第六七話 Stand By Meなお話

 ごうごうと風が吹く音と共に、緑一色に染まった空を、まるで生き物のように雲が東へ向かって流れていく。千切れ、集まり、そしてまたバラバラになって消えていく。

 暗視装置を外した僕は、この日何度目かわからない溜息を吐いた。雨は止み、風も収まりつつある。朝になれば、きっと空は晴れ渡っていることだろう。だが僕らが明日の朝日を拝めるかどうかは、まだわからない。


「いい加減、メシ食っといた方がいいぞ。体力がなけりゃ、怪我の治りも悪くなるんだから」


 床にしゃがみ込んだままの結衣は、僕の言葉にも無言のままだった。両膝を抱えて座り込み、その足元には冷え切ったドライフードの卵粥が入ったアルミのカップが置いてある。僕だって食べる気には全然なれなかったが、身体は素直だった。街中を走り回り、感染者との死闘を繰り広げた僕の身体は栄養を欲していた。

 

 並んだ机の一つに腰掛け、周囲を見回す。整然と並べられた40近くの机と椅子、そして壁の黒板。ここは小学校の教室の一室だった。

 僕と結衣は災害時の避難所に指定されていた小学校にやって来ていたが、当然誰もいなかった。パンデミックの初期にこの地域には多数の感染者が入り込んでいたらしく、避難所が設営された気配すらない。教室に並んだ机はそのままで、校庭にはテントの一つも立っていない。避難所を設営する前にこの地域の住民は残らず感染者と化したか、逃げたのだろう。


 壁に掛かったカレンダーは、半年前の日付のままだった。黒板の端には日付と共に、日直の男女の名前がチョークで書かれている。自分たちの次の日直の名前を書いた子供たちは、翌日には学校に行けなくなるほど世界が一変するなんて考えもしなかっただろう。

 昨日と同じ今日、今日と同じ明日がずっと続いていく――――――そう考えていたのは僕も同じだった。そして世界が一変してしまってもなお、僕の心のどこかにはそんな気持ちがあった。明日もまた、皆と一緒に生きていける。誰一人欠けることなく、皆で生き延びる。何の保証もないのに、そう考えていた。


 だけどそれは、単なる甘えた考えに過ぎなかった。僕が油断したせいで愛菜ちゃんは狙撃手に撃たれ、結衣を助けるためにナオミさんは僕自身の手で荒れた川へと落とされた。愛菜ちゃんは死んだ、ナオミさんも生きてはいないだろう。僕らはまた、二人っきりになってしまったのだ。

 

「……どうして、わたしを助けたの?」


 静寂を打ち破り、結衣が顔を俯けたまま呟く。暗闇の中でも、彼女の顔色が悪いことは分かった。当然だ。結衣は仲間がまた死んだのに、元気でいられるような人間じゃない。

 僕はその言葉に戸惑った。橋でナオミさんの手を放したのは、結衣を助けるためだった。なのにまだ彼女からは、感謝の言葉一つ聞いていない。別に感謝されるために彼女を助けたわけではないのだが、非難するようなその口調に僕は戸惑った。何故助けたことについて文句を言われなければならないんだ?


「何でって、結衣だって殺されかけて……」

「わたしは! 助けてもらう必要なんてなかった! あんたはあのままナオミさんを引っ張り上げてればよかったのに。なのに何でナオミさんを見捨てたのよ!」

「仕方なかったんだよ!」


 怒鳴ってしまってから、ここはまだ安全な場所ではないことを思いだす。何故彼女が怒っているのか、僕には理解できなかった。せっかく命を繋いだのに、自分が死ねばよかったと結衣は言っている。何故だ? 僕は彼女に生きていて欲しいから、ナオミさんの命を犠牲にしたのに。


「……出来ることなら僕だって全員助けたかったさ。でもあの場ではお前かナオミさんのどっちを救うか選ばなきゃならなかった。あのままナオミさんを助けようとしていれば結衣は感染者に食われてたし、橋が保たずに僕もナオミさんも一緒に川に落ちてたかもしれない。全滅を避けて、なるべく多くが生き残るにはこうするしかなかった。三人一緒に死ぬか、ナオミさんを犠牲にして二人が生き残るか、選ぶしかなかったんだ」


