソードオフの入ったリュックも一緒に持って行く。少年が散弾銃も持ちこんでいることは知らないのか、腰回りの拳銃や斧に目をやった裕子は、ため息交じりに言った。




「皆が怖がるから武器は置いて行ってほしいんだけど……と言っても無駄よね?」


「むしろ僕の話を聞いたら、皆が武器を持ちたいと思うようになるかもしれませんよ?」




 余所ではどうだか知らないが、少年の知る限り警察も自衛隊も既に機能していない。誰も守ってくれないのならば、自ら武器を手に取り生き延びるために戦わなくてはならない。戦いを拒否すること、武器を手にしないことは死にたいと言っているようなものだ。


 時折風が強まり、雪が窓を叩きつける鈍い音が響く。外に視線をやると、少年が校庭に残してきた足跡やタイヤ痕は、ほとんど雪に埋もれつつあった。これでは、当面ここから移動できないだろう。もっともこの積雪では感染者も生存者も移動できないだろうから、この学院に立て籠もっている11人が襲ってでも来なければ安全地帯なのだが。




 校舎と寮は渡り廊下で繋がっていて、わざわざ外に出ずに寮まで行く事が出来た。寮に入るなり、不機嫌そうな顔の女子が少年を出迎える。佐久間と名乗ったその少女は、この学院の生徒だそうだ。彼女が自分を歓迎していないであろうことは、人の心の機微を読むのが苦手な少年にでもわかった。


 一階の談話室には、この学院に残った全ての人間が集まっている。少年は裕子と話す際、出入り口を塞ぐバリケードの向こうで蠢く人影を目撃していた。しかしそれらが全て自分と同い年か、それより下の少女ばかりである事ははっきり言って衝撃的だった。


 今や銃を持った大人たちでも生き延びるのが難しいのに、ほとんど非武装に近い少女たちが10人も生き残っているとは。裕子という大人が一人いるとはいえ、その運の良さを少年は羨ましく思った。




 期待、不安、恐怖――――――さまざまな感情が入り混じった少女たちの瞳が少年を見据える。一番奥のソファーに案内された少年は、車のシートとは比べ物にならないその柔らかさに気が抜けそうになりつつも、まずは自分の名前を名乗った。




「僕は18歳、高校が続いていたら三年生で今頃は受験勉強の真っただ中だったと思う」




 少年がそう言うと、少女たちの間からは驚いたような声が上がった。「わたしと同い年……?」「嘘でしょ?」という声がちらほら聞こえる。自分たちと同年代の人間が武器を手に、こんな場所を一人で行動していたのが信じられないのかもしれない。


 自分自身、未だに18歳であるという事実を少年は信じられなかった。この9か月間で、何年分も一気に老け込んでしまったような感じだ。顔に皺は無いし白髪もまだ生えて来ていないが、それでも9か月前と比べると自分の顔つきがすっかり変わってしまったのを、毎朝鏡を見るたびに実感させられる。


 平和だった時代が、もう随分と昔のことのように思える。パンデミックからまだ一年も経っていなかったが、少年は何十年も昔のことのように感じていた。それだけこの9か月の間に、様々な事を経験してきたのだ。




「それで、この中で外がどんな様子なのか知っている者は?」




 少年が言うと、少女たちは顔を見合わせ、何人かが恐る恐るといった感じで手を挙げた。その中の黒髪を首の後ろで束ねた少女、亜樹を指名する。




「えっと、病気に感染した人間が普通の人を襲って、あちこちパニックになっているって話はテレビで見たけど……」




 その言葉と共に、亜樹の視線が少年の脇にあるテレビに向いた。電波が入って来ない以上、テレビはただの置物だ。一応この学院には小型の風車やソーラーパネルがあるようなので、映像の再生には使えるが。それでもテレビから情報を得ることは、もう出来ない。




「正解、だけどもうパニックは収まってる。感染者は人間を襲い、食い殺す。もう大半の人間が感染者になるか死んだ、生きてる人間を数える方が早いくらいだ」


「わたしの実家は東京にあるんです、東京が今どうなってるかとかって知りませんか?」




 一人が言うと、口々に「四国は?」「京都は?」「青森はどうなってるの?」と尋ねられた。佐久間が静かにするように言ったが、少女たちは不安そうな顔で口々に自らの出身地の現状を訪ねてくる。


