第三七話 大脱走のお話

 両手は拘束されたままだったが、後ろ手に縛られていなかったことが幸いした。僕が振り回したナイフの刃は僕の隣にいた守備隊員の二の腕に突き刺さり、手が生温かい血で濡れた。

 人間相手にナイフを突き刺すのはこれが初めてだったが、何の感慨も湧かなかった。今まで無防備な感染者を背後から刺殺したことは何度もあるし、そもそも今は余計なことを考えている暇がない状況であることもその原因だろう。


 20代半ばらしい刺された守備隊員は獣の咆哮のような悲鳴を上げたが、その頃には僕は血塗れのナイフを彼の腕から引き抜いていた。ナイフなどの刃物は刺すと筋肉が収縮して抜けにくくなると聞いたことがあるし、実際感染者の死体からナイフを引っこ抜こうとして難儀したこともある。

 肉からナイフが引き抜かれる実にいやな感触が手に伝わってきたが、僕はそれに構わずナイフを振り回して叫んだ。


「どけーっ!」


 縛られたままの両手でナイフを構え、やたらめったらに振り回す。刃渡り数センチしかないナイフなんて銃を持った人間の前では脅威でもなんでもないはずなのだが、今まで無防備だと思っていた相手がいきなり血塗れでナイフを振り回し始めてビビったのだろう。僕の隣に立っていたもう一人の守備隊員は尻餅をついて振り回されるナイフの刃を回避し、僕の前に立っていた村の住民たちが一斉に飛びのいた。海を割って海底を歩くモーゼの如く、群衆の海を割って僕は元来た洞窟へ向かって走った。


「止まれ!」


 ようやく動揺から立ち直ったのか、背後から守備隊員の怒声が飛んできた。だが、もちろん立ち止まるはずもない。いつまでもこんなところにいたら、感染者たちの餌食にされてしまう。

 しかし続いて地下壕内に鳴り響いた銃声に、僕は思わず立ち止まりそうになった。拳銃や猟銃の単発の銃声ではなく、連続した銃声。警察用の短機関銃サブマシンガンが僕を狙っている! 両脇に迫る岩肌に火花が散り、粉々に砕け散った岩の破片が目に飛び込む。


「撃つな、奴が死んだらどうする!?」


 一瞬だけ聞こえた銃声は、大和の叫び声で途絶えた。だけど大和も子供に銃口を向けてはいけないというヒューマニズムから射撃を中止させたのではなく、単に僕が死んだら困るから撃つのを止めさせたのだろう。感染者は生きた人間しか食わない、僕が死体になったらエサが減るだけだ。


 人間から銃撃を受けたのも初めてだ。もっとも、感染者は銃を使うような知恵はないけど。

 銃撃を受けて萎えそうになる心に喝を入れ、足に力を込めて走り続ける。背後から追ってくる守備隊員や住民たちの罵声と足音が、狭い洞窟内に反響して僕の耳に突き刺さる。

 走りながらナイフの刃で、手首のロープを切る。身体が揺れているうえに手元が良く見えない中でナイフを操るのは危ないような気がしたが、かといって立ち止まる余裕はない。十数秒かけた後、どうにかして忌々しいロープを切ることが出来た。

 十メートルおきにぶら下がっている電球以外に明かりは無く、転ばないよう足元に注意しながら逃げた。洞窟は一本道で、この先に何があるのか僕にはさっぱりわからない。僕が閉じ込められていた小部屋があることだけは間違いないが、もしかしたらその先は行き止まりなのかもしれない。


 だからと言って元来た道を引き返すわけにもいかなかった。地下壕の構造を知らない僕に出来ることは、このまま走り続けることだけだ。今の僕は袋の鼠なのかもしれないが、座して死を待つつもりも諦めるつもりもない。逃げ場がないならせめて派手に暴れ回り、手こずらせてやるだけだ。

 結衣たちがどうなったのか、今の僕には知る術がない。だが、多分今すぐ死ぬような目には遭っていないに違いない。もし僕と一緒に感染者の餌にするつもりならばこの地下壕に連れて来られているはずだが、あの場に結衣たちの姿は見えなかった。つまり餌にするのはまだまだ先なのか、あるいはそもそも掴まっていないのかもしれない。

 どちらにせよ、向こうにはナオミさんという最強の人物がいるのだ。彼女ならばどんな状況でも生き延びることを優先して行動しているだろう。そう簡単にはやられていないという自信があった。



 しかし、僕はいったいどこまで走ればいいのか。そう思った時、目の前の岩肌に見覚えのある鉄の扉が迫って来た。あそこは気絶していた僕が放り込まれていた小部屋だ。扉の上には部屋番号でも書かれていたらしい金属板が貼られていたが、錆びついていてよく見えなかった。

 見ればその奥にも、同じような鉄の扉が並んでいる。さっきは振り返る暇もなくて気づかなかったが、多分ここは居住区角か何かだったのだろう。だとすると、目の前の扉の中の部屋も、僕が閉じ込められていた部屋と構造はさほど変わるまい。ならばその中に逃げ込んだところで出口は無い。


 部屋に入らず走り続けると、徐々に洞窟の幅が広くなっていく。出入り口が近いのだろうか? そう思った瞬間、僕の頬を風が撫でた。

 風が吹き込んでいるってことは、出口が近いということだろう。こっちに向かって走り続けて正解だったようだ。背後からは相変わらず守備隊が追いかけてきているが、とりあえず外に出られればこっちのもんだ。


