第六三話 嵐の中で輝くお話
灰色の空に、吹き付ける強い風。ワイパーはひっきりなしに窓を往復して雨粒を拭っているが、拭いた傍から殴りつけるように雨が降ってくるのだからほとんど意味が無かった。フロントガラスに張り付いた木の葉を、ワイパーのゴムが外へ押しやる。
どうやら、台風がこの地域に上陸しているらしかった。昨日から雨が降り始め、今朝になってから風が吹くようになった。そして今は、車を横転させるのではないかと思うほどの強風が吹き荒れ、バケツをひっくり返したような雨が車体を叩いていた。
こんな状況なのにもっと最悪なことは、僕らが感染者に追われていることだった。ルームミラーにはリア越しに、車を追いかけてきている感染者の姿が映ったまま。強風で姿勢を崩し、水溜りで滑って転んでも、感染者たちは咆哮を上げつつ車を追いかけ続けている。
きっかけは些細な事だった。台風が来ているなんて露とも考えていなかった僕らは、今朝もいつも通り車に乗って東を目指して走り出した。しかし途中で大雨と強風に見舞われ、慌てて避難場所を探している途中でばったり感染者の集団と遭遇してしまったのだ。
大雨のせいで視界が悪くなり、感染者が近くにいることに気づけなかったせいだった。そして感染者たちは十数分に渡り、その健脚を以って僕らを追跡してきている。叫び声をあげて仲間を集めながら。
「もっと早く走れないんですか!?」
「無理! スピード出してる時に横から強風が吹いたら、それこそ横転しかねないよ!」
運転席でハンドルを握るナオミさんが、車体を叩きつける雨音に負けない大声で返した。助手席の結衣が地図を広げてルートを確認しているが、さっきから何度も迂回したり引き返してばかりだ。
どうやらこの街は感染者と警察や自衛隊との激しい戦闘が行われたらしく、道路にはバリケードが築かれていたり、無人のパトカーが道路を塞ぐようにして駐車されている。雨に打たれる警官の死体も、ひとつや二つではなかった。流れ弾が飛んできたのか、ビルの窓ガラスは割れ壁には弾痕が刻まれている。激しく燃えた車の残骸も多かった。
感染者が発生した時に街中が大混乱に陥っていたらしく、道路を塞ぐようにして事故を起こしていた車もある。地図に車が通れそうな道路があっても、今はどうなっているかわからない。いつものことだが、感染者に追われている状況では致命的だ。
「ここもダメか……!」
交差点を左折しようとしていたナオミさんが、舌打ちと共に慌ててハンドルをまっすぐに戻した。急な方向転換に身体が追いつかず、シートに強かに身体を打ち付けてしまう。今まさに曲がろうとしていた交差点の先を見ると、道路を塞ぐようにして濃緑色の大型トラックが二台、道路を塞ぐようにして停まっていた。自衛隊の車両だった。
他にも警察の人員輸送車らしい、白と水色に塗り分けられた大型バスも停まっている。探せば何か武器が見つかるかもしれないが、今はそんな余裕は無かった。
「とりあえず、何体か倒してみます」
「でも銃声でもっと集まって来るかも……」
結衣の不安ももっともだったが、どうせ感染者たちは車を追い掛けつつ咆哮を上げているのだ。雨音がノイズになってくれているとはいえ、その咆哮を聞いたらしい感染者が先ほどから続々と増えつつある。ここらで何体か倒しておかなければ、じきに先頭集団が車体に触れかねない距離にまで近づきつつあった。
パワースライド式の天井の窓を開くと、途端に車内に大粒の雨が吹き込んできた。たちまち上半身がずぶ濡れになったが、構っていられない。感染者を倒さなければ次に僕の身体を濡らすのは冷たい雨ではなく、暖かくて真っ赤な血になるだろう。
ミリタリーショップで見つけたコンバーションキットを装着したM1A自動小銃を車内から引っ張り出し、同じくミリタリーショップから持ち出した20連弾倉をはめ込む。暗所用のフラッシュライトやレーザーサイトを取り付けるために曲銃床の木製銃床からピストルグリップタイプの金属製シャーシに換装したせいで、自動小銃はずっしりと重かった。
