第三三話 オレンジジュースしかなかったお話

 村役場までの数分間は、非常に気まずかった。揺れるトラックの荷台の上で青年と二人、黙っているのは僕にとってとても苦痛だった。自分のことをよく思っていない相手と一緒にいて、楽しい人間がいるか?

 やっとトラックが役場に到着し、駐車場で僕を待っていた鏑木さんに会った時は、ようやく解放されると安堵したものだ。睨みつける青年と何も知らないであろう運転手の男性に礼を言うと、僕は鏑木さんについて役場の建物に入る。


「今日は何で大和さんに面会を?」

「ちょっと尋ねたいことがあるので」

「そうか」


 心なしか、鏑木さんの態度は素っ気ないもののように思えた。もしかしたら彼も青年と同じく僕に良い感情を持っていないのかもしれないが、そのことは気にしないようにした。

 人気もなく、薄暗い廊下を二人進んでいく。やがて一週間以上前に訪れた村長室の木製の扉が見えてきた。鏑木さんがノックすると、厚い扉の向こうから「入れ」と村長代理を務める大和さんの声が響いてくる。


「やあ、久しぶり。今日はどんな用件でここに?」


 大和さんが僕に見せる笑顔は初めて会った時のそれと変わりないように見えるが、何かが違う気がした。上手く言葉に出来ないけど、何だか雰囲気が違う。


「ちょっと色々訊きたいことがあって。いくつか質問したいことがあるんですけど、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ。っと、何か飲むかい? とはいってもオレンジジュースしかないけどね」

「すいません、頂きます」


 大和さんはインターホンらしきマイクに「ジュースを持ってきてくれ」と吹き込むと、僕を机の前に並べられたソファーに座るよう促した。言われるままに座ると、柔らかいソファーに身体が沈みこむ。

 ドアがノックされ、お盆にオレンジジュースを満たしたコップを載せて、受け付けにいた女性が部屋に入ってきた。大和さんは彼女からジュースを受け取ると、僕の前のテーブルに置く。


「どうぞ、冷えたジュースなんて長い間飲んでないだろう?」


 確かに、冷えた飲み物なんてこの村に来るまでほとんど飲むことが出来なかった。この村に来ても飲んでいたのは冷たい地下水で、冷たいジュースは感染爆発後一滴たりとも飲んでいない。

 インフラが死んだせいで、冷蔵庫が使えなくなったせいだ。マンションなどの貯水タンクに溜まっていた水は日光に当たって温くなっていたし、川の水も沸かしてから飲むようにしていた。いくら冷たくても、川の上流に何があるかわからないせいだ。透明で綺麗に見えても、上流では死体が水に浸かっていたかもしれない。感染症などの恐れを考えると、冷たい水を飲むことはほぼ不可能になっていた。


 コップに手を触れると冷たく、結露で手が濡れた。恐る恐る口をつけると、途端に口の中に甘酸っぱい味が広がる。ジュースや清涼飲料水事態はペットボトルや缶、瓶に詰まっていたものを何度も飲む機会があったが、やはり冷たいジュースは格別だった。ちょっと変な味がするような気がするが、製造から最低でも3か月以上が経過しているのだ。文句を言うってのは野暮ってもんだろう。


「それで、訊きたい事って?」


 大和さんはお盆をこれまた高級そうな机の上に置くと、テーブルを挟み僕の前のソファーに座った。その腰には、相変わらず拳銃がホルスターに収まって下がっている。


「もしかしたらこの村の人たちを不愉快にさせる質問かもしれないんですけど、訊いてもいいですか?」

「いいよ、不安を抱えて生きていくのは辛いだろうし」

「それじゃ訊きます。どうして僕たちを家の敷地から外に出したくないんですか?」


 その問いに、大和さんは普段と変わらぬ落ち着いた様子で答えた。


「下手に出歩いてもらって、感染者にこの村の存在を嗅ぎつけられたくないから――――――といっても納得してくれないんだろう?」

「ええ。僕らが滞在する家は、村の境界線からかなり離れている。感染者が村の中に入ってきてでもいない限り、まず見つかることはない。それなのに散歩すらさせてもらえないし、一歩でも出歩いたらたちまち村の警備隊の人たちが駆けつけてくる」


