第六八話 ふりだしに戻るお話

 日の出と共に、僕は目を覚ました。硬いコンクリートの上で寝ていたせいで身体中が痛かったが、寝袋は車に置いてきてしまったので仕方がない。

 時計を見ると、まだ5時半を回ったかという時間だった。昔ならば、まだ温かい布団に包まって熟睡していた時間帯だ。社会人ならばそろそろ起き始めるかという頃合だが、街は静まり返ったまま。7時になっても8時になっても、出社のために家を出る者はいないだろう。


「暑いな……」


 眩しい朝日が、既に屋上に溜まっていた雨水を蒸発させ始めている。台風が通り過ぎたせいか、気温が一気に上がったような気がする。昨日までは肌寒かったのに、今は半袖でも十分なくらい暖かい。まるで夏に逆戻りしてしまったかのようだ。

 見上げた空には雲一つない。鳥たちのさえずる声が、静まり返った町に響いている。


 上半身を起こし、立ち上がって屋上から学校の周囲を見回す。相変わらず、感染者の姿は見当たらない。見えるのは車一台走っていない道路と、昨日の台風でなぎ倒されたらしい街路樹が数本。校庭に生えた桜の木は、途中から折れてしまっていた。風で転がって行ってしまったのか、昨夜は校庭の隅にあったサッカーボールが見当たらない。


 結衣とナオミさんを呼びに行こうとして、その内の片方が既にこの世にいないことを思いだす。疲れたせいで昨日はすぐに眠れたものの、悪夢は幾度となく見た。崩れかけた橋でナオミさんの手を離した時の光景が、夢の中で何度もフラッシュバックしていた。

 うなされていたせいか、すっきりと晴れ渡った空とは対照的に寝起きの気分は最悪だった。当然だ、大切な仲間をこの手で死なせて、平気で眠れる奴なんていない。


 昨日の光景が再び頭の中で蘇ったが、僕はそのことを考えないようにした。ナオミさんの死は悲しいことだが、かといっていつまでも悲しみに暮れているわけにはいかない。立ち止まっていては死と同義である感染者に追いつかれてしまう。死なないためには逃げ回るか、戦い続けなければならない。今は死者のことを考えている時ではない。


 まずは結衣と二人で、この先どうするかを話し合うべきだろう。進むか、戻るか、それとも留まるか。

 第一の選択肢はどこかで新しい車や物資を調達して、再び東へ向かうことだった。だが、何のために東へ向かうのか、僕はもうわからなくなってきている。以前は東北地方に安全な場所があるという噂を頼りに東へ向かっていたが、それもこの状況では怪しいものだ。

 

 第二の選択肢は、川の向こうへ戻ってワゴン車を回収し、来た道を引き返す事だ。ワゴン車には武器弾薬や食料が積んであるが、感染者がそれらに興味を持つことは無い。別の生存者に奪われていなければ、今もまだそっくりそのまま車や物資が残っているだろう。それを確保した後、今度は西へ向かう。

 だが西へ向かい、何をする? 今まで僕らが通り過ぎてきた場所を引き返して、再び苦痛に満ちた記憶を味わうのか? 多分どこに向かったところで、「なぜ?」という疑問は付きまとってくる。


 最後の選択肢が、この街に留まるというものだ。余所と同じくこの街にも感染者はいるが、川向こうの街と比べれば格段に少ない。どこへ行っても同じだというのならば、ここに留まるというのも一つの手だろう。

 進み続けた先で感染者の大群が待ち構えていました、なんてことも考えられる。ここから東にずっと進んで行けば、日本の首都である東京に出る。人口1200万人のうち、何割が感染者と化したか。首都圏全体の人口も合わせれば、数えきれないほどの感染者がいるだろう。

 だからこの街で二人っきりで暮らす。いつか感染者が全て死に絶え、政府が再建するその時を待ちながら、助け合い息を潜めて暮らし続ける。それも悪くないかもしれない。

 それに今の僕は、かなり疲れているのだ。ここらでゆっくりしたい。落ち着いて色々と考え、整理する時間が欲しかった。


 校舎の中に戻り、階段を下りていく。相変わらず学校の中は静まり返ったままだ。結衣もまだ眠っているのだろうか?