 吹く風は徐々に勢いを増し、やがて前方に出口が見えてきた。今は夕方なのかオレンジ色の光が出口から差し込み、外からは虫の鳴く音が聞こえてくる。


「やった……」


 これで自由だ。そう思ったのも束の間、勢いよく出口から外へ飛び出そうとした僕の目の前に、ぬっと何かが姿を現した。農作業から帰る住民なのだろう、斧を腰のケースからぶら下げた40代半ばといった男性が、驚愕に目を見開いてこちらを見ていた。

 おそらく彼にとっても僕の出現は予想外だったに違いない。勢いがついた身体は急には言う事を聞いてくれず、棒立ちになった男に僕は突進を掛けていた。鈍い音と共に身体に衝撃が走り、2人そろって地面を転がる。天地が二転三転し、僕の視界いっぱいに地面と夕焼けの空が交互に映った。


「すみませ……」


 顔を上げ、つい癖で謝ろうとした僕が見たものは、一足早く立ち上がり、手斧を振りかぶってこちらに向かってくる男の姿だった。そういえば、この村の住民は全員が敵も同然なのだった。目の前の男もたまたま僕を感染者たちの生贄に捧げる場にいなかっただけで、大和たちのやっていることを知っているはずだ。そしてこの村に来た避難民がどのような目に遭っているのかも。


「動くな、おとなしくしろ!」


 男はそう叫び、じりじりと僕ににじり寄ってくる。やはりこの男も、僕がこの場にいてはならない人物だとわかっている。本来なら僕は今頃背後の地下壕の中で、感染者たちの胃袋に収まっていなければならない。それなのに目の前にいるということは、きっと何かあったのだろうとわかっているのだ。

 彼とも話し合いは通じそうにない。すかさず背を向けて走り出すと、背後からも足音が追ってくる。だけど僕はまだまだ若さあふれる10代、それに比べて相手は萎び掛けた40代のおっさんだ。飛び道具は持っていないし、感染者と化した家族を生かすためには僕を食わせなければならない。ならば斧を投げつけたり致死的な攻撃はしてこないだろう。充分逃げ切れるはずだ。



 そう思ったのも一瞬のうちだった。突然背後から何かがぶつかったかと思った次の瞬間には、僕は地面に押し倒されていた。訳も分からず混乱する僕の耳に、「捕まえたぞ!」と叫ぶおっさんの声が入ってくる。

 中年のくせに10代の僕に追いつくなんて、いったいどういう脚力をしているんだろうか。果てしなく疑問がわいてきたが、次の瞬間腕が後ろ手に捩じりあげられ、思わず悲鳴が口から零れ出ていた。


「痛ってえな、放せ!」

「すまない、許してくれ。妻と子を失うわけにはいかないんだ、許してくれ……」


 万力のようにがっちりと僕の腕を押さえながら、おっさんはそう口にしていた。彼も大切な人が感染者と化し、それを殺すことが出来なかった人間の一人なのだろう。家族が感染者と化した事には同情するが、だからと言って自分の手で理性を失い人の形をした凶暴な獣とした家族に手を下さなかった彼も、大和やあの地下壕にいた住民たち同様決断から逃げた人間に過ぎない。家族を生き長らえさせるために、僕を殺そうとする背中の上のおっさんに対して、容赦するつもりは一ミリもなかった。


 ……が、僕に馬乗りになったおっさんは重い上に、捻りあげられた腕が激痛を発している。じたばたと足を振り身体を揺すっても、上に乗ったおっさんが退いてくれることはない。

 さらには背後から砂利を踏む足音まで聞こえてくる。やはり僕のあがきは無駄だったのか。僕はこの村で、誰にも知られずに感染者たちの胃袋へと消えていく運命なのか。


 そんな考えが頭をよぎった途端、「ゲッ」とカエルを踏みつぶしたような呻き声と共に、生温かい液体が頭上から降ってきた。砂利が真っ赤に染まり、僕の腕を捻りあげていたおっさんの手から力が抜ける。

 慌てておっさんの下からはい出し振り返った僕が見たものは、おっさんの胸から突き出した、血に塗れたハンティングナイフの大きな刃だった。刃渡り20センチ以上はあろうかという鋭い刃が夕日を浴びて輝き、口から血を吐きだしたおっさんがその場に倒れ込む。その身体からナイフを引き抜いたのは――――――。


「なんでアンタが……」


 散弾銃を肩から吊り、ナイフを振って血を払っていた坊主頭の若い男は、さっき僕を村役場まで送って行った守備隊員だった。余所者である僕らにさっさと出て行けと言っていた彼が、何故同じ村の仲間を殺してまで僕を助けてくれたのか?


「怪我はないか?」


 ハンティングナイフを鞘に仕舞い、散弾銃を手にした守備隊員が尋ねる。思わず頷くと、彼は僕に何かを押し付けてきた。さっきまでおっさんが振りかぶっていた、作業用の手斧だ。


「ついてこい、ここは危険だ」

「どうして僕を……」

「今は説明している暇はない。が、とりあえず俺はお前の敵じゃないってことだけは言っておく。だからくれぐれも背後から斬りかかるような真似はするなよ」


 僕を襲って感染者の餌にしようとした守備隊に所属する目の前の青年が言ったところで説得力はなかったが、もし彼らが大和の仲間なら今頃僕に銃口を突き付けているはずだ。油断させたところで捕まえるための演技? ならわざわざ近接用とはいえ武器を手渡すか?

 とにかく今は、彼を信用するしかなかった。今の僕は一人なのだ、しかも周りは敵だらけ。そんな中で現れた青年についていくしか、僕に選択肢はない。


「行くぞ」


 もはやピクリとも動かない血塗れのおっさんを砂利道のど真ん中に放置し、青年は道の左右に広がる林に足を踏み入れる。まだ痛む腕で斧を握りながら、僕も彼の後を追った。

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