 ナオミさんが生きていれば、僕はこんな気持ちにならずに済んだのだろう。車や武器を失っても、三人一緒ならばなんとかなる。特にナオミさんはグループの中で一番年上だった。僕よりも年上の人がいるという安心感が、僕の負担を軽減していた。

 結衣とナオミさんの立場が逆でも、僕は同じことをしただろう。むしろその方が良かったかもしれない。今の結衣は足を怪我して満足に戦うことも出来ず、精神も不安定だ。ハッキリ言って僕の足を引っ張るだけの存在だ。結衣でなくナオミさんが生きていたなら――――――。


 そんなことを考えてしまう時点で、僕もだいぶ疲れているのだろうか。思わず喉元まで出掛かったその言葉を飲み込み、僕は続けた。


「とにかく、今は二人で協力しなきゃならない。これからをどうするか、まず考えるんだ」

「これから? もう『これから』なんてないのよ。もう何もかもが終わった、全部終わりよ」

「なんでそんな事言うんだよ……」


 思わず結衣を殴りたくなった。足を怪我し、ナオミさんを失って不安だからって、言っていいことと悪いことがある。だいたい、僕だって泣き出したい気分なのだ。何をすればいいのか、これからどのように行動すべきか、全然わからない。この場にいる年長者が僕だから落ち着いているフリをしているだけで、もしもナオミさんがこの場にいたら、僕も結衣と同じように喚き散らしていただろう。


 僕は何をすべきだったのか、そして今は何をすべきなのか誰かに教えてほしい。僕の決断は間違っていたのか? それとも間違っているのは結衣の方で、ナオミさんを見捨てたことは正しい選択だったのか?

 わからない。僕には何が正しかったのかがわからない。どこで、何を間違えたのか。どうすればよかったのか。神さまなんて信じていないけど、それを教えてくれるならば邪教の神ですら信仰してしまうかもしれない。


「屋上に行って、外を見張ってくる。明日の朝になったらまたどうするか考えよう。今日はしっかり飯を食って、寝て体力を回復させるんだ」


 一人になって、考える時間が欲しかった。見張りを口実に教室から逃げ出そうとした僕の背中越しに、「ねえ」と結衣が呼び止める。


「もしも私が殺してって頼んだら、あんたは私を殺してくれる? もう生きていくのが嫌になったって言えば、あんたは私の意志を尊重してくれる?」

「何わけのわからないことを言ってるんだ、殺すわけないだろ。一人になったら色々と困るからな。今死なれてもらっちゃ困るんだよ、僕のためにも」


 僕としてはジョークのつもりだったが、結衣は笑わなかった。


「そうね」


 こんな時にジョークは逆効果だったかと思ったその時、ぽつりと結衣が呟いた。


「あんたなら、そう言うと思った」


 その言葉を最後に、結衣はまた口を閉じた。結衣は立ち上がって窓から外を眺めていたが、何も言わない。この場に居続けるのがなんだか気まずくなり、僕は今度こそ教室を出て誰もいない廊下を歩きだした。

 結衣に武器を渡していないことを思いだしたが、今さら引き返して彼女と顔を合わせるのもバツが悪い。さっきまで教室から外を見た限りでは、感染者が学校の近くにいる気配は無かった。それに愛菜ちゃんに続いてナオミさんまで失い、精神が不安定になった結衣に銃を渡しておくのもまずいだろう。下手をしたら、それこそ自殺しかねない。さっきの言動を見る限り、彼女はだいぶナオミさんの死にショックを受けているようだった。



 とにかく今お互いに必要なのは、それぞれ一人になって考える時間だ。僕はカウンセラーでも人生経験が豊富な御意見番でもない。下手にアドバイスするよりも、彼女自身が問題を解決する糸口を見つけることが重要だろう。考えたくもないことだがもしも僕が死んだ場合、彼女は一人で生きていかなければならないのだから。

 だがもしも結衣が死んだら、僕はどうすればいいのだろうか。そんなことを考えかけて、慌てて頭を振ってそんな未来図をかき消す。結衣まで死なせてたまるか、彼女は絶対に守り抜く。


