第五〇話 他人のお話

 太陽が地平線の彼方へと沈み、街が暗闇に包まれた頃、ようやく全ての部屋の安全確認が終わった。あの後5体ほどの感染者をマンションで発見し始末したが、幸い外に屯する感染者の群れに僕らの存在を気づかれずに済んだ。

 多くの部屋のドアには鍵が掛かっていたが、マンションならばわざわざドアをぶち破る必要は無い。鍵が開いている最上階の部屋からベランダに出て、仕切りを破って隣の部屋に行ったり、非常用の梯子を使って階下に降りて窓を割ればいいからだ。それでも二人で40近くの部屋を回るのは時間がかかり、気づいた時には夜になっていた。


 そして僕らは最上階の一室を拠点に定めた。高くて地上からは見えないだろうが、念のために閉めておいたカーテンが、ガラスが割れた窓から吹き込む風に揺れている。最上階は一室だけ鍵のかかっていない部屋があったが、そこに入った僕とナオミさんを出迎えたのは、一体の腐乱死体だった。

 死体の主はどうやら自ら命を絶ったらしく、天井からは先端が輪っかになったロープがぶら下がっていた。そして死体の男はかなり前に自殺したらしく、腐乱で脆くなったせいかロープで締め付けられていた首と胴体が真っ二つになっていた。


 その時の僕らに、もはや死体を片付ける気力と体力など残っていなかった。死体を見つけた部屋から一番遠い部屋を拠点に定め、そこで寝泊まりすることになったが、408号室に転がる生首と胴体は未だに放置されたままだ。幸い部屋の窓もドアも閉め切って来たので腐臭が外に漏れることはないが、愛菜ちゃんの精神衛生のために近くに死体が転がっていることは秘密だった。

 僕としては、別に近くに死体があろうがなかろうがどうでもいいことだった。マンションの外には死体よりも恐ろしい感染者が歩き回っているし、死体はとっくに見慣れている。何より人間や感染者を問わずこれまでいくつも死体を生み出してきた僕は、今さら腐乱死体の一つや二つで騒ぐほど純粋な人間ではなかった。


「ご飯、出来たわよ」


 夜の見張りに備えてソファーに横たわっていた僕は、結衣のその言葉と香ばしい臭いで目を開けた。テーブルの上でカセットボンベのコンロを使い、フライパンを火にかけていた愛菜ちゃんが、肉の塊を皿に盛った。

 ナオミさんが仕留めた鹿の肉の、その残りだった。大沢村を脱出したものの、食料を回収することが出来なかった僕らはその後たちまち飢え始めた。水は川や沢で入手できるが、食料はそう簡単にはいかない。感染者を避けて森の中を移動していた僕らは、入手したばかりの銃を使い、狩りを行わなければならなかった。


 獲物はたくさんいた。野鳥に野兎、リス。それらは簡単な罠で捕まえられたし、銃やクロスボウを使えば一発で仕留めることも出来た。中でも最大の獲物はナオミさんが見つけ、散弾銃で仕留めた鹿だ。

 ナオミさんは生まれ故郷でもよく銃を用いた狩りを行っていたらしく、二日間も獲物を追って移動を続けたことがあるらしい。魚ですらほとんど捌いたことがない僕らを余所に、ナオミさんは手早く狩った獲物を解体していた。この肉も、その時に余って干し肉にしたものだ。


「ようやく味つけされた食事が出来るわね……」

「村を出てからは単に焼いた肉しか食べられなかったからね、野菜はそこらに生えていた得体のしれない葉っぱだったし」


 その葉っぱもナオミさんが採ってきた「食べられる」野草だったらしいが、調味料なしでは酷い味の雑草でしかなかった。このマンションで缶詰などの保存食品や調理器具を見つけた僕らは、数日ぶりに文明的な食事にありつけた。

 もっとも、焼いた肉の隣に並ぶご飯や缶詰は、例の首吊り死体があった部屋で見つけたものだが。どうやら408号室にいた男は、感染拡大後もこのマンションで暮らしていたらしい。男の部屋からは大量の空き缶やレトルト食品の袋が見つかり、まだ手を付けられていない数日分の食料も見つかった。

 他の部屋に誰かが押し入った形跡は無かったから、マンションの部屋を全て探せばもっと食料が見つかるだろう。それなのになぜあの男は、自ら死を選んだのか。死体となった今ではその理由はわからない。


 この世界に絶望したのだろうか? それとも単に疲れた? あるいは何となく死を選んだ? しかし僕は、わざわざ自分から死を選ぶなんて感覚が理解できない。そして大沢村で今度こそ殺されるかという経験を経た今では、その気持ちが一層強くなっていた。

 途端に箸を持った手に、斧の刃が肉を切り裂く感触が蘇った。考えないようにしていても、僕があの村で行った行為の数々は、脳裏から消えることは無い。


「あんた、怖い顔してるわよ。愛菜ちゃんが怖がってるじゃない」


 結衣の言葉で我に返ると、テーブルの反対側に座る愛菜ちゃんが、確かに怯えた顔で僕を見つめていた。せっかくの食事時に悪いことをしたなという申し訳ない気持ちと同時に、助けてやってるのにその顔はなんだという半ば苛立ちの感情が腹の底から湧いてきていることに気づき、僕は愕然とした。

 どうやら僕は、以前よりも自分勝手な人間になってしまったらしい。大沢村で経験した本物の死の恐怖が、僕の「死にたくない」という気持ちを強くしてしまった。今の僕は生き延びるためだったら、それこそ本当に何でもやるかもしれない。