 それも仕方がない。昨日は感染者に追われ続け、挙句の果てにナオミさんが死に、僕と二人っきりになってしまったのだ。疲れて寝込んでいて当然だ。可能ならば僕だってそうしたい。だけどそうしないのはこの二人の中で僕が年上で、彼女を守らなければならない立場にあるからだ。


 結衣が寝ている2年B組のプレートが掲げられた教室のドアは、閉め切られていた。昨夜僕が出て行く時は開けっ放しにしたままだったので、後で結衣が閉めたのだろう。スライド式のドアの取っ手に手を掛けた僕は、鍵が掛けられていることに気づく。


「結衣、寝てるのか? もう朝だぞ」


 返事は無かった。昨夜ドアを閉めて鍵を掛け、そのまま寝てしまったらしい。ドアにはめ込まれているのは曇りガラスなので、教室の中の様子はほとんどわからない。

 ドアをノックすると、曇りガラスの向こうで何かが動いた。何かが立ち上がり、ドアの方へ向かってくる。


「やっと起きたのか……」


 そう安堵した直後、学校中に響きわたるような咆哮が教室の中から轟いた。寝ぼけた結衣が呻いているのではない、これは感染者が獲物を見つけた時に上げる咆哮――――――!



 そのことに気づいた時には遅かった。何故感染者が教室の中にいる? 結衣はどうなった? 一瞬でそれらの疑問が頭に浮かんだが、答えを出す前に突然目の前のドアが内側から吹っ飛んだ。

 まるでアクション映画のワンシーンのように、真ん中から折れ曲がったドアが廊下に転がる。飛んできたドアをかろうじて避けた僕は、教室の中から何かが飛び出してくるのを見た。何故かはわからないが、とにかく感染者がいる。手にしたライフルを構えた僕は、こちらに向かってくる人影の頭部に照準を合わせた。そのまま引金を引こうとして――――――。


「え?」


 口から出たのは、緊迫した状況には似合わない間の抜けた声だった。

 目の前にいる感染者の顔には、見覚えがあった。短い黒髪を振り乱した女の感染者は、獣のような咆哮を上げて僕に飛びかかってくる。今撃たなきゃ殺(や)られるぞ、と頭の中の警報が最大音量で響いていたが、僕は引金を引けなかった。


「結衣、なのか……?」


 顔から髪型、さらには服装まで、結衣とそっくり同じ感染者が目の前にいた。


 これは何の冗談だ? 結衣はふざけているのか? 感染者になったフリをして、僕を驚かせようとしているのか?

 尋ねる前に、結衣が突進してくる。とっさに構えていたライフルを身体の前に突き出したが、衝撃までは防げなかった。スリングを身体に巻きつけていなかったライフルが手の中から吹っ飛び、僕自身もその場に尻餅をつく。


「結衣、何やってるんだ! ふざけてるんなら今すぐやめろ!」


 返事は咆哮だった。口から血の混じった涎を垂れ流し、再び突進してきた結衣の瞳には、もはや人間らしさは見当たらなかった。充血した瞳に満ちているのは目の前の獲物を殺そうとする、獣に似た殺気の色だけ。今まで何度も見てきた感染者と同じ存在が、そこにはあった。


「やめろ!」


 拳銃を引き抜き、とっさに天井に向けて一発撃つ。だが結衣は正気に戻ることも、怯むこともなくまっすぐ僕に飛びかかった。両手で僕の喉首を掴み、歯をむき出しにして食らいつこうとする。

 彼女の顔が体表からあと数センチにまで迫ったところで僕は拳銃を手放し、両手で結衣の頭を掴んでどうにか遠ざけようとした。彼女が僕を殺そうとしているのは明らかだった。首筋に食い込む結衣の両手が一層強い力で握りしめられ、呼吸が出来ない。


