第六九話 HELP! なお話

 あの後僕は、すぐに小学校を離れた。

 結衣の遺体を埋葬しておきたかったが、そんな暇はなかった。感染者と化した彼女の咆哮は町中に響き渡っていて、さらに銃声が僕の居場所を感染者たちに教えてしまっていた。いつまでも学校に留まっていては、殺到してきた感染者に襲われる。傷の手当てもそこそこに、僕は荷物をまとめるとすぐに学校から逃げ出したのだ。


だが、何のために逃げるのか? 逃げて命を繋いだところで、もはや僕に生きる目的などなくなってしまっている。昨日の夜は結衣を守ると決意したのに、当の本人は僕の手によって既にあの世に行ってしまった。


 皮肉なものだ。生きる目的と希望を持っていた3人が死んで、何もない僕だけが生き残るとは。

 いや、最初から希望などなかったのだ。感染者と化した母さんと父さんをこの手で殴り殺したあの夜に、既に僕の中から希望は失われていた。今まではその現実から目を背けて、見せかけの希望を心の中に作り上げて生きていた。僕にはもう何もないというのに、何かがあるはずだと思い込もうとしていた。


 だけどこれで分かった。地獄と化したこの世にはもう、希望なんて存在しない。救いもない。あるのは絶望と死だけ。

 今までは色々と誤魔化してその事実から目を逸らしていただけだった。本当に現実を見ていないのは、僕の方だった。 



 あの時橋の上で、さっさとナオミさんの手を放していたら。物語に出てくるヒーローのように全員を救おうとせず、身の丈に合った行動をしていたら、少なくとも結衣だけは助かったかもしれない。

 あの時僕に提示されていた選択肢は二つだけだった。全員仲良く死ぬか、ナオミさんを犠牲にして結衣を救うか。だけど僕は全員で生き延びるという三つ目の選択肢を作ろうとし、そして失敗した。

 思えば僕は、今まで散々間違った選択をし続けていた。皆に出会っていなかったら、こんな思いはせずに済んだ。せっかく得た仲間を全て失い、虚無感に身体を支配されることもなかったのに。



 気がつくと目の前に、民家のブロック塀に突っ込むようにして停まっている機動隊の人員輸送車があった。青い車体に白線が引かれた人員輸送車の側面ドアは開いたままで、そこから黒い出動靴(ブーツ)が二足、外へ突き出ている。

 ふらふらと人員輸送車に近付いていく。運転席にはハンドルに突っ伏したまま絶命した遺体と、側面ドアから車内に倒れ込むようにして床に転がる遺体がもう一つあった。どちらもヘルメットとプロテクターに身を固めた、機動隊員の遺体だった。既に腐敗を通り過ぎて白骨化が進行している。


 床に倒れた隊員の傍らに、短機関銃が一丁転がっていた。伸縮式の銃床を備え、細長い弾倉を下に突き出したそれはMP5と呼ばれる警察が装備する短機関銃だろう。警察もののドラマや映画ではしょっちゅう見かける銃で、名前くらいなら僕も知っている。そして操作方法も、今は無きナオミさんに教わった。

 M1Aライフルと比べると圧倒的に軽い短機関銃は、弾倉に弾が入っていなかった。白骨化が進んだ遺体をひっくり返すと、ヘルメットに包まれた頭が胴体から外れて転がった。しかしなくなった機動隊員に対する哀れみが湧いたのも一瞬のことで、すぐに関心は防護ベストのポーチに収まる予備弾倉に向く。


 コッキングハンドルを引いて空の弾倉を外し、予備弾倉を差し込んで固定してあったハンドルを元に戻す。9ミリ弾が薬室に送り込まれる金属音が響いた。

 半年間放置された銃が使えるかどうかはわからないが、MP5の9ミリ弾は拳銃でも使える。スリングで短機関銃を肩からぶら下げた僕は、他にもプラスチックのケースに収まった38口径弾が車体前部に放置されているのを発見した。

 普段は予備弾など持ち歩かない警察官だが、感染者相手に5発の銃弾で立ち向かうわけにはいかなかったらしい。放置されたパトカーなどを探せば、他にも弾薬は見つかるだろう。


 運転席の死体も同じく白骨化していたが、こちらは流れ弾に当たって死んだのだろう。フロントガラスには蜘蛛の巣状のヒビが入っていて、運転手の首筋には撃たれたような痕があった。

