第四八話 逃げるお話

 地面に膝を突き、尚も涙を流し続ける大和は、既に戦意を喪失しているように見えた。感染者と化しても守ろうとしていた最愛の娘が、地下壕ごと生き埋めにされてしまったのだ。娘を心の支えとして、何もかもを敵に回す覚悟で生きてきた大和にとって、それは生きる意味を失ったも同然のことなのだ。

 大和の背後に控える鏑木も、もう戦う気はないようだ。拳銃をホルスターに戻し、慟哭する大和の背中をじっと見つめる。その大和の右手からリボルバー拳銃が零れ落ち、地面に当たって乾いた金属音を立てた。その様子を見て、青年がほっと一息ついた。


「さあ、この村を出ましょう。いまならまだやり直せます」

「やりなおす……?」

「そうです。俺たちは死んだ人たちの分も生きて、償わなければならない。娘さんのために多くの人たちを生贄にしてきたあなたも、それを黙認してきた俺たちも……」


 青年はそう言って、跪き項垂れる大和に手を差し伸べた。顔を上げた大和は呆然とその手を見つめ、次いで青年の顔を見上げた。その瞳には先ほどまでの憎悪とは違う、別の感情が宿っているように見えた。

 青年が大和を許そうとしているかのようなその態度が、僕はどこか気にくわなかった。大和は多くの人々を感染者への生贄に捧げ、その上僕らまで殺そうとしたのだ。そんな奴を許すなんて芸当は、僕には到底できない。僕は聖人ではないのだ、やられたらやりかえしたいし、現に今僕は大和を殺したいほど怒っている。


 傍らで結衣が呻き、ようやく僕は結衣と愛菜ちゃんが依然縛られ猿轡を噛まされたままだったことを思いだした。俯せの状態で縛られていた結衣の元ににじり寄り、その口元に巻かれた布を取り外す。手を伝って落ちた血が猿轡の布に真っ赤な染みを作ったが、痛みは撃たれた時よりも引いてきていた。


「あんた、腕……!」

「ああ、多分大丈夫だよ。それよりそっちは何ともないか? 怪我は?」

「アタシも愛菜ちゃんも無事よ。……ごめん、捕まっちゃって。せっかくあんたが援護してくれたのに」

「構わないよ、またこうして合流できたんだから」


 直後、乾いた笑い声が公民館の駐車場に響き渡り、思わずそちらを振り向く。笑い声の主は地面に跪く大和で、彼は燃え盛る炎でオレンジ色に染まった夜空を仰ぎ見ながら、狂ったように笑っていた。


「償う、だと? 何を、何故? 俺は間違ったことはしていない、亜紀は俺の全てだった。俺はただ、亜紀を守りたかっただけだ」


 気が狂ったのかと思ったが、その瞳は至って冷静であるように見えた。大和は確信犯だ、自分のやったことが間違っているなどとこれっぽっちも思っていない。

 役場の窓から洩れる光に、青年の困惑した顔が照らし出される。次の瞬間大和の手が素早く動いたかと思うと、その手元から閃光が迸り、乾いた銃声が響き渡った。

 青年がまるでアッパーカットでも食らったかのように仰け反り、その頭からぱっと何かが飛び散る。青年の身体はその場に踏みとどまることもなく、糸が切れた人形のようにそのまま仰向けに倒れた。


「いやああああぁぁぁぁッ!」


 結衣の悲鳴と愛菜ちゃんのくぐもった呻き声が木霊した。斃れた青年の身体の下に、徐々に水溜りが広がっていく。それは明るい日差しの下で見たのならば、きっと赤い色をしている液体なのだろう。


「よくも、亜紀を殺したな……!」


 硝煙を立ち上らせる自動拳銃を片手に、大和が立ち上がる。そう言えば僕を撃った時、大和はリボルバーを手にしていた。あの自動拳銃は、今までどこかに隠し持っていたに違いない。そして青年はすっかり気が緩んでいて、大和から武器を取り上げることを忘れていた。

 余りにもあっけないその死にざまは、青年が死んだことが冗談なのではないかと思ってしまうほどだった。僕らと尊敬する大和を助けようとしてくれていた青年は、その大和に頭を撃ち抜かれて死んだ。大和を修羅の道から救い出そうとしていた彼の想いなど、これっぽっちも顧みられることもなく。


 いったい彼がどんな人間だったのか、それを知る機会はほとんど訪れることは無かった。それでも僕にとっては青年はいい人で、この狂った村の中、仲間になってくれたらありがたいとすら薄々思っていたほどの人物だった。