 愛菜ちゃんに苛立ったのだって、心のどこかで彼女を足手まといだと思う気持ちがあったからだ。僕らと出会ってからずっと、愛菜ちゃんは守られる立場の人間でしかない。これまでずっと僕たち3人が戦って、愛菜ちゃんの安全を確保してきたのだ。

 小学生の女の子がまともに戦えるはずがないことは、いくら僕でも理解している。しかしこの世界で誰かを守りながら戦い、生き抜くことはとても難しいのだ。現状、愛菜ちゃんは僕らのお荷物でしかない。


 物資の捜索をする時だって、愛菜ちゃんを守るために一人は残さなければならない。その一人を探索に回すことが出来れば、あるいは愛菜ちゃん自信が戦える人間であれば、もっと短時間で物資を集められる。感染者が襲ってきた時だって、僕らは背後愛菜ちゃんを気にしながら戦わなければならない。彼女がいなければ、僕らは目の前の敵に集中できる。

 それこそ自分勝手で残酷な考えだとは理解していたが、僕はそんな思いをこのところ頭から拭い去ることが出来なかった。大沢村での一件が僕を変えてしまったのか、それとも単に疲労や空腹のせいでストレスが溜まっているのか。そもそも僕がそんな考え方のひねくれた人間だったのか。


「……ごめん、ちょっと疲れてて」


 今はとにかく、謝ることにした。これ以上考えていたら、思考がますますネガティブな方向へと曲がってしまいそうだ。




 久々のまともな食事の後、僕は拳銃を片手に部屋を出た。既に寝息を立てはじめた結衣と愛菜ちゃんを部屋に残し、そっとドアを閉める。

 夕食の席にいなかったナオミさんは、屋上でずっと見張りを行っているはずだ。そもそもこのマンションを選んだのは、この近辺で一番高い建物だからだ。普段ならば周囲に空き缶を吊るした釣り糸などを用いた簡単な警報装置を張り巡らせるところだが、今は材料がない。騒がしくしていなければ感染者の注意を引くことはないが、それでも万一という言葉がある。結局、誰かが見張りをやるしかない。


 屋上への階段を上り、さらに屋上に設置された大人の背丈をはるかに超えるほどの貯水タンクの壁面から突き出た梯子を上っていく。完全が陽が落ち、さらに街に街灯やネオンサインといった文明の光が一切灯っていない今、夜空を仰げば無数の星が目に映る。

 梯子を上る音で僕が近付いていることに気づいていたのか、タンクの上に上がるなりナオミさんが僕を出迎えた。貯水タンクは大人が数人寝転んでも有り余るほどのスペースがあり、タンクの上にはナオミさんが持ち込んだ水の入ったボトルや双眼鏡が置かれていた。


「じゃ、また朝に」


 そう言ってナオミさんは、スコープが装着されたライフルを僕に手渡した。大沢村で守備隊員から奪ったあの銃だ。銃を使えば感染者が寄ってくるかもしれないが、非常事態を告げる警報代わりにはなる。まあ僕の腕では数百メートルの距離にいる感染者を狙い撃つことなんて、とても出来ないけど。


「ええ、おやすみなさい」


 これから5時間、僕はこのタンクの上で見張りを行う予定だった。その後は結衣と交代して、彼女が朝まで見張りを続行することになっている。万が一感染者がこちらに気づいた時は、無線機を使って皆に知らせなければならない。

 ナオミさんが梯子を下りていく音を聞きながら、僕は貯水タンクの屋上に胡坐をかき、膝の上にライフルを載せた。座った状態では腰の拳銃が邪魔なので、ホルスターごと外してタンクの上に置く。ホルスターには大和の死体から奪った、ドイツ製の自動拳銃が収まっていた。


 ナオミさんが屋上を去ってからしばらく経った頃、ふと思い立って拳銃をホルスターから抜いた。グリップに収まった弾倉マガジンを外し、スライドを引いて薬室の初弾を排出する。そしてグリップを握り、自分のこめかみへと銃口を突き付け、引き金を引こうとした。

 が、出来ない。弾は入っていないのに、僕は引金を引くことが出来なかった。もしも何かの手違いでこの拳銃に弾が入っていたら、僕は人差し指を少し引くだけで人生を終わらせることが出来る。そう考えると、死にたくないという気持ちが心の底から湧きあがってきて、空の銃とはいえ引き金を引くことが出来なかった。


 やっぱり、僕には自殺をするような人間の気持ちが理解できない。改めてそう実感し、僕は監視の仕事に戻った。双眼鏡に目を当て、あちこち見回す。しかし月明かりが頼りの状態では地上の様子などほとんどわかるはずもない。たまに道路をうろつく感染者の影が視界に入ったが、それが男か女なのかですら把握できないのだ。


 そんな時、街の南側を双眼鏡で眺めていた僕は、道路を二つの影が横切るのを見た。二つの影は素早い動きで建物の影に隠れ、見えなくなってしまった。。

 一瞬感染者かと思ったが、あれは獲物を追う感染者の動きではない。そう、まるで感染者から逃げる人間のようだった。

 それに感染者が獲物を見つけたら、咆哮でますます他の感染者が集まって今頃大騒ぎだろう。それに感染者は普段はとろいから、理由もなくあんな素早く動き回るとは思えない。


 もしかして生存者なのか。大沢村での一件を思い出した僕は、気が重くなるのを感じた。

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