第五七話 航海するお話

 オレンジ色の太陽が、西の海に沈んでいく。先ほどから吹き続ける南風が一段と勢いを増し、潮の香りがさらに強くなったように感じた。


 僕らはこのスポーツショップにしばらく滞在することを決めていた。出入り口は少なく、破壊されている箇所もない。おまけにアウトドアグッズ売り場で見つけたフリーズドライ食品やビタミン剤などを確保出来て、多少食料に余裕が出来たということもあった。


 しかしいつまでここにいられるかはわからない。もしも感染者がやって来た場合今夜中にここを発つかもしれないし、食料が続く限り引きこもる生活を続けるかもしれない。しかしこの周辺ではもう食料は手に入らないだろうから、余裕があるうちにここを出ていく事に違いは無い。


「風が騒がしいな……」


 何となく、そう呟いてみた。スポーツショップの屋上にある駐車場は、見張りを行う場所としてはうってつけだった。地上から屋上へ上がるスロープはシャッターで閉まったままだから、感染者がやって来ても迷い込む恐れはない。店内の入り口を全て封鎖した後、僕らは交代で外を見張っていた。


 駐車場を囲むガードレールの前に置いた折り畳み式の椅子に腰かけ、パラソルを真ん中に差したテーブルに置かれた水のボトルを手に取る。どれもこのスポーツショップで調達したものだ。ベッドとテーブルはキャンプ用具のコーナーで、水は自販機を壊して手に入れた。ずっと立ちっ放しでは疲れるし、テーブルがあれば必要な物を全て身に着けて身体を重くせずに済む。


 さっきから何と無しに双眼鏡で周囲を見回していたが、狭い視界の中に感染者の姿が入ってくることは一度もない。聞こえてくるのは風の音と、海鳥の泣く声だけだ。悲鳴も唸り声も聞こえない。


 太陽が沈みつつある西の海から視線を転じ、既に群青色に染まり星の輝きが点々と空を彩る東の方角を覗く。東には比較的大きな港町がここからでも肉眼で確認できるが、街の灯りは一つも無い。あの街にも、どうやら人は残っていないらしい。


 その港町から数百メートル南の沖合に、いくつか岩礁のようなものが海面から顔を覗かせている。波を被るそれらの物体を双眼鏡で覗けば、海面から突き出した船のブリッジだということに気づくだろう。中にはタンカーか貨物船の船橋らしきものも海面から突き出ていて、さながら小島のようだった。


 どうやら港町の沖合は、自衛隊に撃沈された船の墓場になっているらしかった。日本でウイルス感染が始まった時、感染拡大のためにあらゆる手段が講じられた。感染者が乗っていると思しき船舶の撃沈も、その中に入っている。


 そして許可なく出港した船も、場合によっては撃沈された。避難先として選ばれていたのは無人島や住民が少ない島嶼地帯だったが、そこに行けたのは検疫をクリアできたものだけだった。感染者が泳ぎが得意でない以上、四方を海に囲まれた島々は天然の要塞となる。しかしそこに感染者が入り込んでしまえば、たちまち脱出が困難な地獄と化してしまう。狭い島の中で感染が始まってしまえば、防ぐ手立てはほとんどない。


 だから政府は許可が下りた船以外は出港を認めず、それ以外は港に追い返すか海に沈めたのだ。船も沖合に停泊してしまえば島同様に感染者は入って来られなくなるが、豪華客船でもない限り一般人がいつまでも暮らしていけるものではない。だから多くの船は制止を振り切って無人島を目指し出港したが、その結果がアレだ。


 沖合はそれほど深くないのか、沈没した船がいくつか船橋を海面から突き出している。今はまだ形を保っているが、潮風に晒されている内に朽ちていくだろう。あれらの船に一体何人が乗っていたのか、知らない方が良さそうだった。


 港の方に視線を転じると、ヨットやクルーザーを停泊させるヨットハーバーが見える。しかしそこにあるのは真っ二つに折れて舳と船尾を海面から突き出し、陸の上でバラバラに吹き飛ばされた船の残骸の数々だけだった。自衛隊が艦砲射撃か機銃掃射でも行ったのか、ヨットハーバーの比較的大きな船は全て破壊されてしまったらしい。陸揚げされている船外機付きの小さなモーターボートや短艇カッターの類は被害を免れているものもあるが、大した人数は載せられないし遠くまで航行できないということで攻撃の対象から外れただけなのだろう。多くの人を乗せてどこかの島まで行ける能力のある船は、ほとんどが破壊されたとみて間違いない。