「やめろ……! 手を離せ……!」


 もう結衣は人間ではない。感染者だ。本能がそう告げていた。だが僕は、目の前の現実を受け入れることが出来なかった。

 こちらも結衣の首筋を掴むと、両手を伸ばして彼女の顔を遠ざける。僕の手首に食らいつこうとして果たせず、カチカチと歯がぶつかる音が結衣の口から発せられる。


 僕に馬乗りになった結衣が、首筋から手を放した。代わりに両手で僕の身体を無茶苦茶に殴りつける。まるで太鼓にでもなった気分だった。胸を殴られて呼吸が止まりそうになったが、今僕が手を放せば彼女は僕を殺すだろう。

 結衣は右手の人差し指を僕の額に突き立てると、そのまま下へ大きく引っ掻いた。顔の皮膚が裂ける感触と共に、焼けるような痛みが走る。結衣が目を潰そうとしているのを直感的に悟り、慌てて顔を背けた。

 

 突き立てられた結衣の爪は額を裂き、僕の右目の瞼の上を通って行く。眼球が瞼の上から押される感触は、一瞬で終わった。結衣の爪は眼窩の上を通り過ぎ、そのまま僕の右頬を引き裂いていく。引き裂かれた傷はまるで焼きごてを押し付けられたかのように熱く、僕は思わず悲鳴を上げた。

 どうにか目は潰されずに済んだ。しかし傷口から溢れ出た血が右目に入り、何も見えない。指先が真っ赤に染まった結衣が再び両手を振り下ろそうとしているのを左目で観た僕は、とっさに結衣の首筋から手を放した。そして仰向けになった体勢のまま、下から彼女の身体を勢いよく突き飛ばす。


 結衣は上半身をふらつかせ、その隙に彼女の身体の下から這い出る。ナイフを引き抜いた僕は、態勢を崩して座り込んだ結衣の右腕に刃を振り下ろした。

 ナイフの刃は彼女の右腕の皮膚を裂いたが、結衣は痛がる素振りを欠片も見せない。それどころかますます怒ったような唸り声を上げると、ナイフの刃を掴んで強引に僕の手からもぎ取った。ナイフの刃を握りしめた結衣の手から血が滴り、リノリウムの廊下に点々と痕を残していく。


 間違いなく、結衣は感染者になっている。僕は現実を認めざるを得なかった。

 結衣のズボンの右裾はまくり上げられ、足首に巻かれた包帯が解けて床を蛇のようにのたくっている。そして赤く染まった右足首の包帯の隙間から、血のにじむ人間の歯の痕が覗いているのを僕は目の当たりにした。


 おそらく咬まれたのは、橋で僕がナオミさんを引っ張りあげようとしていたあの時だろう。僕がナオミさんを助けようとしていた時、結衣は右足首を怪我しながらも近づいてくる感染者と戦おうとしていた。そしてその時に感染者に押し倒されたのを、僕ははっきりと覚えている。

 あの時結衣は咬まれていないと言った。だがあれは嘘だったのだ。その時に気づいていたのかいなかったのかはわからない。だが足首に巻かれた包帯を見る限り、最終的に結衣は自分が咬まれていたことを知ったのだ。


「何で……」


 なんで、言ってくれなかったんだ。そうすれば僕は――――――。


 いや、僕には何も出来なかっただろう。今のところ感染を防ぐ手段は無いし、僕は医者や科学者でもない。戸惑い、右往左往することしか出来なかっただろう。

 出来ることといえば、完全に理性を失う前に咬まれた人間を殺す事だけ。彼女はそれを恐れていたのかもしれない。「仕方ない」の一言でナオミさんを見殺しにしたのだから、咬まれた自分はきっと殺される。そう思って、咬まれたことを僕に黙っていたのかもしれない。