 いくら平和な生活を送っていたとしても、内心は恐怖と不安で一杯だったのだろう。外との通信は途絶し、世界がどうなっているのかもわからない。特にこの小百合女学院は全寮制ということもあり、全国から生徒が集まっていたと裕子は言っていた。家族や友人の身を案じるのは、人間として当然のことだ。




「東京も四国も、どうなっているのかははっきりとはわからない。詳細がわかる前にテレビもラジオも使えなくなった。でも、無事である可能性はゼロに近いと思う。政府は東京を離れて東北以北に臨時首都を置いたらしいけど、それもどうなってるか……」


「でも、警察や自衛隊が出動してたじゃない。どこか無事な場所もあるはずよ」




 亜樹がそう言ったので、少年は腰から拳銃を引き抜いた。「H&KのUSP、どこで手に入れたんですか!?」と一人が目を輝かせたが、それ以外の少女は皆悲鳴を上げて少年から遠ざかった。




「大丈夫、この場でドンパチを始めるつもりも、君たちを脅すつもりもないから。で、質問。日本で拳銃を持てる人間は?」


「自衛官や在日米軍の兵士とその基地警備員、警察官、海保職員に税関職員や厚労省の麻薬取締官と、後は入国管理局の関係者ですね。射撃競技の選手なんかも数はかなり少ないけど持ってたはずです。あ、私は二年の杉下葵って言います」




 葵と名乗った黒髪を肩まで伸ばした少女が、暗記でもしているかのようにスラスラと言った。どうやら彼女はミリタリーオタクらしい、と少年は悟った。普通の女子高校生、しかもお嬢様学校の生徒が拳銃の名称やメーカーを知っているわけもないだろう。少年だって教えてもらうまでこの拳銃の名前すら知らなかったのだ。それを知っている上に、拳銃所持が許可されている職業を全て答えられる彼女は、きっと軍事関係には詳しいに違いない。




「そう。で、この拳銃はその中のどの機関が採用しているものだかわかるか?」


「警察のSATですね、自衛隊の特殊作戦群でも使われているって話ですけど。あ、そういえばさっきのMP5も警察で使われてますね」


「そう。で、そんな銃を民間人である僕が持ってるってことは警察は既に壊滅状態、あちこちに銃を持った警官の死体が転がってるってことだ。どこの警察署に行っても警官はいない。自衛隊も、部隊として統制を保ったまま行動しているのはほんの一部だと思う。少なくともこの9か月間、僕は生きてる警官も自衛隊員も見かけていない」




 何人か警察官とは遭遇したが、そいつらは僕を殺そうとしたので除外でいいだろう。そう思った少年は、敢えて自分を襲ってきた警官たちのことは言わなかった。第一連中が統制を取れていたのは、感染者となった家族を生かすという少年からしてみれば理解できない理由からなのだ。




「じゃああの猟銃は……」


「あれも自衛用に入手したものだ。今じゃ同じ人間だからと言って、簡単に信頼は出来なくなってる」


「どうしてですか?法律も秩序も無くなったんだからやりたい放題やる人は出てくるかもしれませんが、皆で協力すれば……」




 一年の女子の言葉を、少年は鼻で笑いそうになった。協力? とんでもない。今や少年にとって人間とは、敵か利用できる存在かの二種類にしか分けられない。いつ裏切られるかわかったもんじゃないのに、協力など出来るものか。




「こんな時だからこそ、協力なんて出来ないんだよ。これが地震や台風なら、皆で一致団結して協力しましょうってなるよ。何日か待てば日本のどこかから救援がやって来るんだから。でも今じゃ政府は実質的に存在していないし、こういった事態で頼りになる自衛隊も警察も壊滅状態だ。日本のどこからも――――――いや、世界のどこからも救助も援助もやって来ない」




 少年はいかに外で物資を得るのが困難なのかを語った。




「スーパーに行っても、もう新鮮な商品は並んでいない。商品を運んでくるトラックの運転手も、倉庫で仕分けをする作業員もいない。それどころか商品の生産者すら死んでいるだろう。農業でもやっていない限り、食料は今ある分しかない。それを分け合っていたらあっという間に無くなってしまう。だから他人を踏み台にしてでも自分が全てを得るしか、生き延びる道は無いんだ」


