第四九話 掃除するお話

 路肩に数台の自動車が放置された道路の真ん中を、一体の感染者がふらつきながら歩いていた。獲物を見つけた途端水を得たように、文字通り人間離れした身体能力で走り出す感染者だが、普段からああいった風にパワフルに過ごしているわけでもない。人間エモノが見つからない時、あるいは近くにいない時は、ああやって浮浪者のようにぶらぶらと歩きまわっているだけなのだ。


 僕はそんな感染者に、クロスボウの狙いを定めた。ダットサイトの赤く発光するレティクルを感染者の首筋に重ね合せ、動きが止まった瞬間に引金を引く。ビン、と弦が鳴り、射出された矢は感染者の首を後ろから貫いた。

 クロスボウの矢は脊髄を傷つけ、さらには気管を貫いたらしい。感染者がその場に崩れ落ち痙攣を始めた途端、今まで僕の隣で待機していたナオミさんが音もなく走り出した。ライフルを構えつつ道路を横断する彼女は途中で痙攣する感染者の頭にきちんとナイフを突き立てトドメをさし、無事に道路を渡りきった。


 ナオミさんの渡った道路の向こうには、4階建てのマンションがそびえ立っていた。駐車場に停められたままの車は埃だらけで、中にはドアが開け放たれたままのものもある。ベランダの窓は全て閉まったままで、風になびく泥だらけの洗濯物が、このマンションに既に人はいないことを示していた。

 このマンションが、今日の僕らの寝床だった。もし運が良ければ、当面の間そこを拠点に滞在するかもしれない。あのマンションはこの辺りでは一番高い建物であり、見張りを行うにせよ立て籠もるにせよ、うってつけの物件と言えた。

 しかしこの街に入ってから、既に数体の感染者を目撃している。ハイブリットカーの電気モーターのおかげで音を立てずにマンションの近くに来ることが出来たものの、この周辺にどれだけの感染者がいるかはわからない。人口密集地を離れた場所とはいえ、人がいた場所には感染者がいると考えた方が正しい。


 かといって、これまでのようにずっと山の中を移動し寝泊まりするわけにもいかなかった。大沢村を脱出する時に武器弾薬は確保できたものの、食料はほとんど持ち出すことが出来なかった。それに車の燃料も残り少ない。一度街に入ってそれらの物資を手に入れなければ、僕らは感染者に食われる前に飢えて死ぬだろう。


「じゃあ行ってくるから、愛菜ちゃんはきちんと車の中で待っているんだ。結衣、いざという時は頼む」

「任せてって言いたいところだけど、あたし一人じゃね……」


 振り返った僕の目に、上下二連式の散弾銃を慣れない手つきで握りしめる結衣の姿が映った。その背後に停められた車の中では、愛菜ちゃんが不安そうな顔でこちらを見つめている。

 マンションの中が安全かどうか確認できない以上、全員で行動するわけにはいかなかった。それにどこに感染者がいるかわからない以上、4人でぞろぞろ歩いていたら発見される可能性が高くなる。マンションの安全が確保されるまで、二人には車の中で待っていてもらうことになっていた。


「大丈夫だよ、車の中に隠れていれば見つからないさ。連中は動くものに反応するだけで、わざわざ人間を探し回ったりはしないから」

「それはそうだけど……まあいいわ、ちゃんと帰って来てよ」


 そんな言葉が結衣の口から飛び出したことに、僕はある種の驚きと感動を覚えていた。今まで口を開けば辛辣な言葉を僕に浴びせていたのに、心配の言葉をかけてくれるとは。もっとも今までのやり取りだって、一種のおふざけに過ぎないのはわかっていたけど。

 僕は頷くと、クロスボウを構えつつ周囲を見回した。ただ単に視界に感染者が入らなければよいというものではない。道路のカーブミラーを見て曲がり角の先にも感染者がいないことを確認し、それからようやく道路を渡り始めた。道路の真ん中で死んでいた感染者から先ほどの矢を回収し、それからナオミさんに合流する。


「よし、じゃあ私が先行する。君は後衛をお願い。射線には注意してよ、後ろから撃たれたくはないから」

「大丈夫ですよ。というか、こんな狭い場所じゃあ僕の出番はないですよ」


 ナオミさんはその言葉に笑うと、今まで構えていたライフルをスリングで背中に回し、代わって腰のホルダーから二本のグルカナイフを引き抜いた。両手にナイフを構えたナオミさんの後を、クロスボウを構えてついて行く。