開いた窓から身を乗り出し、小銃を構える。二本の鉄パイプと調整可能な頬当チークピースを備えた床尾バッドストックで構成された銃床ストックを伸ばし、機関部上のマウントレールに取り付けられた光学照準器を覗く。レーザーホログラムを利用してレンズに投影されるレティクルを、ワゴン車の後方に近付きつつある一体の感染者の胴体に重ねた。
そのまま引金を引いたが、当然ながら当たらない。向こうもこちらも移動している上に、強風や車体の揺れで照準が定めにくいのだ。5発撃っても一発も当たらず、一旦車内に引っ込んで散弾銃を引っ張り出す。
感染者は既に、文字通り手を伸ばせば車体に届く距離まで近づいていた。ボロボロになったズボンの裾を引きずり、髪を振り乱しながら走る感染者の真っ赤に充血した瞳がこちらを向く。その頭に向けて、ソードオフショットガンを発砲した。
今度は至近距離ということもあってか、顔面に散弾を浴びた感染者がひっくり返り、たちまち後方へと過ぎ去っていく。車を追い掛けていた感染者たちがその死体に躓き、コントのようなその光景に思わず笑ってしまう。しかし今度は別の交差点から新たな感染者の集団がやって来て、すぐに笑っている余裕も無くなった。
「どれだけいるんだよ……!」
新たに合流した感染者の中には、撃たれたような傷を負っているような者がいた。他にも服が黒焦げになってケロイド状に焼けただれた皮膚を露出させている男や、頬が裂けてまるで笑っているようにも見える女の感染者もいる。
それらに向けて引き金を引くが、感染者たちが増えることはあっても減る気配はない。ソードオフの銃身を折って空のシェルを排出すると、プラスチック製のショットシェルが乾いた音を立てて車の屋根から転がり落ちていった。
数回発砲と装填を繰り返し、ようやくいくら撃っても無駄だと悟る。揺れる車の上からでは、弾の無駄遣いにしかならない。さっさと感染者たちを振り切るか、でなければどこかで全て倒すか。僕らが生き延びる道は、その二つに一つしかない。
横転した軽乗用車の脇を通り過ぎ、もういくつ曲がったかわからない交差点を左折する。するとそこに広がっていたのは、両脇をビルや商店に挟まれた大通りだった。あちこちに腐乱し、白骨化した死体が転がり、その間に金色に鈍く輝く空薬莢がいくつも散らばっている。自衛隊が防衛陣地でも敷いていたのか、土嚢を積んだバリケードもあった。
爆発でもあったのか、道路のアスファルトは大きく抉られている。そのクレーターにタイヤを取られ、車体が大きくバウンドした。屋根から投げ出されそうになり、慌てて車体を掴む。ここが最も激しい戦いが繰り広げられた場所に違いない。
風はさらに勢いを増し、飛ばされた立て看板がビルの窓に直撃してガラスを割る。街路樹の枝は大きくしなり、今にも折れそうだった。
そんな中でも感染者たちは、なおもこの車を追って来ている。その執念に内心驚嘆した時、「危ない!」と助手席の結衣が声を張り上げた。ドン! という大きな音と共に、悲鳴のようなブレーキ音とともの車が急停止する。窓枠に強かに背中を打ちつけた僕は、耐え切れず車内に崩れ落ちた。
背中に鈍痛が走り、呻き声を上げながら身を起こす。「いったい何が……!」と口を開きかけた僕は、フロントガラスの向こうに広がる光景で何が起きたのかを察した。
車の進路を塞ぐようにして、コンクリート製の電柱が倒れていた。道路脇に放置された乗用車の屋根を押し潰し、斜めに傾いだ電柱が泥にまみれた根元の部分を曝し、引き千切れた電線が蛇の死骸のように地面に伸びている。急ブレーキを掛けたおかげで、辛うじて直撃は避けられたようだった。あと数メートル直進していたら、倒れた電柱はワゴン車の運転席を押し潰していただろう。
しかし進路は倒壊した電柱で塞がれてしまった。大通りは片側二車線の広い道路だったが、反対側の車線は黒焦げになったバスや乗用車の残骸が塞いでしまっている。引き返そうにも、すぐ後ろには感染者の群れが迫ってきていた。何人も轢き殺しながら走れるほど、乗用車は頑丈には作られてはいない。車で無理矢理感染者の群れに突っ込んで行けば、すぐに血脂でタイヤがスリップし、感染者が窓を叩き割って車内に侵入してくるだろう。
