第七〇話 ただひたすら走って逃げ回る子供たちのお話

 太田おおた 裕樹ゆうきは逃げ惑っていた。灰色の雲に覆われた空の下、あちこちに死体が転がる町の中を必死で駆け回る。背後で銃声が響くたびに、悲鳴が聞こえるような気がした。


「くそっ、何だよあいつ! 反則だろ!」


 手には警察用のリボルバー拳銃があるが、弾切れ寸前のこんなものでは「あいつ」には歯が立たないだろう。何せ「あいつ」は拳銃だけでなく連射が出来る短機関銃サブマシンガンを所持していたし、乗って来ていたワゴン車には何丁も銃が積まれているようだった。



 ワゴン車に乗って町にやって来た「あいつ」を襲撃しようと決意したのは、昨日の夕方だった。既に避難所の食料はほとんどなくなり、町に出て民家を漁っても得られるものはほとんどない。一日の食事がクラッカー一枚と薄切りのサラミが一切れ、そんな生活がもう一週間も続いている。

 中学生である裕樹は、パンデミックが起きた直後に親に連れられ避難所にやって来た。感染した人間の理性を消滅させ、凶暴化させるウイルスが全世界で拡大しているのはテレビで知っていた。そして幸いなことにこの町の人口はさほど多くはなく、ウイルスが日本に上陸してからも、裕樹たちは一度も感染者を見かけることはなかった。


 問題なのは感染者よりも食料を始めとした物資だった。避難所に指定された小学校にやって来たのは裕樹の家族も含めて500人ほどだったが、その大半が事態を楽観視していた。以前新型インフルエンザの流行が叫ばれた時だって、結局大きな被害は出ずに事態は収束した。今回も避難所に篭もってしばらく待っていれば、政府が終息宣言を出して助けに来てくれるだろう。そんな希望を抱き、念のためにバリケードを築いたりフェンスを補修して、避難所の人々は救助を待っていた。


 しかしいくら待っても、政府が事態収束の宣言を出すことは無かった。それどころかライフラインは途絶し、車の往来も無くなった。備蓄された食料が枯渇するまでに、そう長い時間はかからなかった。

 非常時に備えて学校に保管されていた食料が無くなってからは、避難所を出て民家や商店を漁ったり、校庭を耕して畑を作ろうとした。しかし元々人口が少ないこの町にはそれほど商店が存在せず、試行錯誤を経てどうにか完成した畑で獲れる農作物も微々たる量だった。半年が経過する頃には、避難所の人々は慢性的な飢餓状態に陥っていた。

 栄養事情が悪化し、それに加えて医療体制が文字通り崩壊した事で、避難所では次々に死者が出るようになった。校庭は畑よりも墓地の面積が広くなり、毎朝誰かが永遠に目を覚まさないことも珍しくは無い。




 そして10月も半ばに差し掛かった一か月前、大人たちは町の外へ物資調達に出かけた。既に町の民家に残っていた食料はほとんどが回収され、消費されていた。生き延びるためには町の外から食料を調達してくるしかなかったのだ。

 腕に自信のある男たちと、猟銃所有者を集めて結成された20名近くの食料調達班は、誰一人として戻ってくることは無かった。帰って来ない夫や息子を探そうと、避難所を出て行った女性たちの行方も分からない。結果、避難所には子供たちばかりが取り残されることになった。何人か残留していた大人は、避難所内で流行していたインフルエンザをこじらせてすぐに死んだ。


 子供しかいなくなった避難所で、中学生の裕樹は最年長者だった。病気や栄養失調で避難所の人間は次々と死んでいき、残っていたのは小中学生合わせて20名ほどという有様になっていた。




 二週間前、裕樹たちは一台のトラックがこの町にやって来るのを目撃した。元々車の往来も少なかったこの土地を絶好の避難先と考えたらしい、大人の生存者二名がトラックには乗っていた。そしてその荷台には、物資が入った段ボール箱がいくつか積まれていた。

 彼らを襲おうと子供たちが決意するまで、そう長い時間はかからなかった。裕樹たちは助けを求めるふりをして二人の生存者に近付き、そして隠し持っていたナイフで滅多刺しにした。子供ということで油断していた生存者は彼らを助けようと不用意に近づいてしまい、そして子供たちに殺された。


 生存者たちの善意を裏切る形になったが、裕樹たちに後悔は無かった。今は自分たちが生き延びることが最優先事項であり、仲間以外の人間なんてどうでもいい。裕樹たちは地面に転がる二つの死体には目もくれず、トラックに積まれていた食料を略奪して避難所に帰還した。

 しかし二人分ではかなりの量になる食料も、20人で分け合えばあっという間に無くなってしまう。再び裕樹たちは飢え始めた。そして死体を掘り起こして食料にしようかと本格的に考え始めたその時、「あいつ」の乗ったワゴン車がこの町にやって来たのだ。