『もう何もかもが終わった、全部終わりよ』


 唐突に昨夜交わした結衣とのやり取りを思い出す。彼女が僕がナオミさんを見捨てて結衣を助けたことを非難したのも、『これからなんてない』と言っていたもの、全部咬まれたことがわかっていたからだ。

 

 そして僕は、そのことに気づけなかった。


『感染して理性が吹っ飛んだ時点で、そいつは死んでるんだよ。なんで死人のために、何の罪もない生きた人間を犠牲にしなきゃならない? アンタらは現実と向き合うことから逃げてるだけだ、それをもっともらしい理由をつけて誤魔化しているだけだ』


 大沢村で、いつか大和に言った言葉が頭の中に蘇る。現実と向き合おうとしていなかったのは、僕の方だ。昨日も気づこうと思えばいくらでもチャンスはあったのに、出来なかった。橋で結衣が襲われていた時に咬まれていたかもしれないと思うのは普通なのに、彼女の言を信じて身体検査も何もしなかった。

 その可能性に気づきたくなかっただけなのだ、僕は。


 大和が感染した自分の子供を生かし続けようとしていた理由が、今わかったような気がする。でも僕には、彼と同じ選択をする権利は無い。僕は娘を生かすために生存者を犠牲にし続けていた大和を非難し、さっさと殺せと迫った。

 

『ふざけてんのはそっちだ! アンタらは目の前の現実から逃げている。俺がアンタの子どもだったら、理性が吹っ飛んで他の人を襲う前に殺してほしいくらいだね。僕はそう思っているし、母さんだって同じ考えだったはずだ。だから僕は母さんを殺した、これ以上誰かを殺さないように』


 僕は大和にこう言った。大切な人が感染者と化すくらいなら殺すと。

 そして今、目の前で僕の大切な人が感染者と化し、襲ってきている。ならば取るべき道は一つだ。僕にはそれ以外の選択をすることは、許されていない。



 再び結衣が叫び声を上げ、手にしたナイフを放り捨てた。彼女自身の血で真っ赤に染まったナイフが、乾いた金属音と共に廊下の隅へ転がっていく。

 全身が痛かった。首を絞められていたせいか頭はまだフラフラするし、思いきり殴られた胸は痛い。肋骨が折れているのか、呼吸をするたびに冷たいナイフで突き刺したような痛みが胸に走る。爪で半ば抉られるようにして裂かれた顔の傷からは、まだ血が溢れている。

 

 それでも、やらなければならない。僕が今なすべきことは、彼女を解放することだった。


「許してくれ……」


 再び結衣が、咆哮を上げて突進してくる。僕はベストのポーチに突っ込んであった、リボルバー拳銃を握った。

 利目である右目は血が流れ込んでいて、まだ視界が回復していない。左手で拳銃を構え、もはや人間の形をした獣と化した結衣の頭に照準を重ねた。




 躊躇したのは一瞬だけだった。僕は引金を引いた。

 放たれた38口径弾は、結衣の額の左側に命中した。ぱっと赤い血が後頭部から飛び散り、その身体から力が失われる。それでも惰性か、あるいは最期の執念なのか、結衣の身体は止まらなかった。

 僕にもたれ掛かるようにして、ようやく結衣の身体は止まった。床に倒れ込んだ結衣の後頭部には、貫通した銃弾で拳が入りそうなほどの穴が空いている。そこから覗くピンク色の塊は脳味噌で、白い破片は頭蓋骨だろう。


 結衣の身体は、もう動かなかった。その瞳から急速に光が失われていく。

 


 涙は出なかった。悲しみもない。今僕の胸に広がっているのは、ただひたすらに黒い虚無の暗闇だけだった。

 結衣は死んだ。悲しむべきことであるはずなのに、僕はその事実にどこか安堵を覚えていた。一人になれば、もう大切な何かを失う恐怖や悲しみを体験せずに済む。もう、誰の命にも責任を負わなくていい。



 だけど僕は、また一人ぼっちになってしまったのだ。

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