「車を捨てる。皆荷物を持って電柱の向こうへ走って!」
ナオミさんの決断は素早く、そしてそれに異を唱える者はいなかった。側面のドアを開き、銃と荷物が詰まったリュックを手に車外へ飛び出す。癖なのかわざわざエンジンを切ったナオミさんと助手席の結衣の分のリュックも外に放り出し、リュックを背負って車が向かっていた東の方へ向かって走る。倒壊した電柱の下を潜り抜け、自分の分の荷物を回収した二人も後に続いた。
ワゴン車にはまだまだ武器弾薬や食料が残っているが、捨てるしかなさそうだった。物資に拘っていて命を落としたのでは本末転倒だ。それにこういった事態に備えて、非常時に持ち出すためのリュックに弾薬や三日分の食糧が入っている。しばらくなら戦えるし、飢えずに済む。もし機会があれば、ここに戻ってきて車を取り戻せるかもしれない。
「どこに行けばいいんです!?」
振り返り、道路を塞ぐ電柱に殺到していた感染者に一発撃ってから叫ぶ。助手席にいなかった僕は、この辺りの地図をあまり見ていなかった。
「まっすぐ! この先に橋がある! それを渡ってどこかに隠れよう!」
橋と聞いて、ナオミさんと出会った時のことを思いだした。あの時も僕らは感染者に追われ、荷物を捨てて走っていた。違うのは愛菜ちゃんの代わりにナオミさんが加わったこと、そして今の僕らは銃を持っているということだ。
感染者の視界から逃れない限り、連中はどこまでもついて来る。かといって迂闊にそこらの建物に飛び込むわけにもいかない。中に何がいるのかわからないし、隠れられる場所が無かったら自ら袋の鼠と化すのと同じだからだ。
放置された車両はバッテリーが上がっているだろうし、キーが無ければ動かない。走って橋を渡り、その先でどこかに隠れるしかない。
電柱に群がる感染者が一体、その下を潜り抜けてこちらに向かって走って来た。その胸に向かって一発発砲。胸を撃ち抜かれた感染者はその場に崩れ落ち、動かなくなる。同じく押し出されるようにして電柱の下を通った感染者の頭にレティクルを重ね、撃った。強烈な反動と銃声が身体を揺さぶる。
自動小銃は拳銃に比べて反動が大きいが、その分威力が大きいのも魅力的だった。痛覚が麻痺しているらしい感染者は、手足を撃たれようが腹に風穴が空こうが、致命傷でない限り人間を襲い続ける。対処するには一発で頭や心臓などの重要な器官を破壊するか、動けなくしてしまうかだ。
7.62㎜の大口径弾は、当たり所によっては腕を切断するほどの威力を持つ。そんな銃弾を胴体に食らえば、いかに強靭な感染者といえどもひとたまりもない。手足に当たれば筋肉を引き千切り、骨を折って動きを鈍らせる。痛みを感じないのならば、物理的に動きを封じてしまえばいい。
さらに数発撃つと、ボルトが後退したまま止まった。装填された20発の銃弾を撃ちつくし、ボルトストップが作動したのだ。素早くミリタリーショップから頂いてきたタクティカルベストのポーチを探って新しい弾倉を取り出し、空の弾倉を空いたスペースにねじ込む。M1A用の20連弾倉は、この先入手できる見込みがほとんどない。捨てていくわけにはいかない。
弾倉を叩き込み、ボルトハンドルを軽く引くと、スプリングの力で勝手に前進したボルトが初弾を薬室に送り込む。再び撃てるようになったが、僕は感染者に再び背中を向け、前方にあるという橋へ向かって走り出した。いつまでもこの場に留まって、感染者を撃っている余裕はない。団子のように殺到していた感染者の集団に押されて、電柱が支えになっていた乗用車の屋根から滑り落ちていた。
バーのように感染者たちの前進を食い止めていた電柱が轟音と共に地面に転がり、再び感染者たちが元気に走り出す。捕まったら僕らも、この街に数えきれないほど転がっている死体の仲間入りをしてしまう。
死にたくない。生きる意味も目的もないのに、その本能に突き動かされて僕は走り続けていた。さらに強くなった風が、怪物の呻き声のような音を立てて吹き荒んでいる。
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