第六五話 決断するお話
橋桁が崩れ、ナオミさんが川底に落ちていく寸前に、どうにかその腕を掴むことが出来た。辛うじて残っていた歩道の手すりを左手で掴み、右手でナオミさんの左手首を握る。直後、僕の目の前で崩れた道路の残骸が、バラバラになりながら川へ落下していった。轟音と共に、一際大きな水飛沫が上がった。
宙ぶらりんになったナオミさんの身体が、僕の肩を中心に左右に揺れる。呆気にとられた顔で僕を見ていたナオミさんは、今まさに死ぬところだったとようやく理解したのだろう。引き攣った笑みをその顔に浮かべた。
「あ、ありがとう。助かった……」
「礼は後で。今引き上げるんで動かないでください」
とはいったものの、右手一本でナオミさんを橋の上に引き上げるのはとても難しそうだった。彼女の体重に加えて荷物の重みも受け止めている右肩が、今にも引き千切れてしまいそうなほど痛い。手すりの残骸を握る左手に力を込めたが、ほとんど地面に寝そべっているような姿勢では力が入らない。今手すりから手を放したら、ナオミさんの重みに引きずられて僕まで川へ真っ逆さまだ。
おまけに、橋の崩落も収まっていない。橋脚の先端は今もなお傾き続けていて、金属の軋む嫌な音が鳴り響く。目の前のアスファルトに大きなヒビが入るのを見た僕は、早く彼女を引き上げようとさらに腕に力を入れた。降り注ぐ雨で、手が滑りそうになる。
「ナオミさん、荷物を捨ててください! 重くて引っ張りあげられない!」
すかさずナオミさんは片手で肩紐の部分にあるバックルを外し、リリースされたリュックが川へ落ちていく。荷物を失うのは惜しいが、今はそうも言っていられない。彼女を引き上げられなければ、僕まで死んでしまう。
リュックを捨てたおかげで少し身軽になったが、それでもまだ僕はどうにかナオミさんが川に落ちないよう腕を掴んでいるのに精いっぱいだった。目線を下にやると、これまで一度も見せたことがなかった不安そうな表情を浮かべるナオミさんの向こうに、荒れ狂う茶色い濁流が見える。風が吹いて彼女の身体が揺れるたび、不可が掛かる右肩が外れそうになった。
「どこか掴んで、上がって来られないんですか? 僕一人じゃ無理だ」
ナオミさんは空いた右腕で、剥き出しになった橋脚の断面から突き出た鉄筋を掴もうとした。しかしあと少しというところで、手がかりになりそうな箇所に手が届かない。
一方感染者たちは目の前にいる僕らを捕まえるチャンスだと思ったのか、先程から橋の裂け目を飛び越えようとジャンプを繰り返していた。本能に従って行動する感染者に恐怖心はなく、転落したら死ぬような高さからでも平気で跳躍を繰り返す。その多くは宙ぶらりんになったナオミさんを掴もうとして果たせないまま、次々と川へ吸い込まれていった。
このままここにいれば、やがて感染者が全て川に飛び込んで自滅してくれるのではないか。そう思ったが、それより先に橋桁が崩落して僕らも川に落ちるだろう。それに本能に従っているとはいえ、感染者たちにもある程度の判断力はあるらしい。崩落した部分の幅が広い場所では跳ぼうとせずに、僕らに一番近い場所から飛びかかろうとしている。僕らとの距離が開ければ、無謀な跳躍は行わなくなるかもしれない。
「そうだ、結衣に手伝ってもらえば……」
一人なら無理でも、2人がかりならナオミさんを引っ張り上げることが出来るだろう。そう思ってどうにか視線を背後に巡らせようとしたその時、銃声が鳴り響いた。
銃を撃っていたのは結衣だった。そしてその銃口の先には、一体の感染者。川の東側の街にも、やはり感染者はいたのだ。
「来ないでよ!」
二発しか装填されていない散弾銃を撃ちつくし、叫んだ結衣がリボルバーを構える。しかし結衣はあまり銃を撃ったことがない上に、走っている感染者を正確に狙えるほど銃の腕があるわけでもなかった。ブレまくる銃口から吐き出された38口径弾は、感染者のすぐそばを掠めて飛んでいくだけだ。
一発が感染者の脇腹に当たったところで、銃声が撃鉄が空の雷管を叩く乾いた音に変わった。結衣が持つ警察用のリボルバーは短銃身で命中精度が低い上に、5発しか銃弾を装填できない。慌ててシリンダーを振り出して再装填を行おうとする結衣だったが、走る感染者はその間にも彼女との距離を詰めていく。