 当然、裕樹たちは襲撃を決意した。殺した生存者たちは、二丁の拳銃を持っていた。予備の弾は無いが、見張りの話によればやって来た生存者は一人だけだという。余裕で殺せるだろうと判断した裕樹は、他に6名の仲間を集めてワゴン車に乗った生存者を襲いに向かった――――――。




 またも響いた銃声で、裕樹は我に返った。一緒に「あいつ」を襲いに向かった6人の仲間のうち、あと何人が生き残っているのか。もしかしたら自分が最後かもしれないと思い、裕樹は恐怖した。


 「あいつ」は、当初にこやかに裕樹たちを迎えたように見えた。心配するような声を掛けたが、自分からは決して近づこうとしない。仕方なく裕樹たちが近寄って懐から銃を取り出したその時、「あいつ」は肩に掛けていたサブマシンガンを構えると、並んだ子供たちに対してフルオート射撃を加えたのだ。


 とっさの事態に対応できたのは、裕樹ともう一人の男子だけだった。小学生も中学生も、男子も女子も撃たれた。武器を取り出した瞬間に、「あいつ」は裕樹たちが自分を襲うことを予測していたかのように撃ってきた。

 倒れた子供に冷静にトドメをさす「あいつ」を見て、裕樹たちは逃げることしか出来なかった。助けを求める子供たちの呻き声を無視し、威嚇射撃をしつつ裕樹たちは逃げた。FPSゲームをやっていた裕樹は自分には銃の才能があると思い込んでいたが、銃弾は一発も「あいつ」に当たらなかった。


「何なんだよあいつ! 俺たちとそう歳が変わらない癖に!」


 手にしたリボルバーの残弾は二発。これでは到底、「あいつ」を倒すことなど出来ない。

 とにかく今は逃げなければ。そう思って避難所の方に向けて走り出そうとした時、裕樹は突然足に力が入らなくなったことに気づいた。ふと自分の右足を見てみると、ズボンのふくらはぎの部分が真っ赤に染まっている。それが自分の血であることに気づいた瞬間、強烈な痛みが襲い掛かってきた。


 激痛に悲鳴を上げる裕樹は、視界の隅で何かが動くのを見た。痛みをこらえ、座り込んだまま残弾二発の拳銃を撃つ。次の瞬間、握りしめた拳銃が指ごと吹っ飛ばされた。


「うっ……ぎゃあああああああっ!」


 今や単なる赤い肉の塊と化した右手を左手で押さえ、激痛にのた打ち回る裕樹に一人の少年が近付いていく。涙で滲む視界の中、裕樹は高校生ほどの年頃の少年の顔を見上げた。

 額から右の頬にかけて走る、抉られたような傷跡がまず目についた。しかしその瞳からは、一切の感情が伺えない。まるでロボットみたいだ、と裕樹は思った。


 少年は車の時とは違い、手には長い自動小銃を携えていた。スコープが取り付けられたそれで足を撃ち、拳銃ごと自分の手を狙撃したのだろう。太腿には拳銃の収まったホルスターが、着込んだタクティカルベストにはライフルや短機関銃の弾倉に加えて手榴弾までもがポーチに収まっている。まるで自衛隊員のようだった。


「なんなんだよ、お前……!」


 返事の代わりに、少年が思いきり撃たれた裕樹の右足を踏みつける。硬いブーツの靴底が、傷口を押しつぶしてさらに裕樹に激痛を与えた。壊れた蛇口を捻ったかのように、撃たれた右足から血が流れ出し地面にしたたり落ちる。


「や。僕を襲おうとしている連中の中で、生き残ってるのは君一人だけだよ」


 まるで友達に話しかけるような、それでいてぞっとするような口調で少年は言った。死にかけている虫を観察するような、無機質で無感動な視線を裕樹に投げかける。少年のその目を見た裕樹は、思わず失禁してしまっていた。


 俺たちは手を出してはいけない相手を襲ってしまった。裕樹はそう悟った。武器や人数の問題じゃない、この少年を相手にしてはいけなかったのだ。一秒前までは心配していた子供たちを、武器を見せた途端容赦なく撃ち殺すこの少年は、殺人に対して禁忌を抱いていない。

 裕樹たちですら、人を殺すことに罪悪感を抱いていた。しかし生き延びるためという言い訳をして、二人を殺し武器と物資を奪ったのだ。だが目の前の少年は、当たり前のように人を殺しているのだ。でなければあんな手つきで、数秒で4名の命を奪うことなど出来ないだろう。