 大沢村で手に入れた武器弾薬は、それまでの貧弱な武装にくらべると桁違いの威力のものばかりだった。かといって、銃を多用することはできない。手に入れた弾は全て合わせてもせいぜい400発程度に過ぎず、猟銃に使われているライフル弾や散弾は銃砲店でも手に入るだろうが、拳銃の弾はよっぽど運でもなければ手に入れることは不可能だ。

 それに銃を撃てば銃声で感染者が集まってきてしまう。そのため銃を使うのは最後の手段と決めていて、それ以外の場合ではこれまで通り鈍器や刃物を使うことが僕らのルールになっていた。


 マンションのエントランスの自動ドアは閉まったままだったが、バールを隙間に突っ込んでこじると簡単に開いた。ライフラインが死んだ今となっては、無理矢理自動ドアを開けたところで警報も鳴らない。照明が消えたままのエントランス内は暗く、どこから感染者が飛び出してきてもおかしくない雰囲気だった。

 ナオミさんが左手のナイフを鞘に戻し、代わりにフラッシュライトを手に取り点灯した。暗闇を200ルーメンの強力な光が引き裂き、荒れ果てたエントランスの様子を映し出す。床には手紙や封筒が散らばり、所々に置かれた観葉植物は枯れていた。

 僕もクロスボウのフォアエンド部分にテープで無理矢理固定したフラッシュライトを点灯し、ナオミさんの後に続く。聞こえてくるのは自動ドアの隙間から風が吹き込んでくる音と、僕らの足音だけだった。


 エントランスをまっすぐ進んだところにあるエレベーターは、やはり止まったままだった。ドアのすぐ傍にあったポストの数を見る限り、このマンションには40近い部屋があるらしい。等分すると、一階層につき10部屋だ。それらの全てを回り、安全を確保しなければならない。

 二手に分かれた方が効率はいいが、それでは一人が襲われてももう一人が気づかないということが有り得る。それに一人で全方位をカバーするのは困難であり、急に物陰から感染者が出て来ても対処できないかもしれない。犠牲を出さないためにも、手間を省くわけにはいかなかった。


 マンションはL字型をしていて、エントランスをまっすぐ進んだ先に、壁のように部屋がいくつも並んでいる。まずは一階から、部屋の安全を確認していくことにした。

 ナオミさんが右手を前に振り、「前進」と手信号ハンドシグナルで伝えてくる。ドアが並ぶ長い廊下の先には人影はなかった。一階の部屋のドアはいくつか開け放たれたままで、住民が慌てて出て行った様が目に浮かぶ。


「とりあえず鍵のかかった部屋は無視しよう。ドアが閉まってる部屋も」


 感染者は理性が吹っ飛んだ人間で、とても文明的な暮らしなんか出来ない。空いている部屋に入ったところでわざわざドアなんか閉めないし、その上鍵をかけるなんて行動は不可能だ。連中にそこまでの知能は残っていない。だから鍵が掛かっていたり、ドアが閉まったままの部屋の中に感染者がいる可能性は限りなくゼロに近い。

 住民が鍵をかけた部屋の中で感染者と化すこともあるだろうが、その場合もやはり脅威にはならないだろう。なんせ日本で感染爆発パンデミックが発生してから、既に半年近くが経過している。感染者はゾンビではないのだ。頭を撃たれれば死ぬし、心臓を刺されても死ぬ。動脈を切って出血多量で死に追い込むことも出来る感染者が、半年近く何も食わずに生きていけるわけがない。

 もしドアの閉まった部屋の中に感染者がいるとしたら、それは僕らが訪れる直前にこのマンションを訪れ、そのまま感染者と化した生存者がいた場合だろう。しかし建物の外にも中にも、ここ最近誰かが訪れた形跡はない。となると僕らが注意を払わなければならないのは、ドアが開いたままの部屋のみだ。


 そのままナオミさんを前衛に、ドアが開いたままの部屋に接近していく。「105号室」のプレートが掲げられたドアの前で立ち止まり、フラッシュライトを握った左手の指を三本立て、それを一本ずつ下ろしていく。そして全ての指を下ろした瞬間、開いたドアを回り込み、一気に部屋の中へと踏み込んだ。