「逃げろ、結衣!」
そう叫んだが、彼女に逃げ場はない。背後は川、目の前には感染者。焦っているのかポケットから取り出そうとした5発の38口径弾が、彼女の手から滑り落ちる。
拳銃から手を離し、ナイフを抜いた時には既に遅かった。感染者は勢いよく結衣の身体に体当たりし、仰向けに倒れ込んだ彼女に馬乗りになってその喉元に食らいつこうとする。結衣が手を伸ばしてその頭を抑えようとしているが、力負けしているのは明らかだった。
「助けて!」
結衣の悲鳴が聞こえてきたが、僕に出来ることは何もない。両手は塞がっていて、おまけに今いる場所も崩れかけている。今すぐナオミさんを引き上げ、結衣を助ける。その両方を行うことは出来ない。
手すりを掴む左手の負担が急に増し、崩れかけた橋桁の傾斜がさらに増していることに気づく。道路に這いつくばる僕の背後では、まるで蛇が這い進むように道路に大きなヒビが入って行った。そのヒビから西側に突き出た橋脚は、今にも川へ落ちそうなほど傾いている。
前半分がどうにか橋桁に乗っていた乗用車が、傾きが大きくなるにつれ道路を滑り落ちていく。やがて虚空に放り出された乗用車は、リア部分を下にして川へ落ちて行った。耳をつんざく破壊音が、結衣の悲鳴をかき消す。
傾斜は尚も増していき、今や僕は左手一本で手すりにぶら下がっているような状態だった。自身とナオミさんの体重を受けた左手が、今にも千切れてしまいそうだった。その手すりですら、めりめりと嫌な音を立てている。
結衣はどうにか感染者を押さえているようだが、今にも咬まれてしまいそうだった。そしてその向こうからは、さらに数体の感染者が迫ってきている。銃があれば余裕で倒せる数だが、今戦える状況にある者はいない。結衣は感染者に押し倒され、ナオミさんは宙吊り。僕はナオミさんをどうにか落下させないようにするのが精いっぱいで、手が空いていない。
「早く引き上げて!」
ナオミさんがそう叫び、「出来るもんならやってますよ!」とつい怒鳴り返してしまった。がくん、と身体が大きく揺れ、手すりを構成する鉄棒が根元からねじ曲がるのが見えた。
どうすればいい。考えても、答えは出ない。
いや、答えはあるのだ。今の窮地を脱する、ごく単純な答えが。しかし僕はそのことを考えないようにしていただけだ。
僕は必死に考えた。誰も犠牲にならない方法を。
しかしそんなものはなかった。いくら考えたところで、どの選択肢を取ったところで死者がでる。誰かを助ける一方で、誰かを見捨てなければならない。
選択肢は二つあった。
一つはこのままナオミさんを引っ張り上げて、二人で結衣を救出すること。ただしナオミさんを引っ張り上げる体力は僕には残っていないし、その前に橋が崩落するだろう。仮に橋が保ってくれたとしても、結衣がいつまでも感染者を抑えていられるとは思えなかった。
そしてもう一つは……。
そんなのは嫌だった。最善を尽くさず、誰かを犠牲にし続けるような自分ではありたくない。物語に出てくるヒーローのように、皆を救える人間でありたい。
だがそんなのは不可能だと、最初からわかりきっていた。所詮僕は子供であり、世界からすればちっぽけな存在に過ぎない。たとえパンデミックによって人間の数が大きく減った今でも、それは変わらない。
今僕に出来ることは、一人でも多くこの場から生きて脱出させること――――――。
全員を救うのではなく、助かりそうな人間だけ救うこと――――――。
僕は右手の先にいる、ナオミさんを見た。縋るように僕を見上げる彼女の目は、「助けてくれ」と言っているようだった。
今までは完全無欠の超人のように振る舞っていたのに、なんで今になって弱さを見せるんだ。もしもあなたが超然としたままであれば、僕はすんなり選択を下せただろうに。
だけどナオミさんも一人の人間であり、生きたいという願いを持つ普通の人だった。無敵のスーパーウーマンでも、僕らを導いてくれる救世主でもなかった。普通の人より強く、僕らよりも大人であるだけの、ただの人間。今まで余裕のある振る舞いをしていたのは、一番年上だから皆を安心させるためだった。