 コイツは壊れている。そう直感した裕樹に、再び少年が言った。


「それで、君の仲間はあれだけじゃないんだろう? もっといるはずだ。君の仲間はどこにいるか、教えてくれないかな?」

「何の事だか――――――」


 避難所にはまだ10人以上仲間が残っている。もしも自分が避難所の場所を吐いてしまったら、目の前の少年はまっすぐそこへ向かうだろう。そして他の5人を殺したように、生き残った子供たちに銃弾を浴びせかけるに違いない。

 リーダーとして、何としてもそんな事態だけは避けなければならなかった。痛みを堪えて誤魔化そうとした裕樹だったが、無駄だった。少年は無事な裕樹の左手を、思いきりブーツで踏みつけたのだ。


 骨が折れる音と共に、指が数本、あらぬ方向へとねじ曲がる。耐え切れない激痛に再び悲鳴を上げた裕樹の髪を掴んで持ち上げた少年は、顔同士が触れそうな距離でこう言った。


「強情を張るのは止めろ。僕はただ、君たちが襲ってきた件について君のお仲間に色々と尋ねたいだけだ」

「どうせ皆殺しにするつもりなんだろ……!」

「しないよ、今のところは。何で襲ってきたのか理由を聞いて、謝罪と賠償をしてもらって、そして今後一切僕に手を出さないと約束してくれるならね。だから生き残ってる君の仲間の居場所を教えてくれないかな? そうすれば君を解放しよう」


 相変わらずその目からは、何の感情もにじみ出ていない。あるのはただひたすらに深く、暗い闇だけ。

 もはや痛みに耐えることなど出来なかった。少年が裕樹の足の傷口に指を突っ込むと、再び血が溢れだす。数秒前の決意を消し去る激痛に耐えきれず、裕樹は叫んでいた。


「学校、学校です! ここから北に行った小学校の体育館に皆います! 許してください、襲ってごめんなさい!」


 最後の方は泣き出していた。中学生と高校生という歳の差だけではない、本能的な恐怖心が裕樹に謝罪の言葉を口にさせていた。まるで幼い子供のように「ごめんなさい、許してください」と繰り返す裕樹に少年は相変わらず無機質な視線を注ぐと、掴んでいた彼の髪の毛を手放した。


「嘘じゃなさそうだね」

「本当なんです、信じてください!」

「わかったよ、信じよう。じゃあ約束通り、君を解放してあげるよ」


 助かったと裕樹が安堵する間もなく、少年はホルスターから拳銃を引き抜く。自分の頭に突き付けられた銃口を見て、裕樹は顔を引き攣らせた。


「か、解放するって……」

「言ったよ、でも殺さないとは言ってない。それに僕はルールを決めたんだ。自分に脅威を与えるものは絶対に排除する、ってね」

「そんな――――――」


 最後まで言う前に、少年は引金を引いた。ドイツ製の自動拳銃から放たれた9ミリ弾は、過たずに裕樹の額に突き刺さる。頭蓋内で脳味噌をかき回した後後頭部から外に飛び出た銃弾は、弾頭が潰れてマッシュルーム状になっていた。


 全身から血を垂れ流して倒れた裕樹は、もはやピクリとも動くことは無かった。その死体に視線を留めていたのも一瞬のことで、すぐに少年の視線は裕樹の指ごと吹っ飛ばしたリボルバーの方に向く。

 大口径の7.62ミリ弾は裕樹の指を引き千切っただけではなく、その手の中のリボルバーのグリップに命中してへし折ってしまっていた。仕方なく弾だけを回収しようとシリンダーを振り出すも、残弾はない。


「弾切れか」


 物言わぬ躯と化した裕樹に、少年は呟いた。


「小学校……って、言ってたよな」


 彼らには選択肢があった。そして彼らは僕を襲うという間違った選択をしたのだから、その代償を支払うのは当然だろう。襲ってきた連中たちと、小学校に残っているという仲間たち。その内の片方には死を以って代償を支払ってもらった、後は学校の連中だけだ。


 少年はそんなことを考えつつ、北に向かって歩き出す。乗って来たワゴン車がパンクさえしていなければ、車で向かうところなのだが。


 冷たい風が吹き、少年はフリースのジッパーを首元まで閉めた。既に11月も終わりに近づいてきている。本格的な冬が到来する前に、安全な場所を確保しておきたかった。

 少年が今やるべきことは三つあった。一つはパンクしたタイヤの修理。二つ目は少なくなってきた食料などの物資調達。そして三つ目が当面の安全確保。

 そして目下のところ安全確保が最優先事項だった。何せ襲われたのだ、それも子供たちに。裕樹たちを排除した事で当面の安全は確保できたかもしれないが、また襲ってくるかもしれない。今すぐ車でこの土地を離れられないのならば、脅威となる存在の方を排除しなければならない。


 気温が低くなってきたせいか、右頬に刻まれた傷跡が疼く。この分だと雪が降るかもしれないな。少年は灰色の空を見上げて思った。 

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