 まるで見張っているとしか思えない――――――いや、実際に見張っているのだろう。でなければあれほど早く、警備隊がやって来るはずがない。

 その疑問をぶつけると、大和さんは腕を組み、「悪いが、君たちのことを見張っていた」といきなり白状した。


「悪いが、余所者を信じられないという住民も多くてね。現に何度か、前にやって来た避難民たちが好き勝手に行動して住民との間に諍いを起こしたこともある。そのせいで外からやって来た人間は、しばらく見張って安全かどうか判断する期間を設けているんだ。だから君たちを迂闊に外に出すわけにはいかなかった、黙っていてすまない」


 大和さんが言うには、以前この村に避難してきた若者の集団が、ここが安全な場所だとしるや否や好き勝手やり始め、最終的には銃をチラつかせて追い出す羽目になったのだという。僕らもそんな人間ではないかと、大和さんたちは警戒していたというわけだ。

 あの青年が僕に出て行けと言ったのも、件の好き勝手やった挙句追い出された若者たちの二の舞になるのではないかと警戒していたのだろう。そんなことがあったのなら、外部の人間に警戒感を抱く人間がいてもおかしくはない。


「もし君たちがルールなんて知ったこっちゃないとでも言うような行動を取れば、村から追い出すことになっていた。だがまあ、君たちは決められたルールを順守して生活してくれた。外出が出来ずにストレスを溜めさせてしまったのは、こちらのミスだ。すまない」

「いえ、ならいいんですが……。じゃあ次の質問いいですか?」

「ああ、いいよ」

「僕らを働かそうとしないのはなぜです? このご時世、ただで食事と住居を提供するなんて考えられないことです。その見返りに労働を求められてもおかしくないし、現に僕もそれを予想してました。どうして僕らをニート状態にさせておくんですか? 人手は本当に足りているんですか?」


 大和さんの答えは、先程と同じだった。労働で得られる成果よりも、完全に信用しきれない僕らを外に出すリスクの方が大きかったということだ。労働の際に外に出て、そこで好き勝手されてはたまらない。それよりも家の中に閉じ込めておいて、安全な人間かどうかを見極める。彼らはそちらを優先しただけのことだ。


「実を言うと、人手は足りていない。だが君たちが外をうろついた場合、その監視と捜索に人手を割く方がもっと非効率的だ。その分君たちを家に閉じ込めておけば、監視する要員は最小限で済む」

「やっぱり、初対面の人間は信じられないですよね……」

「正直に言えばそうだ。事実まだ警察が機能していた時、各地で暴動が発生しているという情報が入ってきていてね。こんな混乱したご時世に、法も秩序も無くなったと勘違いして暴れだす人間は多い。事実この村にもそういった類の人間が何度かやって来たことがある」


 それでも大和さんたちが避難民を受け入れ続けているのは、こんな状況であっても彼らが人間を信じようとしている集団だからに違いない。そう思った僕は、今まで彼らを疑っていたことを内心恥じた。この村の人々が厄介ごとに巻き込まれたくなかったら、避難所の看板を出さないだけでいいのだ。そうすれば誰もこの村の存在に気づかず、大沢村の人々は安心して暮らしていけるだろう。


 村を出て行ったという避難民たちは、大和さんが言っていた「好き勝手やっていた連中」がほとんどだろう。でなければ、こんな安全な村を出て行こうとは思うまい。彼らはルールに従って平穏無事な生活を保つより、自分たちの欲望のままに行動したいと思い、この村を出て行ったに違いない。

 風呂に入っている時に聞こえてきた感染者の遠吠えのような音も、風の音がそう聞こえただけだろう。あるいは村の近くまで本当に感染者が来ていたか。どちらにせよ、僕が不安に思うことは一つもない。


「……すいません、色々訊いて」

「いや、いいんだ。私たちにとっても人々の不安を取り除くことは重要だからね。それより、こちらからも一つ訊かせてもらっていいかな?」


 僕に質問? なんだろうか? 僕らがどこから来たとかそういった基本的な情報は、この村に来た日に全て教えてある。今さら何を訊こうというのだろう?

