第三一話 野生を証明するお話

「ん、何だこりゃ」


 大沢村に来てからはや10日が過ぎ、やる事と言えば寝るか食うかのどれかになってしまったある日。縁側に寝転がって役場から借りてきた小説を読んでいた僕は、ページとページの間に一枚の紙切れが挟まっていることに気づいた。


『いますぐでていけ』


 紙切れにはそんな文言が書かれていた。どうやら大急ぎで書いたらしく字は汚いし、紙もメモ帳を千切ったものらしい。僕らが本を借りる直前に、誰かが適当なページに挟んでおいたのだろうか。


「何だこれは……たまげたなあ」

「なにそれ、ラブレター?」


 同じく縁側に寝そべって、同じく役場から借りてきた恋愛小説を読んでいた結衣が、横から顔を突き出して聞いてくる。


「こんなラブレターを送る人がいたら見てみたいよ。てか、この村年寄りしかいないじゃん」


 ほとんど外に出ていないからわからないけど、この村で一番若い女の人でさえ30代後半だった気がする。おまけに特別美人というわけでもない。ラブレターを送って来られても、その瞬間お断りする自信がある。


「うわっ……これは……」


 僕と結衣の下らない会話を聞きつけてやって来たナオミさんが、『いますぐでていけ』の紙切れを見るなり顔をしかめた。


「やっぱり、僕らは歓迎されてないんですかね……」

「そんなことは無いでしょ。余所者を受け入れたくないなら、そもそも避難所がありますなんて看板を出さなきゃいいんだし」


 だけど村人の中には、余所者に良い感情を抱いていない人がいるのかもしれない。いくら臨時村長である大和さんがニートをしていてもいいと言ったところで、生産活動に従事しない僕らは石潰しでしかないのだ。いくら食料を余所者に与えられるほど生産しているとはいえ、本音を言えば彼らだって不測の事態に備えて可能な限り多くの食料を備蓄しておきたいところだろう。

 

 それに余所者は、コミュニティ内にウイルス感染の危険をもたらす危険な存在ということに変わりない。仮に余所からやって来た人間がウイルスに感染していたら、外敵の侵入を許さない土地が逆に仇となる。狭いコミュニティ内で次々と感染が拡大すれば、中身がたっぷり入ったゴミ箱に火のついたマッチを投げ込むのと同じ状態になってしまう。

 

 脳裏に愛菜ちゃんがいたコミュニティの惨状が浮かんだ。愛菜ちゃんのコミュニティも大勢の武装した人間に守られ壁で囲まれて安寧を保っていたが、たった一人ウイルスに感染した人間を招き入れたことで全滅する羽目になった。今やどこの避難所やコミュニティがそうなってもおかしくはない状況なのだ。


「まあ、大和さんがここにいてもいいと言った以上私たちの滞在には問題は無いと思うけど、それでも全員が全員私たちの存在を認めているってわけでもなさそうだね。とにかく……」


 愛菜ちゃんは広間で昼寝をしている。布団の上ですやすやと寝息を立てている彼女の顔を見て、ナオミさんは言った。


「このことはマナには言わないでおこう。彼女に余計な心配をさせたくはないしね」


 その意見には大賛成だった。安全な土地に来て張りつめられていた緊張が緩んできたのか、最近愛菜ちゃんは家族を思い出して夜な夜な泣いているようだった。その度に結衣とナオミさんが愛菜ちゃんを慰めていて、今愛菜ちゃんが昼寝をしているのも、夜の間泣いていてよく眠れなかったせいに違いない。

 今までは常に感染者の脅威にさらされていたせいで家族のことを考える余裕はほとんどなかったようだが、ここでは考える時間はたっぷりあるし誰かに襲われる心配もない。そんな状況に置かれたら、誰もが自分の家族のことを想って当然だろう。


 行方不明の家族は今どこにいるのか。生きているのか死んでいるか、それとも感染者となり生存者たちを襲っているのか。自分は安全な場所にいるのに、家族は今も感染者の傍で息を潜めて暮らしているのかもしれない。今すぐ助けに行って、この安全な土地でまた一緒に暮らしたい。

 そんなことを考えているのかはわからないが、この数日間で結衣が柄にもなく突然泣き出したり、ナオミさんが押し黙ったまま個室に引っ込むのを僕は見てきた。恐らく結衣は感染者に襲われた避難所を脱出する際はぐれた家族を、ナオミさんは故郷のアメリカにいる家族のことを想っているに違いない。


 やがて日が落ち、村は闇に包まれた。数か月前なら街灯や自販機の光があちこちで煌々と輝いていたのだろうけど、発電所が放棄されてからは電気はどこからもやってこない。唯一自家発電装置を稼働させている市役所や、村の所々に設置された篝火が光を放っているが、全てを飲み込む暗闇の前には頼りないように感じた。

 人類は産業革命以降技術を発達させ、電気を利用し、夜の闇を追い払って昼夜を問わず活動するようになった。しかし感染爆発以降インフラは次々と死に絶え、夜は再び人類が制することが出来ないものに戻ったのだ。


 いや、夜の闇だけではない。世界の全てが人類のものではなくなりつつある。今や人類は絶滅危惧種一歩手前、狩りたてられてどんどん数を減らしていくだけの存在。地球は"元"人間である感染者のものになろうとしている。

 人類はこのまま滅びの道を辿っていくだけなのだろうか。やがては全人類がウイルスに感染し、理性と知恵を失い獲物を求めて徘徊するだけの野獣と化すのだろうか。

 いや、そもそも感染者は人間しか食べない。だとすると全人類が感染すれば獲物が無くなってしまい、必然的に感染者は皆餓死することになる。後に残るのはかつての栄華の象徴であるコンクリート製の高層ビル群と、人類という天敵が消えて繁栄する動植物たち……。