 それを大和はあっさりと、まるで道端の石ころでも退けるかのように簡単に撃ち殺した。青年が救いたかった大和は、結局彼の想いを汲み取ることは無かったのだ。


「もうこの世界がどうなろうと、俺の知ったことではない。亜紀が死んだ今、俺に生きる意味は無くなった。だが……」


 大和が銃口をこちらに向け、唸るように続けた。


「お前たちだけは殺してやる。全てを滅茶苦茶にしてくれたお前たちを、俺は許さない」


 どうやら大和は、娘のことを心の支えにこの世界を生き続け、そして多くの住民を率いていたのだろう。たとえその娘が感染者と化しても、大和にとっては大切な存在だった。

 しかしその娘が殺された今となっては、全てが大和にとってはどうでもいいものになってしまったらしい。自分の命も、僕たちの命も。


 銃を向けられ思わず腰のあたりを探ったが、武器は先ほど腕を撃たれた後に全て取り上げられてしまっていた。ナオミさんと結衣は両腕を縛られたままだし、愛菜ちゃんにいたっては猿轡を噛まされたままだ。丸腰で銃を持った人間に立ち向かうなんて自殺行為だ。しかもその相手は、僕らを殺したがっている。


 大和の顔が、嗜虐の快楽に歪んでいるように見えた。今の大和に、僕らは太刀打ちできない。いたぶりながら殺すのも、あるいは一人ずつ撃ち殺していくのも、大和が好きに決められるのだ。

 拳銃を構えた大和が一歩一歩近づいてくる。逃げ出す、という考えは最初から頭の中になかった。3人を見捨てる真似は出来ないし、そもそも背中を向けて走ったところで、すぐに背中から撃たれる。逃げようとしたところで無駄だ。


 大和が自分が有利であることを過信して、もっと接近してくれればひと暴れして逃げるチャンスを作れたかもしれない。しかし大和は距離を詰めて来てはいたが、僕が飛びかかってきても即座に撃ち殺せるだけの間合いだけは取っていた。怒りで腸が煮えくり返っていても、心は冷静なままということか。


「死ね――――――!」


 ここまでか。今まで感染者からどうにか逃げ延びて来ていたのに、最期は同じ人間の手にかかって殺されるなんて。

 その引き金に指が掛かり、ゆっくりと引かれていく。思わず目を瞑った直後、銃声が再び駐車場に木霊した。



 今度は腕を撃たれた時以上の激痛が――――――襲ってはこなかった。それどころか、身体のどこも痛くない。

 この距離で外した? これだけ距離が近いのに? それとも大和には、本当は僕らを殺すつもりはなかったということか?



 ゆっくりと瞼を開き、両手を眺め、続いて地についた膝と太腿が視界に入ってくる。どこもかしこも血塗れだが、身体に穴は開いていない。


 顔を上げると、そこには胸から血の筋を引きながら、仰向けに斃れつつある大和の姿があった。真っ白なワイシャツを血の赤に染めた彼の瞳は、何が起きたかわからないとでも言っているように見える。

 そして背後を振り返ると、そこには今まで空気のように何も言わずに佇んでいた鏑木が、その手にリボルバー拳銃を握りしめて立っていた。その銃口から立ち上る硝煙が、誰が大和を撃ったのかを伝えている。


「な……」


 なぜ、と大和は言いたかったのだろう。しかしその言葉を最後まで言い終える前に、鏑木のリボルバーが火を噴き、地面に倒れた大和の身体が一度大きく撥ねた。額に風穴が開いた大和は最期まで何故自分が撃たれたのか理解できなかったようで、半開きになったままの口が、あっけなく死んだ男の心境を示しているかのようだった。


「……もう、止めましょうや。大和さん……」


 そう呟き、鏑木が拳銃を下ろす。

 今度は僕たちを狙うのか。そう思い、すかさず斃れた大和の手から自動拳銃をもぎ取り、鏑木へと構えた。だが鏑木はリボルバーを握った手をだらんと下げ、片手で懐から煙草の箱を取り出すと、一本加えて火をつけた。硝煙の香りに混じって漂う煙草の煙の臭いの中、鏑木はどこか満足げな顔をしていた。


「あんた、何で大和を殺した? あんたは大和の仲間じゃなかったのか?」

「いや……確かに俺は警察官で、彼も同業だった。だけど俺は心から彼のやっていたことに賛同していたわけじゃない。かといって、俺はお前たちの味方でもない。最期に大和を、死を以って救ってやった。それだけだ」