 その死体のベルトにぶら下がっていたリボルバー拳銃をホルスターから抜き出し、頂いていく。ライフルやリュック、そして回収した短機関銃のストラップが肩に食い込んでいたが、不思議と痛みは感じない。身体はずっしりと重いのに、心はふわふわしている。

 自分の身体が、空気を詰め込んだゴム風船の人形にでもなった気分だ。色々と身に着けているが、中身は何もない。これらの武器だって何のために集めているのか、自分でもわからなくなる。身体が勝手に動いているような気分だ。


 全てがどうでもよくなった。が、僕の心の奥底には未だに死にたくないという生存への欲求が残っている。その生存への執着だけが、今の僕を動かしている。

 でなければ生き延びるためにナオミさんの手を放したり、感染者と化した結衣を射殺したりするものか。自殺願望があるのなら、今すぐ頭に銃口を突き付けて引き金を引いている。今の僕には、簡単に死ぬ手段が豊富にある。


 だけど心も身体も死ぬことを拒否し続けている。何もやることなどないのに。もう守らなければならない人はいないのに。

 一人生き続けて、醜い生への欲求を曝し続ける。それが僕に課せられた罰なのだろうか? 生きるために無実の人々を手にかけ、油断で仲間を死に追いやり、身の丈に合わない行動をしようとして結果全てを失った。たった一人、喪失感と孤独に苛まれながら生き続ける。それが僕への報いなのかもしれない。



「……橋、まだあったんだ」


 歩き続けてもう何時間経ったのか。日の出のすぐ後に小学校を出発し、今では太陽が頭上に輝いている。雲一つない青空の下では、鳥たちの囀る声が響いている。

 だがその他には何も聞こえない。車のエンジン音も、人々のざわめきも。感染者の咆哮ですら、今は聞こえない。

 西に向かって歩いていたらしい僕は、いつの間にか川に行き当たっていた。ナオミさんが命を落とした川の上流。北に目を転じれば、破壊された形跡のない橋が一本だけ川に架かっている。

 どうやら自衛隊は橋を全て破壊しなかったようだ。爆破に失敗したのか、あるいはわざと残しておいたのか。気が付くと僕は、その橋に向かって歩き出していた。


 道路には腐敗し、白骨化した死体があちこちに転がっていたが、感染者の姿は見えない。対岸の街をライフルのスコープで覗いても、見える範囲内に感染者はいない。そのことを確認し、橋を渡る。昨日僕らが通ったのとは比べ物にならないほど、小さな橋だ。車が二台すれ違えるかどうか、そのくらいの幅しかない。

 昨日と比べれば水量は減っているものの、川はまだ茶色く濁ったままだった。上流から流されてきたのか、川岸にはいくつか死体が打ち上げられている。腐敗し、ガスが腹部に溜まった死体はまるで風船のように膨れ上がっている。いくつかは溜まったガスが限界量を越えたのか、腹が裂けて内臓がぶちまけられていた。カラスたちがその死体に群がり、内臓を引きずり出して啄んでいる。



 橋を渡り、街を南へ。気づけば陽はだいぶ傾いていた。青かった空がオレンジ色に染まりつつある中、僕は見覚えのある場所に出た。

 昨日感染者たちから逃げ回っていた道路に、僕は来ていた。この道を辿って行けば、やがて僕はあの橋に辿り着くだろう。川を越えて街を大きく一周する形で、僕は元来た場所に戻ってきたことになる。

 

 まだ一日しか経っていないのに、昨日のことが何年も昔のことのように思えた。一日の間に、多くのことがあり過ぎたのだ。

 愛菜ちゃんを失いつつも、僕らは皆で協力して生きようとしていた。三人で力を合わせていけば、きっと生き延びられると。しかしそれはただの幻想だった。


 なぜ僕だけが生き延びたのか、それはわからない。橋を最後に渡っていたならば、川に落ちていたのは僕だっただろう。それ以前にも、今まで死にそうな目に何度も遭ってきた。

 僕が生き延びたのは、単なる運なのだろうか? あるいは「選択」の結果か? あるいは僕の生きたいという執念が生みだした必然?




