第六四話 ファイナル・デッドブリッジのお話
手にした銃と背中の荷物を放り捨てて逃げたい気分だったが、そんなことをすれば三日も生き延びられないだろう。武器が無ければ襲われた時に感染者を倒せないし、リュックの食料や水が無ければ飢える。どこかで調達するにしても、感染者の脅威に曝されている以上武器は必要だった。
時折振り返って彼我の距離を確認するが、その度に感染者の群れは僕らに近付いてきていた。時折足を止めて集団から突出した個体を銃撃するが、その時間すら惜しい。手持ちの銃弾全てを使えば倒しきれるかもしれないが、また新しい集団が現れるかもしれない。倒すのは近づいてくる奴だけに留め、僕らはひたすら橋を目指した。
橋の手前には数台の軍用トラックとパトカーが放置されており、地面にはいくつも薬莢が転がっていた。警察官や迷彩服を着た自衛隊員の死体がバリケードや土嚢、パトカーのボンネットにもたれ掛かるようにして倒れていたが、空薬莢の数から考えると残された死体はあまりにも少ない。生き延びて退却したか、あるいは感染者と化して他の生存者を追いかけたか。
土嚢や車止めで構成されたバリケードを乗り越え、橋桁の部分まで進む。既に川の向こうには別の街が見えている。だが途中まで進んだところで、僕らは足を止めざるをえなかった。
鉄筋コンクリート製の橋桁、そのちょうど川の真ん中の部分が消失していた。南北に流れる川の流れに沿って、橋桁が真っ二つに裂けてしまっている。橋桁の断面が剥き出しになり、折れ曲がった鉄筋から滴る雨粒が、茶色く濁った川に飲み込まれていく。自重に耐えられないのか、破断した箇所が下に向かってわずかに垂れ下がっていた。
どうやら自衛隊が感染者を足止めするために、橋を爆破しようとしたのだろう。茶色い濁流と化した川の底からは、崩落した橋桁の残骸らしい鉄筋コンクリートと、巻き添えを食って一緒に落下したらしい乗用車の後部が突き出している。橋脚に爆弾を仕掛けて吹っ飛ばしたのか、支柱らしい巨大な円筒が川に沈んでいた。
「どうすんだよこれ……」
自衛隊や在日米軍が感染者の進行を阻止するために各地で交通網を封鎖していたことは知っていたが、よりにもよってここでも橋が破壊されているとは。激しい戦いがあったことからそのことは想定しておくべきだったが、僕らにはここしか逃げ道は無かった。その逃げ道すら使えないとは。
「待って、あそこなら通れるかもしれない」
膝の力が抜けそうになったが、結衣のその言葉で我に返る。結衣が指差していたのは、橋桁の北端部分。かつては歩道があったらしい場所だった。
「あそこなら向こう側までの幅が狭い。ジャンプすれば、どうにか渡れるかも」
僕らがいる場所とガードレールを隔てて反対車線の部分は橋桁が大きく破壊され、向こう側までの距離はバスを縦に並べたよりもはるかに長い。しかし崩落した面積は北側に進むにつれ徐々に少なくなっていて、結衣の言った通り北側の歩道の部分に空いている穴は4メートルほどしかない。爆破が失敗したのか、そこだけ破壊されている面積は少ないようだ。
確かに助走をつけてジャンプすれば、どうにか届く距離かも知れない。問題は、重い荷物を背負ったまま向こう岸まで跳べるかどうかということだ。僕が高校の体力測定で走り幅跳びを行った時、結果は4メートル50センチだった。平均的より少し上と言える結果だが、もしも50センチ手前に落ちてしまったら、あとはそのまま川へまっさかさまだ。
川はこの台風で増水していて、爆破された橋の残骸の他にも流されてきたらしい岩や車、折れた樹木が川面から突き出している。茶色く濁った水が岩に当たって、白い飛沫を飛ばす。落ちたら多分、というか確実に死ぬ。濁流に飲まれて溺れるか、岩や瓦礫に全身を叩きつけられて死ぬかのどちらかだ。
だが僕らに他に道は無かった。感染者たちは既に橋に到達しつつあり、今から引き返したら群れの真っただ中を突っ切らなければならない。それよりも向こう岸に渡る方が生存確率は高い。一か八かの賭けとはいえ、成功すればこちら側にいる感染者たちは僕らを追って来れないだろう。幸運にも何体かが崩落部分を飛び越えることに成功しても、数百体は要るのではないかと思えるような群れを相手にするよりかははるかにマシだ。
「渡りましょう、ナオミさん。他に道は無い」
「そうだね。今から引き返すことは出来ないし、かといって川に飛び込むのは危険だし」
そう言いつつライフルを発砲したナオミさんが、ボルトハンドルを引いて空薬莢を排出する。地面に落ちた空薬莢が澄んだ金属音を立てたが、すぐに風のうなる音にかき消された。風に飛ばされた薬莢がどこかへ転がっていく。