 これでヨットか何かを調達して、どこか人のいない島に逃げるという選択肢も無くなったというわけだ。もっとも、人が上陸していない島がこの近くにあるかどうかも疑問だが。自衛隊や海上保安庁の臨検をすり抜けた船が避難民を満載して、どこかの無人島に上陸した可能性もある。


 何より、船の動かし方を知っている人間が一人もいない。流石にナオミさんも船は動かしたことがないらしく、仮にヨットか何かを調達したところで、漂流して海の上で飢え死にするのがオチだろう。



 太陽が完全に海の向こうに沈み、夜がやって来た。吹き付ける南風は一層強さを増し、少し肌寒さを感じる。既に季節は秋、これからどんどん冷え込んでいく一方だ。


 テーブルの上に置いてあったジャンパーを羽織ると、少しは寒さが和らいだ。スポーツショップに寄った理由の一つが、長袖の服や防寒着を調達するためだった。服はどこででも手に入るだろうが、機能性のことを考えるとやはり専門店で調達した方がいい。


「交代の時間だ」


 その声で振り返ると、店内の階段を使ってナオミさんが屋上の駐車場に出て来ていた。これから朝まで、全員で交代しながら外を見張る。たまには一晩ゆっくり休みたいのが本音だが、そうも言っていられない。僕が働かなければ他の人に迷惑がかかるし、油断すればその代償は自分たちの命で支払う羽目になる。


「じゃ、あとはよろしくお願いします」

「わかった。そう言えば、靴の調子はどう?」


 ライフルを手渡すと、ナオミさんは僕の足を見下ろして言う。朝まで僕の足を覆っていたボロボロのスニーカーは、新品のトレッキングシューズに代わっていた。


 今まではずっと、感染爆発パンデミック以前に購入したスニーカーを履いていた。軽いしある程度運動も出来るタイプのスニーカーだったし、母が買ってくれたスニーカーを捨てることにも抵抗があった。しかし長い間履き続けていたため、すっかりボロボロになってしまったのだ。爪先は解れて穴が開き、靴底は剥がれかけている。感染者から逃げるために走ったり歩いたりで移動を続けて酷使したのだから当然だが、僕は新しい靴を調達する必要に駆られた。


 以前のスニーカーよりも少し重いが、靴底は厚いため釘やガラス片を踏んでも貫通する可能性が低くなる。それに滑り止めも深く彫られているため、野外でも行動が可能だ。ゴアテックスという特殊な素材を使っているため、水溜りに足を突っ込んでも普通のスニーカーと違って靴の中が濡れることは無い。


「今はまだ、少し変な感じです。でもその内慣れると思います」


 どこを走る羽目になるかわからない。感染者に追われて山や森に逃げ込んで、靴が滑って転んで追いつかれて食われるというのだけは御免だ。その意味では今までのスニーカーよりも、こういったシューズの方がいいのかもしれない。


「あと何日くらい、ここにいられますかね?」

「さあ。皆で話し合う必要があるけど、長くとも一週間かそこらだろうね」


 どこか一か所に拠点を設け、そこに引きこもって感染者が餓死するのを待つという方法もあった。しかし畑を作って食料を生産でもしない限り、僕らは生きるために食料を求めて彷徨い続けなければならないのだ。いくら立て籠もるのにいい場所があったところで、そこにいられるのは食料が続く間だけ。恒久的な拠点にはなりえない。


「……どこか、良い場所はないもんですかね?」

「さあね。そんなところ、あるかどうかもわからない。あったとしても先客がいるだろうし、その場合は……」


 殺してでも奪い取るか、諦めるか。その二択だろう。




 交代で店の中に戻ると、キャンプ用品のコーナーでランタンが灯っていた。乾電池を使うランタンは明るさの調節こそ出来るものの、やはりその光は強烈だ。明かりが外に漏れないよう窓は布や段ボールを貼ってあるが、それでも心配になってしまうほどの明るさだった。