 夕日も沈み、街は暗闇に包まれる。暗視装置を装着しているおかげで、僕の目は昼間のようにはっきりと周囲の光景を捉えることが出来ている。

 緑色に染まった丸い視界の隅で、幾つかの人影が蠢いていた。爆破されていた橋に近付くにつれ、感染者の数が増してきている。しかし連中も夜目が利くわけではないようで、暗闇の中僕が遠くを通り過ぎても気づかれた気配は無かった。あーうー呻く感染者たちを横目に、僕はあの橋に繋がる大通りを目指す。


 僕らが乗って来たワゴン車は、昨日と同じ場所に停められたままだった。電柱が倒れて塞がれた車線に、ドアが開け放たれたままのワゴン車が放置されている。感染者は武器弾薬には興味を持たないので、車内に荒らされた形跡は無かった。風で吹き溜まった無数の枝や葉っぱが車内に散乱し、開け放たれたドアから入ってきた雨でシートは湿っている。

 しかし僕らが持ち出した荷物以外、何かが無くなっている様子は無い。昨日はあれだけ殺到していた感染者たちも、今は道路に転がるいくつかの死体を残してどこかに行ってしまっている。

 200メートルほど向こうに見える橋とその手前の防衛陣地には、相変わらず感染者たちがふらついている姿が確認できた。昨日僕らを食い損ねてから、そのまま橋の周囲を彷徨っているらしい。防衛陣地は感染者の群れに飲み込まれてしまっているので、そこまで行くことは出来ない。流石に目と鼻の先まで近づけば、暗闇の中と言えど感染者たちも僕の存在に気づくだろう。



 後部席にリュックを放り込んだ僕は、そのまま運転席のシートに座り込んだ。ズボンとシャツの背中が、シートに残った水分で湿って冷たくなる。

 ルームミラーを見ても、助手席に目をやっても、車内には僕の他には誰もいない。わかりきっていたことだが、何だか虚しかった。もう誰も僕に話しかけてくれることも、皆で笑いあうこともないのだ。


 これでいい、ふりだしに戻っただけだ。そう思い込もうとしても、皆の顔が脳裏にこびりついて離れない。確かに僕は一人だった。そして今もまた、一人で生きている。だが失ったものは多すぎた。

 この半年で、僕は様々なものを得た。経験、知識、武器、そして仲間……。トータルで観れば、得たものの方が多いだろう。しかし大切な人々を失うということは、自分の半身を引き裂かれるようなものだということを僕は学んだ。


 父さん、母さん、結衣、ナオミさん、愛菜ちゃん……。高校や中学の時の友人も大勢が死んだ。それ以外の知り合いも、生きているのかどうかすらわからない。

 僕が選択を間違えていなければ、その中の何人かはまだ生きていたかもしれない。僕の誤った決断が、彼らの命を奪うことになった。


 これからもこの世界は、僕に対して様々な選択を迫ってくるだろう。ならば僕は、氷の如き冷徹な意志を以って何が最善なのかを判断し、決断していこう。

 二人の犠牲者か三人の犠牲者が出る選択肢ならば、迷わず二人を犠牲にする方を選ぼう。より多くの人が生き延びるために。

 誰かが僕を傷つけようとするのならば、迷わずそいつらを殺し尽くそう。禍根が残って後々面倒なことにならないよう、徹底的に。

 邪魔をする奴は排除しよう。そのせいで不利益を被らないために。

 同行者や協力者はいてもいいだろう、しかし仲間を作ってはいけない。もしも彼らを失った時、悲しまずに済むように。仲間を助けようとして、判断を誤らないために。


 僕は新しいルールを作った。半年前に、この世界のルールは変わってしまったのだ。ならば僕もルールを変えなければ生き残ることは出来ない。

 もう誰も僕を守ってはくれないのだ。警察も自衛隊も、法律ですら半年前に無くなった。ならば僕は自分の法律を決め、自分の身を守って行かなければならない。その法律では僕が生き延びるためならば、殺人や略奪ですら積極的に肯定する。

 今必要なのは信頼や友情、絆といった曖昧なものではない。生き延びるという確固たる意志と、そのためには殺人すら厭わないという冷徹な決断力。仲間などいない。存在するのは敵か、敵ではないか、あるいは利用できる人間か、その三つだけ。


 ルームミラーに映る僕の顔に刻まれた傷からは、もう血は出ていない。しかし結衣につけられた傷痕は一生残るだろう。そしてこの傷跡を見る限り、僕は自分の愚かな選択とその代償を思い出すに違いない。

 

 エンジンキーを捻り、車をバックさせる。バッテリーに蓄えた電気で駆動しているので、感染者はこちらに気づかない。途中で車をターンさせると、アクセルを踏み込み暗闇に包まれた町をヘッドライトを点けずに走り出す。

 今あるものはいつか失われる。ならば最初から何も得なければいい。必要なのは仲間ではなく、敵を倒すための力と武器だけ。それがこの半年で身を以って知った、この世界で生き延びるためのルールだった。

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