「いかんいかん」


 このまま思考を続けていたら、暗いことばかりしか頭に浮かばなくなりそうだ。頭を振って嫌な考えを脳内から追い出した僕に、「次どうぞー」と愛菜ちゃんの声が背後から聞こえた。

 振り返ると髪を濡らし、顔を赤く上気させた愛菜ちゃんが部屋の入り口から顔を覗かせていた。礼を言ってから、籠に入った着替えを持って風呂場へ向かう。


 この村に来て一番良かったと思えるのは、毎日風呂に入れることだった。村に来る前はインフラが死んでいたこともあって風呂なんてとても入れる環境ではなく、せいぜいお湯に浸したタオルで身体を拭くくらいのことしか出来なかった。ナオミさんと合流してからはいわゆるドラム缶風呂を試してみたことはあったものの、そもそも人一人が入れるようなドラム缶を確保できず、その上感染者に見つかる可能性が高いせいで諦めざるを得なかった。


 しかしこの村には感染者はいないし、水もたっぷりある。ド田舎だったせいで風呂も中世的な火を使って沸かすタイプだったが、そのおかげでインフラが壊滅した今でも薪さえあれば沸かせる。

 脱衣所で服を抜いで浴室に入ると、途端に顔中にむわっとした熱気が襲い掛かって来た。湯船に手を突っ込むと、少し冷えたがまだまだ熱いお湯の感触が伝わってくる。ガス給湯器と違い簡単に追い炊きが出来ないので、風呂が沸いたら次々入って行かなければならない。


「あ”あ”~」


 湯船に浸かると変な声が出た。毎日風呂に入れるだけでも、この村に来た甲斐はあったと僕は思う。風呂に入っていなければ不衛生だし、病気に罹っても医者も病院もない。それに風呂に入ると疲れが取れる。もっとも、最近は疲れるほど活動していないのだけど。

 開いた窓からは月明かりが差し込み、唐突に僕は幼い頃行った母の実家を思い出した。田舎にあった母の実家もこんな感じの古い日本家屋だった。土地が余っているせいで母の実家は山をまるまる一つ所有していたし、家の隣には牛小屋があってそこで子牛を飼っていた。裏山ではカブトムシがそれほど山のように獲れたし、風呂にムカデなどの虫が入ってくることもしばしばあった。


 そういえば最近、結衣も愛菜ちゃんも騒がなくなったなと苦笑する。ここも田舎の御多分に漏れずしょっちゅう風呂場に虫が侵入し、当初は結衣と愛菜ちゃんは風呂に入るたびに大騒ぎをしていた。初日なんか天井を這っていた大きな蜘蛛に、感染者に遭遇した時以上の悲鳴を上げて裸のまま脱衣所から飛び出してきた。うっかりその現場を目撃した僕の脳裏に、二人の白い裸体は今でも焼き付いている(その後顔の形が変わるのではないかと思うほど殴られたが)。

 

 僕は虫はそれほど苦手ではないし、ナオミさんはそもそも恐れている生物などないのか、平気で蜘蛛を摘まむと外へ放り出していた。その光景は女子ながらあっぱれと思う以上に、ここでは恐れるべき対象が虫しかいないことを僕に教えていた。感染者はいないし、略奪を行う犯罪者もいない。それは平和な光景でもあったが、どこか僕は違和感を覚えていた。


 多分、慣れ過ぎてしまったのだと思う。ここ数か月、僕は血のにおいを嗅ぎ、常に武器を携え、息を潜めて生きてきた。感染爆発前だったら想像も出来なかった生活に、僕は適応してしまったのだ。

 それが今になって足を引っ張るとは。平和な場所に来るのは前々からの望みだったのに、いざ自分の願いが叶うと今度は自分の居場所に違和感を覚えてしまう。僕にとって慣れ親しんだ世界とは既に死と感染者に囲まれた世界になってしまったのかもしれない。


「これから、どうすっかなあ……」


 このままこの村に居続けては息苦しさで窒息してしまう。かといって危険が渦巻く外へと戻る度胸もない。そんな自分が情けなく思われ、僕は窓から月を見上げた。

 元々田舎だったことに加え、人工的な灯りがほとんど消え去ったせいで月と星々がはっきりと綺麗に見える。まるでプラネタリウムに来たようだった。輝く月を見上げ瞼を閉じた僕の耳に、風の鳴る音が入ってくる。昼前から吹き始めた風が、いよいよ強くなってきたらしい。


 ……うぉぉぉぉぉっ……


 湯冷めしてはいけないと窓を閉めようとした瞬間、風に乗ってそんな音が聞こえてきた気がして、僕は冷水をぶっかけられたかのように凍りついた。今の音は、今まで散々聞いてきた感染者の遠吠えのように聞こえたからだ。

 もしかしたらただの風の音かもしれないと思い、耳を澄ませる。もし感染者の遠吠えなら近くまで感染者が近づいてきていることになる、もしかしたら警備隊との戦闘になるかもしれない。そうなったら銃声が聞こえてくるはずだ。


 しかし何分待っても再び感染者の遠吠えが聞こえてくることも、銃声が響いてくることもなかった。やはり今のはただの風の吹く音だったのかもしれない。しかしその音はこの一週間ですっかり鳴りを潜めてしまっていた、僕の野生の感覚を呼び起こしていた。

 やはりここは、僕のいる場所ではないのかもしれない。飢えも渇きもせず、雨風を凌げる場所があり、さらに感染者に殺される心配もない。そんな恵まれた場所にいるにも関わらず、僕の心は何かが欠け落ちたかのように虚しかった。

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