「……今さら、やるべきことが見つかるなんてな」


 ナオミさんに訊かれてからずっと、僕は自分が今生きている意味を探し続けていた。そしてナオミさんが死んだ今になって、ようやくその意味を見つけた気がする。

 結衣を守る。多分それが、今僕が生きている意味なのかもしれない。彼女一人では、到底この世界を生きていく事なんて出来ないだろう。今は怪我をしているし、なにより女性ということもあって男の僕より格段に体力が低い。

 今まではナオミさんがいてくれたから、僕は結衣を守っているという実感をあまり抱かずに済んだ。しかしナオミさんが死んだことで、彼女を守る役目は僕一人が背負わなければならなくなった。


 僕が今やるべきことは、結衣を生き延びさせることだ。幸い、彼女の家族はまだ死んだと決まったわけじゃない。結衣だって家族の生存を信じているのか、何度も会いたいと言っていた。僕は彼女の願いを叶えよう。

 愛菜ちゃんには最期まで、彼女の家族が死んでいることを伝えられなかった。その罪滅ぼしではないが、せめて結衣には家族全員でまた笑って暮らせる日を送らせてやりたい。そのためにも彼女を守り、彼女の家族を探し出す。

 結衣を守ることが本当に僕が生きる意味なのか、それはまだわからない。だけど目の前にとりあえずやらなければならないことがあるのは確かだ。何かに集中していれば、その分だけ余計な事を考えずに済む。それに自分が生きている意義を見つけられなければ、恐怖と絶望に押し潰されてしまいそうだった。

 

 

 誰もいない廊下を歩き、階段を上って屋上に向かう。屋上のドアには南京錠が掛かっていたが、斧で叩き壊した。外に出た僕の頬を、生温かい風が撫でる。

 暗視装置を目に当てて、学校の周囲に視線を巡らせる。感染者の咆哮が風に乗って微かに聞こえてくるが、近くに姿は見えない。落葉と水溜りに埋め尽くされた校庭の隅には、子供たちが片付け忘れていったのか、サッカーボールが一つだけ転がっていた。

 この小学校にも、また子供たちが戻ってくる日がやって来るのだろうか? そうであってほしいと願う。このまま世界が死と破壊に埋め尽くされたまま、滅亡に向かっていくなんて考えたくもない。幻想でも未来への希望を抱き続けなければ、目の前に迫る絶望という死に至る病に飲み込まれてしまう。


 希望、そんなものはない。僕の頭の中で誰かが囁く。

 待っているのは死だけ。どうせ皆死ぬ。愛菜ちゃんは死んだ、ナオミさんも僕がこの手で殺した。結衣だっていつか死ぬだろう。明日か、一週間後か、それとも一年後か。感染者に食い殺されるか、頭のいかれた人間に襲われて死ぬか。もしかしたらナオミさんの時のように、自分自身でその命を断つことになるかもしれない。そんな存在を生きる意味と定義するなんて愚かだ。


 僕は頭の中に響く声を打ち消そうとした。だけどそれに反論する言葉は見つからない。さっきまでは何かが掴めたような気がしていたのに、目の前に開けたと思った希望の道が再び霧に包まれていく。


 どうやら僕も、そうとう弱っているらしい。こんな時は寝るのが一番だ。

 二人とも休んでしまうのは不安だが、周囲に感染者の姿は見当たらない。陽が出ている間に校門は全て閉じておいたし、敷地内を回って他に侵入されそうな場所が無いかも探しておいた。昇降口の扉も全て鍵を掛け、机や椅子でバリケードを築いてある。近くに感染者がいないのであれば、よほど大騒ぎをしない限り見つかることは無い。


 最後にもう一度、緑色に染まった視界で周辺を確認する。見えるのは風に靡く木々と、今やオブジェと化した揺れる電線だけ。感染者の姿はどこにも見えない。

 それを確かめた僕は、その場に座り込んだ。屋上のコンクリートは雨で湿ったままだったが、そんなことは気にならない。それよりももっと気になる事はたくさんある。


 屋上で仰向けに寝転んだ僕は、灰色の空を見上げた。雲は相変わらず風に吹かれて東へ飛んでいく。明日はきっと、良い天気になるだろう。

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