 腕時計に目をやった後、大和さんは口を開く。 


「君は、感染者に昔の感情や記憶があると思うかい?」


 僕が首を縦に振るなりそう言った大和さんに、思わず彼の頭を疑った。


「え? いや、質問の意味がよくわからないんですけど」

「私たちが感染者と呼ぶあの『元』人間たちに、昔のままの感情や記憶があるかどうか。君はどう思う?」

「あるわけないでしょうそんなもの」


 僕は即答した。

 感染者はウイルスによって理性が吹っ飛び、食欲と闘争本能に従って行動するだけの存在だ。人間を見かければ殺して食う、そこに人間らしさは微塵もない。脳のリミッターも外れてしまっているし痛覚も鈍いから、いずれ失血死するとはいえ下半身を切断されても地を這い追ってくる。連中は人間の形をした野獣も同然なのだ。


 そんな誰が見ても明らかな事を、どうして大和さんが訊いてくるのか質問の意図がわからなかった。彼は感染者を見たことがないのだろうか? いや、勤務していた警察署からここから逃げて来るまでの間に、街の惨状はいくらでも見てきただろう。無残に感染者に食い殺された人々の亡骸を一目でも見れば、そんなことは思いもしないはずだ。


「あいつらは見た目は人間なだけで、中身は理性の欠片もない獣ですよ。仮に記憶や感情があったとしたら、どうして僕らを襲うんです? 同じ人間なら襲おうとは思わないはずでしょう?」

「それはどうだろうか? もしかしたら彼らは人間らしくあろうと思いつつも、人間を食いたいという衝動に負けてしまっているのかもしれない。私たちを襲ってくるのも、自分を苦痛から救ってほしいからかも。心の底では、私たちに助けを求めているのかもしれない」

「だったらどうしたというんです? 連中が僕らを襲うことに変わりはない」


 さっきまでその寛大さに感動していたのに、急速に大和さんがつまらない人間に思えてきた。こういったことを言う人々は、日本で感染が広まる前や直後によくいたものだ。

 日本で感染が広まった場合、感染者を射殺しても良いという通達を政府が警察や自衛隊に出した時、人権団体は「感染者も人間だ」と主張して抗議デモを行い、銃を持った警官や自衛官を集団で取り囲んでその活動を妨害した。日本で感染者が発生した時も、理性を失った感染者を治療の見込みがあると拘束し、病院に無理矢理連れて行って感染を広めたのもそう言った考えの持ち主たちだ。


「連中が感情や記憶を持っていたとしても、到底そうは思えませんよ。血の涎を垂れ流しながらあーうー呻いて全力疾走する連中の、どこに理性があると?」

「では君は、彼らには一切人間らしい部分は残っていないと言いたいのか?」

「もちろん」


 大和さんは失望したとでも言うように溜息を吐くと、腕時計を見ながら言った。


「じゃあ君は自分の家族が感染者になった時、彼らを助けたいようとは思わないのか? それとも躊躇なく殺すのか?」

「後者です。そうなった時点で殺すのが、むしろ慈悲ってもんでしょう」


 ジュースをもう一口飲み、そう答える。

 まあ、もう僕の母は僕の手によってあの世に送られているわけだけど。そのことを知らない大和さんは、信じられないとでも言うかのように僕を見た。


「……そうか、どうやら君と私の考えは違うらしいね」

「まったく同じ考えを持つ人間がいたら、それはそれで怖いと思いますけど」

「はは、違いない。それにしても残念だよ、君は素直そうな人間だから私たちの側についてくれると思ったんだが」


 私たちの側? 大和さんは何を言っているんだ?



 その時僕は、物凄い眠気に襲われていることに気づいた。さっきまで頭はすっきり、考えもはっきりしていたのに、瞼が物凄く重い。昨夜はきっちり8時間は寝ていたから、寝不足ということはないはずなのに。

 頭を振って眠気を払おうとしたが、身体も言う事を聞かなかった。立ち上がり、背伸びをしようとした途端、よろめいてソファーに倒れ込んでしまう。手からオレンジジュースの入ったコップがすっぽ抜け、床に落ちて粉々に砕け散った。


 揺れる視界の中、大和さんがまた腕時計を見ていた。なんで彼はさっきから何度も時間を確認しているんだ?

 全身に力が入らず、重力に負けた身体がソファーの上に倒れる。横倒しになった視界の中、憐みの瞳で大和さんは僕を見つめていた。


 なぜ、急に倒れた僕を助けようとせず、心配もしない?

 その時僕の目に、割れたガラスコップの破片と、床に飛び散ったオレンジジュースが映る。



 もしかして……?


 上手く働かない脳が結論を下す前に、僕は眠気に耐え切れず瞼を閉じていた。

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