 鏑木は僕たちを助けてくれたのではないらしい。しかし今の鏑木からは、僕たちに危害を加えようとする雰囲気は漂っていなかった。


「ほら、これを使ってそのねーちゃんたちを自由にさせてやんな」


 そう言って鏑木は、僕から取り上げたナイフを放り投げてきた。思わずそれを空中でキャッチし、すぐさまナオミさんの両腕を縛っているロープを切断する。両手が自由になったナオミさんは青年の死体から拳銃を拾い上げ、同じく鏑木に銃口を向けたが、その顔には戸惑いの表情が浮かんでいた。


「あんたはいったい、何がしたかったんだ?」

「別に、何もしたいとは思っていなかったさ。このゴタゴタに都会に出ていた娘が死に、それからは全てがどうでもよくなった。だから大和がこの村で恐怖による統治を始めた時も、何となくそれに加わった。それだけだ」

「何となくって……それでどれだけの人が殺されたのよ!」


 自由の身になった結衣が叫んだが、鏑木は相変わらずどうでも良さそうな顔だ。煙草の煙を深く吸い、そして吐き出す。


「さあな、どうせ俺とは何の関係もない連中ばかりだ。生きようが死のうが知ったこっちゃない。ただ、大和はやり過ぎた。彼が生きていても、この先待っているのは地獄だろう。そして大勢の人を殺し、その理由であった娘すら失ってしまった彼は生き続けている限り、永遠にそこから抜け出せない。だから俺は彼を救ってやったんだ。今頃大和も、あの世で娘に出会えて喜んでいるんじゃないか?」

「あんた、おかしいよ……」


 それが今の僕の偽らざる気持ちだった。しかし彼がどんな気持ちで大和の行動に手を貸し、そして大和を殺したのか、僕には知ることが出来ない。僕は彼のことをよく知らない。唯一わかるのは鏑木もまた自分の娘を失ってしまった時点で、どこか「狂って」しまった人間なのだろうということだ。

 そう、皆狂っている。感染者と化した娘のために生存者を殺害していた大和も、それを反対も容認もせず、どうでもいいと従っていた蕪木も。そしてそのような残虐行為を半ば受け入れていた、この村の住民たちも。

 あるいは、僕も狂った人間の一人なのかもしれない。でなければここに来るまで大勢の住民を殺害し、「仕方ない」と言い訳をして無抵抗の者にまで手を掛けたことを説明できない。僕も大和も鏑木も、そしてこの村の住民たちも、皆大切な人を亡くしている。そしてそのことが、全員を狂気に走らせてしまったのかもしれない。


「じゃあどうする、次は私たちも殺す?」


 拳銃を構えたまま、ナオミさんが言い放った。その人差し指は既に引き金に掛かっていて、あと数ミリ指を引けば、銃弾が発射される状態だった。アメリカで武器の扱い方を習っていただけあって、拳銃を構えた姿勢が格好いいナオミさんを横目に見ていた僕の耳に、「いや、どうでもいい」という投げやりな鏑木の声が届く。


「遅かれ早かれ、この村は終わってた。お前らがそれを早めただけで、俺はそれにトドメを刺しただけだ。俺にお前らを殺す理由は無い。もっとも、いつかここで死んでおけばよかったと思う日が来るかもしれないがな」

「……あんたは、どうするんだ?」


 僕の問いに、鏑木は無言で答えた。上着の懐から一枚の、懐に収まりそうな大きさの写真を取り出すと、彼はそれを月明かりにかざして眺めた。


「俺は、もう疲れたよ。俺は一足先に、この地獄から退散させてもらう」


 止める暇は無かった。鏑木は最期にもう一度写真を見つめると、手にしたリボルバーの銃口を素早くこめかみに押し当て、引き金を引いた。ややくぐもった銃声が響き、次いで鏑木の身体がアスファルトの駐車場に叩きつけられる鈍い音がした。

 その瞬間風が吹き、鏑木が手にしていた写真が彼の手元を離れ、僕の足元へと転がって来る。思わず拾い上げると、写真には警察官の制服を着た今より少し若い鏑木と、彼の両隣に立つ二人の女性の姿があった。女性たちの顔は飛び散った血で汚れて見えないが、おそらく鏑木の妻と娘だろう。

 写真の裏側には、3年ほど前の日付が書かれていた。どうやらこの写真を撮った日付らしい。鏑木は妻のことについては何も喋っていなかったが、彼女はどうなったのだろうか?