 クロスボウを構えつつ彼女の後に続いて素早く部屋に突入したが、カーテンが閉め切られ薄暗い部屋の中には人気は無かった。ナオミさんがフラッシュライトで部屋の中を照らしたが、荒れた室内に動くものは見当たらなかった。人間も感染者もいない。

 この部屋の主も慌てて避難したのか、床には割れた食器の破片やタオル、衣類が散乱していた。念のためあちこち調べて見たものの、やはり誰もいない。開きっ放しの箪笥の棚と、そこから溢れ出ている衣類の数々が、この部屋の住民の慌てっぷりを僕らに伝えていた。


 一階にあるドアが開いたままの部屋は、全て安全だった。階段を伝って二階へ向かう途中、僕は何か足音を聞いたような気がしてその場に立ち止まる。

 どうやら幻聴ではなかったらしく、ナオミさんも立ち止まって耳を澄ませていた。「ゆっくり動け」のハンドシグナルに従い、階段を一歩一歩、それこそ靴底の擦れる音すら立たないような慎重さで上がっていく。階段と二階の廊下は垂直に交わっているため、階段から廊下の様子を直接伺うことは出来なかった。


 そこでナオミさんがポケットからボールペンほどの大きさの棒を取り出した。壊れたラジオのアンテナに小さな鏡を取り付けたそれは、曲がり角の先の様子を把握するためにナオミさんがわざわざ作ったものだ。

 ナオミさんは曲がり角に身を寄せると、アンテナを伸ばして廊下に突き出した。何度かアンテナの先端の鑑の角度を調節したところで、その顔が少し不機嫌そうに歪んだ。

 鏡を懐に仕舞ったナオミさんの指が二本立てられる。それは「二体感染者がいる」の合図であり、おそらくこの曲がり角の先の廊下に、二体の感染者がいるということだろう。事実耳を澄ましてみると、わずかに足音が聞こえていた。

 頷いて了解の意を示し、ナオミさんのすぐそばまで身を寄せる。そして目と目を合わせて頷くと、僕は勢いよく曲がり角を飛び出し廊下に身を曝した。

 まっすぐ伸びる廊下の向こう、10メートルほど離れた場所に、僕らのいる方向とは反対側を向いて佇む一体の感染者がいた。そしてその向こうには、こっちを向いてふらつくもう一体の感染者の姿。僕は奥にいる方の感染者に狙いを定めると、クロスボウの引き金を引いた。


 撃ち出された矢は手前にいた感染者の脇を掠め、奥にいた感染者の目に勢いよく突き刺さった。眼球が割れ、眼窩まで貫通した矢が脳に到達したらしい。感染者が仰向けに倒れたが、その背中が地面に着かない内にナオミさんが廊下に身を躍らせていた。

 僕の姿を見て、習性通り叫ぼうとした手前の感染者との距離を一気に詰めると、ナオミさんは右手に逆手に握ったナイフを斜め下から掬い上げるようにして振るった。ナイフの刃先が感染者の喉元を抉り、ぱっくり開いた傷口から切断された器官が露わになる。動脈も切断されたのか、傷口から血が噴水のように噴き出した。これで感染者は叫んで仲間を呼ぶことは出来ない。


 が、感染者はまだ生きていた。気管を切断され、動脈も切られた以上放っておいても死ぬだろうが、強靭な生命力により即死を免れている。剥き出しになった気管からヒューヒューと肺に溜まった息が漏れる音と共に、感染者はナオミさんに掴みかかろうとした。

 しかしナオミさんは慌てず一歩後退し、伸ばした両手が虚空を掴み、姿勢を崩した感染者の頭部に左手に順手に握ったナイフを振り下ろした。半月状の刃が深々と感染者の頭に突き刺さり、今度こそ感染者の動きが止まる。

 地面に崩れ落ちた感染者の頭から冷静にナイフを引き抜き、ナオミさんが一度振ると廊下に血の飛沫が飛び散った。これだけ見れば凄惨な殺人現場も同然だが、このような光景はとっくに見慣れている。吐くこともなければ、動揺することもない。


「じゃあ、掃除を続けようか」


 そう言ったナオミさんに頷くと、僕は廊下に倒れる二つの死体を跨いで彼女の後に続いた。

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