「そんな……それじゃまるで地獄じゃないですか」


「地獄だよ、この世界は。そんなことも知らなかったのか?」




 今度は佐久間が口を開く。この学院に来てからずっと少年によくない印象を抱いているらしい佐久間は、少年の話を聞いてますます眉をひそめていた。笑えば可愛いのに、と少年は何となく思った。思っただけだが。




「学院の外が無法地帯だってことはわかりました。ではあなたは今まで人を傷つけたり、殺したりしたことはありますか? もしもあなたが人殺しならば、私たちはあなたを信用することが出来ない」




 その質問に正直に答えるかは、少し迷った。大人しくイエスと答えれば、今すぐここを出て行けと言われるかもしれない。ノーと答えても、彼女たちは自分を疑い続けるだろう。もっとも、出て行けと言われたら実力を行使してでも居残るしかないのが少年の立場であり、それを実行できる能力も意志もある。大人しく答えても支障はないと少年は判断した。




「あるよ、何人も。というか僕が持ってる銃の大半は、殺した相手から奪ったものだ」


「――――――ッ!」


「ただ一つ言っておきたいのは、僕が人を殺したのはあくまでも自分の身を守るためだ。決して自分から誰かを襲いに行ったり、物資を奪おうとして殺したわけじゃない。そこのところは覚えておいてほしい、僕は快楽殺人者じゃない。君たちが襲って来ない限り、僕は君たちを殺すつもりは全くない」




 第一、感染者も人間に含めるのならば、生存者の半数以上は殺人者ということになってしまう。


 出来れば無用な争いは避けたいところだが、相手が自分に危害を加えようとしてきているのに大人しくしているわけにもいかない。抵抗しなければ殺される、戦わなければ生き残れない。


 自分の命を守るためだったら、少年は他の人間全てを殺しても構わないと思っていた。何よりも優先すべきは自分の命、他人の命をいくら積み上げても釣り合うものではない。生き残るためだったら女子供でも殺す覚悟だし、実際にやってきた。




「外は地獄だ。困っていても、誰も助けてはくれない。昨日まで一緒だった仲間が、今日には死ぬか感染者になっている。親しい者を、自分の手で殺さなければならないこともある。それが今の世界だよ」




 もはや誰も口を開く者はいなくなっていた。「……お話、ありがとうございます」と佐久間が言うと、少女たちはふらふらと談話室から出て行った。出て行く際に何人かは少年を睨み、何人かはすすり泣いていた。


 彼女たちは僕を責めているらしい、と少年は何となく感じた。彼女たちが今まで呑気に暮らしていられたのは、単に運が良かっただけではない。外で起きていることをから目を逸らし続け、知らないフリをすることで平穏な生活が続くと思っていたのだろう。誰もが今までの平和な世界は崩れ去ってしまったことを心の底では理解しながらも、そのことに気づかないようにして今まで通りの生活を送ろうとしていた。




 だがいつまでも知らないフリは続けられない、だから彼女たちは少年に外の様子を訊こうとしたのだ。そして少年は彼女たちに現実を突き付けてしまった。彼女たちの平和な生活は、見せかけだけのものだったということを。外ではもう、彼女たちの知る世界は無くなってしまったことを。


 地元に残してきた家族や友人は、もう全員死んでしまったかもしれない。将来叶えたいと思っていた夢が潰えてしまったかもしれない。少年が彼女たちに提示したのは「現実」であり、同時に「絶望」でもあった。この世界にはもう、絶望しか残っていないのだから。




 だがパンドラの箱を開けてしまった彼女たちがどうなろうと、少年の知ったことではなかった。ここに来たのは偶然で、しかも雪解けまで滞在するだけの予定だ。別に少女たちに特別な感情を抱いているわけでもなく、彼女たちが何を思っているのかも少年にとってはどうでもいいことだった。


 だが開かれたパンドラの箱に希望が残っている可能性は、限りなく低いだろう。かつて自分がそうだったように、希望を抱いてもこの世界は容赦なくそれを奪っていく。大切なものは全て失われる。


 希望なんてどこにも存在せず、あるのは絶望だけ。そのことを少女たちに直接教えなかったのは、自分の滞在を認めてくれた彼女たちに対する少年なりの礼だった。

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