「……結局、私たちはこの村の人々についてほとんど知ることが出来なかったね」


 ナオミさんがそう呟いた。そう、僕らはほとんど知ることが出来なかった。大和がどんな思いで娘のために生存者を生贄に捧げてきたのか、娘を失った絶望で全てがどうでもよくなった鏑木のこととか、助けられた恩を返すために必死に命を賭して行動した青年のこととか。

 だが彼らが死んでしまった今、それらを知る機会は永遠に失われた。知ったところでどうなるというわけでもないし、今のこの状況が変わるわけでもない。しかし何もかも知らないままというのは、何だか気持ちの悪いものだ。


「知る必要なんかないわよ、こんないかれた連中。人を殺して、勝手に仲間割れを起こして、挙句の果てには自殺して。いったい何なのよ、意味わかんない!」


 縛られていた両手首を擦りつつ、結衣が眼前に転がる三つの死体を罵った。そう言えば、結衣はなぜ大和が僕らを殺そうとしていたのかをほとんど知らないのだった。感染者のエサにされかけた僕は大和から理由を聞くことが出来たが、結衣たちにしてみれば突然住民が襲ってきただけのこと。今の今まで村中を逃げ回っていた彼女たちには、何が起きたのかを詳細に知る術はなかったということだ。


 大和が何をしようとしていたのか、それを教えようと口を開きかけた時、ここしばらくすっかり聞いていなかった獣のような咆哮が周囲に轟いた。どうやら爆発でおびき寄せられた感染者が、守備隊を突破して村に侵入を始めたらしい。耳を澄ませば銃声に混じってあちこちで悲鳴が響いていて、村の中で阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられようとしている様を僕に伝えていた。


 その悲鳴を聞いて、いい気味だ、と僕はどこか思ってしまっていた。感染者を生かすために生存者を生贄に捧げていた連中が、最後には村の外からやって来た感染者に殺される。天罰、自業自得だ。たとえ彼らが僕らに直接攻撃を仕掛けてこずとも、僕らを殺そうとした連中の一員であることに違いは無いのだから。


「どうやら、さっさとこの村を出た方がいいみたいだね。私は車が動くかどうか見てくる、皆は武器を集めておいて」

「食料や水は……積んでいる暇はないわね」

「そうだね。マナは私と来て、車に乗っていてね。外は危ないから」


 炎天下の車内に放置しておくわけにもいかないので、食料や水の類は村に来た日に全て余所に移してしまっていた。衣類や燃料も同様。かろうじて工具などは車内に置いたままだが、いつ感染者に襲われてもおかしくない今、それらの物資を求めて村の中を動き回るわけにもいかない。

 武器があるのだけは幸いだった。武器さえあれば、とりあえず感染者に襲われても撃退できる。僕は大和が持っていた自動拳銃をベルトに挿し、片っ端から死体を漁り始めた。

 ナオミさんが愛菜ちゃんに死体漁りの手伝いをさせなかったのは、良い判断だと言えた。ただでさえ同じ人間に襲われ、人が死ぬ様を目の前で何度も見せられた上に、その死体を漁るなんてことが小学生女子に出来るだろうか? 僕らと違って愛菜ちゃんはまだ幼いのだ、ここでの体験が後でどんな影響をもたらすかわかったもんじゃない。


 結衣も意を決して、散らばる銃を拾い集めていた。僕らを殺そうとした憎い男、大和の死体から拳銃のホルスターと予備弾倉を収めたポーチを回収し、青年の傍らに転がっていた上下二連の散弾銃を拾い上げる。プラスチック製の赤い装弾シェルは、青年のポケットを漁るといくつも出てきた。他にも自殺した鏑木の警官用リボルバー拳銃を拾い、僕が背負っていたリュックにそれらを突っ込んだ。

 大和に腕を撃たれた後武器は全て取り上げられていたのだが、それらは少し離れた場所に纏めて置いてあった。クロスボウを拾い、ライフルを肩にかける。ずっしりと重くなった身体を引きずり駐車場に停めっぱなしだった車に向かう僕の後を、拳銃や弾薬を両手に抱えた結衣がついて来る。


「燃料は一応入ったままだけど、どこまで保つかわからない。近くでガソリンを調達しないと」

「この村のは……そういや僕が吹っ飛ばしたんだった」

「あの爆発、あんたがやったの?」


 結衣が目を丸くした。元々この村にやって来たのは、少なくなりつつあった燃料を手に入れるためだった。しかし今は給油なんてしている暇はないし、出来る場所もない。この村唯一のガソリンスタンドは、僕が爆破して今は火の海だ。