 そしてテントの展示コーナーでは、中にあったマネキンが全て外に放り出され、代わりに結衣と愛菜ちゃんが中で寝ていた。二人とも、ナオミさんの後に交代で見張りを行うことになる。そのため今は寝なければならないことはわかっているが、それでも話す相手がいないのは少し寂しい。かといって寒くなってきた屋上に戻る気にもなれず、僕はテントの前に張られたタープの下に置かれた椅子に座り込んだ。


 折り畳み式の椅子に身を沈ませ、ホルスターごと拳銃を脇のテーブルに置く。二人が用意しておいてくれたのか、クッカーに盛られた炊き込みご飯がテーブルに並べられていた。その隣にあるのは粉末スープのパッケージ、こちらは自分で調理しろということらしい。


 車から運んできたガスコンロに点火し、底の深いクッカーに水を張ってその中にスープの素を注ぐ。スープが温まるまでの間、僕は少し冷めたご飯を食べることにした。



 いつまで、こんな生活が続くのだろうか。ふとそんな疑問が頭に浮かんだ。もう半年も感染者と戦い、逃げる日々を送っている。しかしいつまで経っても終わりは見えない。


 このまま待てば、いずれは感染者も飢えて死ぬかもしれない。しかしそれが一週間後なのか、一か月後なのか、一年後なのか、はたまた10年後なのかは、実際にその日を迎えてみないことにはわからなかった。感染者が全て死に絶えるその日まで、僕らは戦い続けなければならないのだろうか。


 映画だったらこんな時、ヒーローが希望を捨ててはいけないと皆を鼓舞する場面なのだろう。しかし今この場に、僕らを救い導いてくれるヒーローはいない。


 そして僕は、とてもヒーローになれるような人間ではなかった。他人どころか自分を生かすのに精いっぱいだし、そのためにはどんな手段でも使った。それがたとえ殺人を伴うものでさえ、僕は躊躇なく実行した。


 ヒーローが何の罪もない、赤ん坊と若い母親を殺したりするだろうか? 答えはノーだ。あの二人を犠牲にしなければ僕が巻き添えで死んでいたかもしれないし、赤ん坊の泣き声で僕らの居場所を曝すわけにはいかなかった。母親の足を撃ち、脱出の時間稼ぎをしたあの選択は仕方のなかったものだと思っているし、生きるためには最善の手段だったと僕は確信している。


 だが、もしかしたらもっと他の選択肢もあったのではないか? 最近暇が出来ると、ふとそんな事を思うようになった。その「もしかしたら」は、考え出したらキリがなかった。


 赤ん坊と母親を置き去りにした時。大沢村で3人の老人と女性たちを撃ち殺した時。そして考え付く先は、「結衣を助けなければよかったのでは?」という選択肢だった。


 あの時結衣を助けていなければ、僕は彼女を知ることもなかった。傍観者として彼女を見送り、一人あのマンションの部屋で引きこもり続けていれば、こんなことにはならずに済んだのかもしれない。少なくとも、あの部屋にいる限り殺人なんて禁忌に手を染める必要は無かっただろう。僕は一人マンションで比較的「平穏な」毎日を送り、今と比べればまだ純粋無垢な人間でいられただろう。


 だが結衣を助けなければ彼女は死んでいただろうし、中学校で体育館に閉じ込められていた愛菜ちゃんもあのまま死んでいた。その事実を思い出し、自分が下衆な人間になってしまったことを実感する。時分のことだけを考え、目的のためには他人をも犠牲にする男。映画や漫画だったら、ヒーローにやっつけられている側の人間だ。


 しかしヒーローが現れて助けてくれない以上、僕はこの生き方を続けるしかないのかもしれない。自分を全てにおいて最優先しなければ、この世界では生き残れない。そして生きるためには他人を犠牲にする選択も、場合によっては行わなければならない。望まずとも、そうするしかない。人を殺した時点で、僕はもう戻れない道を歩み始めてしまったのだ。


「……誰か、僕を助けてくれよ」


 折り畳み式のベッドに寝転がり、天井のパネルを見上げて呟く。通路に捨て置かれたマネキンたちが、暗闇の中から僕を笑っているように見えた。

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