もっと彼女と一緒にいたい、そう願った。だけどその願いを叶えられないことは、僕自身が知っている。
橋桁がさらに傾き、僕は終わりが近いことを悟った。もう保たない。じきに僕がいる部分の橋桁は、重力に引かれて川底へ落ちていくだろう。そうなれば僕とナオミさんは死に、誰の助けも得られなくなった結衣は感染者に食い殺される。
だから僕は、もう一つの選択肢を選んだ。ナオミさんを見捨て、僕と結衣だけが助かるという選択を。
「ごめんなさい……」
「待っ――――――!」
そう呟いて僕は、ナオミさんの腕を掴む右手の力を抜いた。
汗と雨で濡れたナオミさんの腕は、簡単に僕の手の中から抜け落ちた。僕に向かって手を伸ばしたままの姿勢で、ナオミさんの身体は重力に従って落ちていく。その下に待ち受けているのは、落石や車の残骸が転がる濁流だ。
その瞳が、「なぜ」と僕に問うていた。なぜ手を放した。なぜ私を助けなかった。まだまだやりたいことはいっぱいあったのに、なぜ私はここで死ななければならない。
「ママ……」
強風が吹き荒れている最中だというのに、ナオミさんのその声だけははっきりと聞こえた。許してくれ、そう言おうとした直後、彼女の身体は荒れ狂い渦を巻く茶色い川に吸い込まれた。
橋の上に戻った直後、傾いていた部分の道路が轟音と共に川へと落下していった。鉄筋が引き千切られ、コンクリートが撒き散らされる。まるで一枚板のように落下していった折れた橋桁は、川面に当たってバラバラに砕けた。
悲しみに暮れる時間も、感傷に浸っている余裕もなかった。橋の上では相変わらず感染者が、結衣に馬乗りになり彼女に食らいつこうとしている。そしてその向こうからは数体の感染者が、咆哮を上げてこちらに向かって走って来ていた。
心の中では様々な感情が渦巻いていたが、今の僕は至って冷静だった。今やらねばならないことと、そのためには何をすべきかということが、はっきりとわかっている。結衣を救い、二人で感染者を振り切って逃げる。それが今やるべきことだった。
強力なライフル弾では感染者の身体を貫通し、結衣まで傷つけてしまう。僕はライフルをスリングで肩から下げると、腰のホルダーから斧を引き抜いた。そして結衣の所まで駆け寄ると、彼女にのしかかる感染者へ向けて下から掬い上げるようにしてその顔に刃を叩きつける。
一撃で下顎が切断され、上顎のみとなった口からだらりと舌が垂れ下がった感染者が僕を睨みつける。しかし僕は落ち着いて、その頭に再び斧を振り下ろした。バースデーケーキに刺さる板チョコのように、斧は感染者の頭に突き立った。その身体が一度大きく痙攣したが、僕の興味は既に他の感染者に移っていた。
スリングで身に着けていたライフルを構え、こちらに向かって走ってくる三体の感染者に狙いを定める。引き金を一度引くたび、ホロサイトのレティクルの向こうで感染者が倒れていく。正面から見た面積が一番小さく、普段はほとんど当てられない頭部にすら、今は一発で命中させることが出来ていた。柘榴を割ったように頭が弾けた感染者がもう動かないことを確認し、結衣の手を取って立ち上がらせる。
「咬まれてないか?」
「ええ、なんとか……。ナオミさんは?」
「行くぞ、すぐに向こうの街からも感染者が集まってくる。その前に橋を渡ろう」
足首をくじいた彼女に肩を貸し、二人で対岸を目指して走り出す。銃声や仲間の咆哮を聞いたのか、対岸の街からも点々と感染者が姿を現し始めていた。素早くそれらの脅威判定を行い、直ちに危険だと判断した個体については足を止め、ライフルで狙撃していく。
「ねえ、ナオミさんはどうなったの!?」
背後を振り返り、誰も僕らを追いかけてこないことを確認したのだろう。今度は叫ぶようにして、結衣が訊いてきた。僕は足を止めず、呟くように言った。
「死んだ」
「え?」
「死んだよ……ナオミさんはもういない」
僕が殺したのだ。
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