「行けるところまで行くしかないですよ、どうせこの村は終わりだ。グズグズしてたら感染者に囲まれる」

「だよね……よし、全員早く車に乗って! 荒っぽい運転になるから、ちゃんとシートベルトをして」


 集めた武器弾薬を後部座席に放り込み、助手席に回り込んだ僕は、ヘッドライトで照らされる道路で何かが動いたのを見逃さなかった。すぐさま一体の感染者が光の輪の中に姿を現し、血が混じった涎を口の端から垂らしながら突進してくる。


「クソ……!」


 とっさにベルトから拳銃を抜き、引き金を引く。撃たれた左腕に激痛が走ったが、構わず続けて発砲。自動拳銃のスライドが後退し、排出された薬莢が月の光を受けてきらめく。動き回る感染者を一発で仕留めるのは難しく、5回引金を引いたところで、ようやく一発が腹に命中した。

 すかさずナオミさんがドアを開けて上半身を乗り出し、動きが鈍った感染者の頭を一発で撃ち抜く。「ドア閉めて!」と彼女が叫ぶ前に助手席に身を滑り込ませ、シートベルトを締める間もなくナオミさんが車を発進させた。


 駐車場を出てすぐに右折し、村の東側にあるというゲートを目指す。途中何度か感染者に遭遇したが、ナオミさんが巧みなハンドルさばきでそれらを全て避けていった。現代の自動車というのは案外脆いもので、何人も引いていたらエンジンが壊れてしまう。ここで車アシを失ってしまえば徒歩で村を脱出するより他になく、それは僕らにとって死を意味していた。


「うわあ……」


 建物の屋上でライフルを持った男を殺し、ナオミさんたちを援護した村を東西に貫く通りに出た時だった。一台のマイクロバスが電柱に衝突し、その周りに感染者が犇めいている現場に僕らは遭遇した。どうやらバスには村を脱出しようとしていた住民たちが乗っていたらしく、しかも彼らはまだ車内に取り残されているようだった。

 目を血走らせた感染者たちが動かなくなったマイクロバスを取り囲み、車体に拳を叩きつけている。今はまだ車内に侵入されていないようだが、それも時間の問題だろう。バスの周りに感染者がいては、車内の住民たちも外に出られない。そして感染者らの殴打によって窓が破られつつある今、バスの車内も安全な場所ではない。


「……行きましょう」


 ルームミラーには愛菜ちゃんの潤んだ瞳が映っていたが、僕は迷わずそう言った。どの道あれだけの感染者に囲まれていては助けることはできない。ナオミさんもそれを理解しているのか、何も言わずにアクセルを踏み込んだ。

 事故を起こしたバスの脇を猛スピードで突っ切ると、感染者も僕らの存在に気が付いたらしい。バスを取り囲んでいた感染者の内の何体かが走って追いかけてくる様子がサイドミラーに映し出されたが、その姿は急速に小さくなっていく。そしてその背後ではとうとう窓ガラスが破られたのか、感染者が割れた窓から上半身をバスの車内に突っ込むのが見えた。



 そのまま東に向かって走り続けると、この村に来た初日に通ったような門が道路に築かれていた。逃げ出したのか、それとも全滅したか。門を守る守備隊員の姿は周囲にはなく、また厳重に閉じられていなければならない門も開け放たれていた。

 門を通り過ぎ、森に入ったところで、全員の口から安堵の溜息が漏れた。もっとも、この森もまだ安全だとは決まったわけではない。ナオミさんが道路の左右に広がる森を注意深く見つめながらハンドルを握るその後ろで、結衣が疲れ果てた表情で言った。


「なんだか、疲れたね」

「ああ、疲れたよ。今日一日だけで何回死にかけたことやら。まあこれも、貴重な体験ってとこかな」


 普段なら笑いが返ってくるはずだったが、車内は沈黙に包まれたままだった。皆が黙っているのは疲れたから、だけではないだろう。この村での出来事を通して、皆自分の中で何か変化が芽生えつつあるのだ。

 といっても、その変化が良いものだとはとても思えない。人を殺し、殺される様を見て芽生えた変化が、良いものであるはずがない。そして皆これからは、認識を改めるだろう。今までは感染者からただ逃げていれば良かったが、これからは頭のおかしい生存者と戦うことになるかもしれないと。


 僕は無意識の内に、大和が持っていた自動拳銃に目を落していた。銃を人に向ける時が、またやってくるのだろうか?

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