「私が殿になる。二人は先に向こうに跳んで!」
装弾数の多いM1Aを持つ僕が最後まで残った方がいいのではないか。そう思ったが、今は素直に彼女の指示に従っておく。それに先に裂け目の向こう側に渡れば、最後にナオミさんが飛ぶ時に安全な位置から援護できる。
「わかりました。結衣、早く行くぞ」
「そうしたいのは山々なんだけどね……アタシ、高所恐怖症なんだよね」
引き攣った笑みを浮かべて、結衣が僕の顔を見た。そう言えばナオミさんに初めて会った時、マンションの屋上で彼女は震えながら下を見ようともしていなかった。そして今、結衣の足を見ると小刻みに震えている。
橋桁から川面までの高さは、約10メートルといったところだろうか。それに加え下は増水による濁流だ。高いところは苦手ではない僕でも確かに少し恐怖を感じるし、高所恐怖症の結衣なら尚更だろう。
だが今はそんなことを言っている余裕は無かった。高所恐怖症だろうがなんだろうが、向こう岸に行かなければ死ぬだけだ。
「んなこと言ってる場合か! いいからさっさと行くぞ!」
「でも……」
デモもストもない。結衣を無理矢理歩道のところまで引っ張って行き、「跳ぶぞ!」と声を張り上げる。しかしそう言う僕の脳内でも、「向こう岸に届くだろうか」という疑問が浮かんでいた。
手すりや欄干は道路と一緒に川底なので、何かを伝って渡ることは出来ない。レスキュー隊ならばロープを張ったりして向こう側に渡れるのかもしれないが、生憎僕らにその技術は無い。あったとしても、時間が無い。
「無理よ、絶対無理!」
「今まで散々感染者に殺されかけてきたってのに、今さら高いところが怖いとか言ってるんじゃないよ」
「じゃあアンタがまず跳んでみてよ。成功したらアタシも行くから」
こんな時に高所恐怖症だなんだと言い出す結衣に少し腹が立ったが、怖いものは怖いのだ。仕方がないと自分を納得させる。
ナオミさんが「どうでもいいからさっさと行ってくれ」とでも言いたいような目で、こちらを振り返った。たかが5メートル、しかしその5メートルの距離を飛べなかったら死が待っている。
橋のこちら側に残っても死ぬし、落ちても死ぬ。結衣が怖くなるのも当然だ。だから僕が先に手本を見せなければ、彼女はこの場から動くことも出来ないだろう。
「わかった。僕があっちに行ったら、結衣も来るんだぞ。でないとナオミさんが渡れない」
荷物は置いていきたいところだが、そうなればまたナオミさんと出会った時と同じく飢えや乾きに悩まされることになるだろう。この半年のサバイバルによって、僕の体力は上がっているという自信がある。あとは跳躍力も向上していることを祈るのみだ。
僕らの背後ではナオミさんがライフルを撃ちつづけている。グズグズしているわけにはいかない。僕は崩落した箇所からたっぷり10メートルは距離を取ると、大きく息を吸って走り出した。10メートルの距離を全力で駆け抜け、真っ二つになった橋の西側部分の淵に来た時、右足で力強くアスファルトの歩道を蹴って跳躍する。
まるでスローモーションで映像を再生した時のように、一瞬が長く感じられた。ごうごうと唸る風、瓦礫に当たって千切れる川の水飛沫の音が僕の頭の中に響き渡る。背後で戦うナオミさんの銃声と、感染者の唸り声と絶叫は意識の外に追い出された。頬に当たる雨粒の一つ一つが感じ取れる。SF映画のワンシーンのように、雨粒が空中で静止しているように見えた。爆破で出来た橋の裂け目が、巨大な怪物の口にように思えた。
気がついた時には衝撃と共に、僕は橋の東側に着地していた。靴底でひび割れたアスファルトの欠片が砕ける感触がする。着地の衝撃で爆破された橋桁の断面から剥き出しになった鉄筋、そこに付着していたコンクリートの破片が川にいくつか落ちていく。
「……どうだ、跳べたぞ! だから結衣も早くこっちに来い!」
振り返ってそう言いつつも、鼓動は高鳴ったままだった。もしも急に向かい風が吹いていたら、僕は裂け目の向こう側まで跳ぶことは出来なかっただろう。
結衣はまだ跳ぶことを恐れているようだが、「早くしろ!」と急かすと、ようやく意を決したのか助走を始めた。ナオミさんはまだ時間を稼ごうと、橋の向こう側で戦っている。装填する暇もないのかライフルを手放すとリボルバーを引き抜き、こちらに向かって走ってくる感染者を片っ端から撃ち倒していく。
僕は一歩下がって、結衣の着地点付近に移動する。もしも彼女が橋の隙間を飛び越えられなかったら、素早く掴まえてやらねばならない。
結衣が助走を開始する。その顔には恐怖の表情が浮かんでいるようにも見えたが、足が止まることは無かった。そのまま最後の5歩を駆け抜け、こちらに向かって大きく跳躍する――――――。
その時、僕の背後から強烈な風が吹いた。結衣にとっては向かい風、しまったと思ったが、僕には何も出来ない。
だが、幸運にも彼女はこちら側に到達することが出来た。着地の際に斜めに傾いだ橋の淵に足を取られ、バランスを崩して倒れ込みそうになる彼女の身体を全身で抱き止める。それでも勢いは止まらず背中から地面に叩きつけられる結果になったが、間一髪のところで結衣が川底に消える事態だけは避けられた。
押し付けられた結衣の身体の感触を味わっている暇はない。素早く立ち上がり「大丈夫か?」と尋ねる。「大丈夫」と答えて立ち上がろうとした結衣の身体が、ぐらりとふらついた。
「ッ……! 足を捻ったみたい」
着地の時にバランスを崩してしまい、足に大きな負荷がかかったようだ。結衣は再び立ち上がろうとしたが、怪我をした右足を庇ってかまっすぐには立てないようだった。
「歩けるか?」
「なんとか。でも走るのは……」
幸いなことに、今のところ橋桁の東側には感染者は来ていない。無論激しい戦闘があった対岸だけでなくこちら側の街にも感染者がいる可能性はあるが、まだ姿は見えない。ナオミさんと2人がかりで彼女を支えていけば、どうにかなるかもしれない。
足手まといだ、見捨てていけと頭の中で誰かが囁いたような気がしたが、無視した。もう安易な道に逃げるのは御免だ。これ以上後悔を重ねないためにも、ギリギリまで最善を尽くしたい。無論、自分の命は大事だけど。
「よし、じゃあ先に行っててくれ。僕はナオミさんを援護する」
ナオミさんがこちらに来るのを二人で待つよりも、結衣を先に進ませた方がわずかだが時間の節約になるだろう。足を怪我しているから先行してもそう距離は開かないだろうが、今は一秒でも時間が惜しい。
頷いた結衣が踵を返し、右足を引きずるようにして橋を歩いていく。振り返った僕は、「早くこっちに!」とナオミさんに叫んだ。
「わかった!」
右手にリボルバー、左手にグルカナイフを握ったナオミさんがそう叫び、近づいてきた感染者の一体の首筋をナイフで掻っ切ってから歩道へ向かう。既に感染者とナオミさんとの距離はだいぶ詰まっていた。
助走中はどうしても無防備にならざるを得ない。僕はその場に片膝立ちになると、ライフルを構えた。ナオミさんに食いつこうとする感染者に銃弾を叩き込み、彼女の助走を援護する。裂け目の向こうで感染者たちは文字通り、ナオミさんの目と鼻の先にまで迫っていた。
全力疾走し、途中から川底に消えた点字ブロックを目印に大きく空中へ跳躍したナオミさんのフォームは、素晴らしいの一言だった。彼女を追って一緒に虚空に飛び出した感染者たちが、手を伸ばすが果たせず次々増水した川へと落下していく。
4メートルの裂け目を飛び越え、真っ二つになった橋桁の東側に両足で着地したナオミさんが、僕を見て悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
車は失ったが、ひとまず3人一緒で感染者たちの追跡から逃れることは出来た。そう安堵した瞬間、メリメリ……と何かが軋む音を僕は聞いた。
「なんだ……?」
突然視界が前に傾き、裂け目の下にあるはずの茶色い濁流が視界に入った。僕の身体が傾いているのではなく、地面が傾いているのだと知った時には遅かった。金属が曲がる悲鳴のような重い音と共に、橋脚を爆破され支えを失った部分が大きく傾き始めた。
今まで絶妙のバランスでどうにか川に落下せずにいたところに、僕らがトドメを刺してしまったらしい。支柱を失い虚空に突き出ていた橋桁は、その頑丈さでどうにか元の位置を保っていた。だが僕らがその上に乗ってしまったことで、片方にだけ子供が跨ったシーソーのように大きく傾きだしたのだ。
道路に大きなヒビが走り、切断面を先端にして川に向かって傾いていく。破壊された箇所からコンクリートの塊が、次々と川へ落下していく。道路が裂け、陥没し、折れ曲がっていく。
そして大きく傾いていく橋桁の淵には、今まさにこちら側に来たばかりのナオミさんが立っていた。バランスを崩し、ふらついたその身体が傾いた道路を滑り落ちていく様を見た僕は、絶叫と共に走り出していた。
「ナオミさん!」
叫び、手を伸ばす。今や急斜面と化した道路を滑り落ちるナオミさんが手を伸ばし、僕はその手を――――――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます