第一〇話 デッドエンドなお話

 突然目の前に現れた感染者達を見て、僕の身体は凍り付いた。歩行者天国のように歩道車道を問わずふらふらさまよっている感染者は、全部で20体はいるだろうか?

 それらの目が一斉に僕を向く。何となく気まずいという、そんな場違いな感情を抱いたのも束の間、今まで焦点が合っていなかった感染者達の血走った目に生気が戻った。

 おそらくスーツであったらしい黒い布切れを身に纏った、若い男の感染者が僕の姿を見て吠える。獣のようなその絶叫は、空気を震わせ建物に反射し、遠くまで伝わっていく。


「走れ、走れ!!」


 すぐに決断を下し、後ろの二人に叫ぶ。僕に続いて通りを渡ろうとしていた結衣

と愛菜ちゃんも感染者の姿を目の当たりにし、身体を硬直させていた。だが僕の叫びですぐに我に返る。


「橋だ、橋に行くんだ!」


 感染者達が一斉に走り出す。それと同時に僕達もすぐ近くに見える橋に向かい、全力で走り出した。

 なんてバカな事をしたんだ、僕は。いつもだったらきちんと進路を確認してから行動していたのに、なんで不用意に通りを渡ってしまったのか。走りながら、心の中で自分を罵った。背後から感染者達が吠える声と無数の足音が聞こえてくるが、今は一瞬たりとも振り返る余裕はなかった。

 とっさに橋を渡る決断を下したのは、今ある物資を捨てたくないという気持ちからだった。感染者が泳げるかどうかは見たことがないのでわからないが、川の中に飛び込めば少なくとも連中も動きが鈍るだろう。だが重い荷物を抱えたまま川に入れば溺れかねない。


 一度失った物資は楽には調達出来ないという経験が、僕に川に飛び込む事を躊躇させた。苦労してようやく手に入れた食料をここで捨てるのは惜しいし、対岸の街で運良く物資が残っているという保障もない。避難所で愛菜ちゃんを助ける前、本来なら一人分の食料を結衣と二人で分け合って食べた時のひもじさを味わいたくないという、そんな理由で橋を渡る事を僕は選んだのだ。


「川に入らないの!?」

「川に入ったら溺れる危険がある、駄目だ!」


 だったら物資を捨てろと頭の中でもう一人の自分が叫んだが、その言葉を無視した。橋を渡り、対岸にたどり着いたらどこかへ身を隠す。疲れ切った僕の頭は、そんな杜撰なアイディアしか出せなかった。

 手足を全力で振り、一ミリでも感染者との距離を稼ごうと走る。だが背後から聞こえてくる感染者の遠吠えと荒い息づかいは、音が徐々に近づいてくる事はあっても遠ざかる事はない。当然だ、連中の脳はリミッターがとうの昔に振り切れているのだから。


 逃げ足に自信がある僕ではあるが、思い荷物を背負ったままではうまく走れない。僕より体力も運動能力も劣る女子二人は言わずもがな、特に愛菜ちゃんは背後から感染者が迫り来る恐怖で半狂乱になりつつ、早々に走るスピードを落とし始めていた。

 愛菜ちゃんが脱落したら、次は結衣が襲われるだろう。もしかしたら感染者達は倒れた二人を喰うのに夢中になって、僕を追うのを一端諦めるかもしれない。そうなれば僕だけでも生き延びれる可能性はあるかもしれないが、そんなのはゴメンだった。


 親しくなった人をこれ以上亡くすのは散々だ。いくら自分が生きるためとはいえ、他人の犠牲の上に成り立った生などに価値はない。助け合うのが人間であり、他者の死を利用してまで自分だけでも生き延びようとする奴は獣同然だ。理性を失った感染者と同じだ。

 そう思っていても、僕の心には自分ひとりでも生き延びたいという気持ちが少なからずあった。彼女たちが餌になってくれれば、僕は逃げられる。死なずに済む。また一人で、誰に対しても責任を負わずに済む生活に戻れる――――――。


「愛菜ちゃん、橋まで走れ!」


 そう叫ぶと僕は足を止め、その場で身体を半回転させた。途端に目の前に広がった光景を言い表すなら、福袋を買いに開店時間と同時に突撃する主婦達のように大勢で押し掛けてくる感染者達の姿だった。

 感染者は獲物を見つけると吠える傾向があり、その叫び声を聞いてより多くの感染者が集まってくる。おそらくそのせいで集まってきたのだろうが、通りを渡ろうとしていた時には20体ほどしかいなかったのに、今ではその倍近い数の感染者が僕達を追いかけてきていた。そして多分、もっと増えるに違いない。

 その中でも数体、とびきりに足の速い奴らがいた。両手を伸ばし足の遅い愛菜ちゃんを捕らえようとしていた先頭の一体が、立ち止まった僕を見て狙いを変える。


「幼女に……」


 感染者の顔が距離を詰めるにつれ、はっきりと見えてくる。血走った目に血の混じった涎を垂れ流して走るそいつは、僕と同じく学生服を着ていた。世が世なら同世代という事で友達になれていたかもしれないが、生憎その機会は訪れなかった。


「……手ぇ出してんじゃねぇええええっ!!」


 正面から真っ直ぐ突っ込んでくるそいつの頭目掛けて、構えた金属バットをフルスイングした。強い衝撃と共にばぎっという何かが折れる湿った音、側頭部にバットの一撃を食らった感染者は、顔面の形を歪ませて横に倒れ込んだ。そいつは目玉が飛び出し顔中の穴という穴から血や何かの液体を垂れ流しながら痙攣していたが、もう起きあがって襲ってくる事はないだろう。

 そいつを倒すなり、僕も愛菜ちゃんの後を追って再び走り出す。我ながらナイススイングだと思った。体育の授業では中々ヒットを出せなかった僕だが、今なら甲子園に出場出来るかもしれない。四番バッターならホームラン確実だ、プロ入りの夢が広がる。

 さっき倒した奴と後方集団との間には、十数メートルの距離が開いていた。だが気を抜けば、あっという間にその距離は縮まってしまう。早く橋を渡り、対岸の街で身を隠す。この機会を逃せば橋は渡れなくなるかもしれない、そんな思いが僕の思考から柔軟な思考を奪っていく。


 息も絶え絶えな愛菜ちゃんを支えながら橋の袂付近にたどり着くと、先を走っていたはずの結衣が呆然と立ち尽くしていた。橋の前には一台のバスが止まっているのが感染者に追われる前から見えていたが、それがどうかしたというのか?


「どうした、何で通らな……」


 バスの脇まで来た僕は、バスのさらに前方で横転していたトラックを目にし、立ち止まった。

 濃緑色の大きなそのトラックは、恐らく自衛隊のものらしい。そのトラックとバスが、完全に橋の道路を塞いでいた。歩道と車道を隔てるガードレールも数トンの車体があっけなくひしゃげさせ、隙間なんて一ミリもない。そして背の高いバスの車体と幅広なトラックの横っ腹が壁となり、僕達が橋を渡るのを阻んでいた。

 見ればトラックだけでなく、バスも事故を起こしていたらしくあちこちがひしゃげ、窓ガラスが割れていた。他にも事故を起こしたらしい大破した自動車が、トラックのすぐ近くに放置されている。横っ腹から自動車が突っ込んできてトラックが横転し、そこへバスが突っ込んできて奇跡的とも言える確率でちょうど二台並ぶようにして橋の入口を塞いだという事か。こんな世界では常日頃から奇跡を求めていたが、こんなところで奇跡を発揮されては困る。


「どうすんのよ、これじゃ渡れない……」


 青ざめた顔で、結衣が呆然と呟く。横転したトラックとそのケツに突っ込んでいたバスの間には、紙一枚挟めなさそうな隙間すらない。縦に並んだトラックとバスの車体は完全に道路を塞いでいた。

 とっさに横転したトラックをよじ登ろうとした僕だったが、剥き出しになった車体下部のパイプを掴んだところで背後を振り返り、そして手を離した。後ろから追いかけてくる感染者は、僕達がトラックをよじ登ろうとしている間に追いついてしまうだろう。どうにかトラックを乗り越えられたとしても、感染者達はあっという間にこんな障害物を越えてくる。トラックを上る時間すら、今はなかった。


「荷物を捨てて走れ! ここは諦めるしかない!」


 そう叫び、食料や水が詰まった重いリュックを地面に放り捨てる。トラックをよじ登って橋を越える時間はない、かといってこのまま重い荷物を抱えて走る事も出来なかった。僕の注意不足と判断ミスがこんな事態を招いてしまったのだが、今は後悔している時間すら惜しい。

 荷物を捨てるのは最後の手段だった。これでもう、僕達に後はない。


 結衣が戸惑いつつもリュックを捨て、愛菜ちゃんもそれに倣う。感染者に追われながら全力で走り続けたせいで、愛菜ちゃんの体力は既に限界に近いようだった。肩で息をしている愛菜ちゃんを背負い、結衣を連れて走り出す。

 口の中は乾き、全身が熱い。重いリュックを背負っていたせいで肩が痛い。背中に負ぶった愛菜ちゃんが重い。走り続けたせいで足が痛い。気温が高いせいか頭がフラフラする。僕にも限界が近づいていたが、それでも走るしかない。


「も……もう……無理……」


 顔を真っ赤にした結衣が、息も絶え絶えに言う。口を開く余裕があるなら走れ、と言い返そうとしたが、それこそ体力と時間の無駄だった。


「後ろから追いかけて来てますよ!」


 愛菜ちゃんが僕の背中の上で叫ぶが、そんな事はとうに承知している。背後から聞こえる無数の足音も、荒い息づかいと叫び声も、さっきと何ら変わりない。むしろさっきよりも近く、そしてより増えている。トラックの前で時間をロスした事で、感染者との距離がさらに詰まっていたのだ。

 川をさらに遡り、そして道路を西に曲がって住宅地へと進入する。川に入るという選択肢は、体力を消耗しすぎた点で放棄せざるを得なかった。このまま川に入ったら、泳ぐことすら出来ずそのまま沈んでいってお終いだ。


 行き当たりばったりに交差点を曲がり、少しでも感染者の視界から逃れようとする。道路の左右に立ち並ぶ民家の中に門が開いたままのものが一つだけあり、僕は無意識のうちにその民家の敷地へ突入していた。


「なに、なんなの?」


 そう言いながらも結衣は僕と愛菜ちゃんに続き、民家の敷地に入る。すかさず鉄製の重い門を閉めた直後、僕達を追ってきた感染者が一気に門にぶち当たってきた。

 感染者は知恵がないので、門を開ける方法がわからない。目の前の獲物を逃すまいと鉄門に体当たりを繰り返す感染者達。どうにか時間が稼げたとほっとしたのも束の間、門が歪んでレールから外れそうになる金属の悲鳴が僕の耳に突き刺さる。


「ここからどうすんのよ!?」

「えーと、考えてない」

「はあ!?」


 だがそれは事実だった。少しでも時間が稼げるなら、という安直な理由から僕はこの民家に足を踏み入れたのだ。今後どうするかなんてアイディア、一切頭の中にはない。ただ単に、少しでも足を止めたかった。それだけだ。


「もう門が保ちませんよ!」


 愛菜ちゃんが悲鳴を上げる。酸素が上手く回っていない頭で何かいい案は無いかと考えたが、どこでもドアでもない限り現状を打破する手だてはない。この辺りは高級住宅街なのか、プライバシーとセキュリティのために隣家とこの敷地を隔てる塀はかなり高い。脚立でもなければ登るのはかなり厳しそうだが、そんな物が都合良く転がっているはずもない。

 轟音を立てて、門が大きく歪んでレールから半分外れた。もはや逃げる場所はこの家の中にしかない。それを理解した僕は、まっすぐ裏庭に向かった。敷地の南側にある庭に面するように、日当たりのためかリビングがある。幸い雨戸は閉まっておらず、その窓を背負っている間愛菜ちゃんに持ってもらっていた金属バットで叩き割る。防犯のためか内側にフィルムが張られているようで、中々ガラスに穴が開いてくれない。

 パニックになりつつある頭をどうにか落ち着かせ、四度目のフルスイングを窓ガラスに叩き込んだ。ようやく窓の鍵のすぐ脇に、直径15センチくらいの穴が開く。

 迷わずその穴に手を突っ込み、鍵をひねった。ガラスの破片で手首がザクザク切れるのがわかったが、不思議と痛みは感じない。アドレナリンが全開になっていて、痛覚を麻痺させてくれているのだろうか。


「早く入れ!」


 窓を開け、二人を家の中に招き入れる。二人が入るとすぐに雨戸を閉め、ついでに窓も閉めておく。一切明かりが入ってこない家の中は薄暗く、他の窓から差し込んでくるわずかな光を頼りに家の中を進んでいく。

 身体をあちこちぶつけながらも二階に続く階段を上り終わった時、ついに門が耐えきれなくなったのか派手な破壊音が家の北側から聞こえてきた。ベッドが二つ並んだ寝室に転がり込むと、ドアを閉めて鍵をかける。


「これでどうにか一安心ですね……」

「いや、ベッドでバリケードを作ろう」


 まだまだ安心するわけにはいかなかった。今はあくまでも感染者の視界からどうにか逃れた状態、連中は獲物を完全に見失うまでは執拗に追い続ける。こうやって隠れても、何か物音を立てれば僕達がいると感染者達に教える事になってしまい、結果連中は僕達の居場所を特定して何が何でも喰おうとし続ける。

 結衣と協力し、大きなベッドをどうにかドアの前まで押していってバリケードにする。その上に部屋の中にあった椅子やテレビを積み上げ、ようやく一息つくことが出来た。


「ッ……!」


 壁に背を預けて座り込んだ時、突然右手に激痛が走った。今まで一切痛みを感じていなかったのだが、安心したせいでアドレナリンも弱ったのだろうか。ガラスで派手に切った手首からはダラダラと血が流れ続け、傷口が燃えるように痛い。


「ちょっと、酷い怪我じゃない!」

「静かに!」


 ここで気づかれたら元も子もなくなる。幸い重要な血管は傷つけていないようだったので、押さえていれば血も止まるだろう。ポケットに突っ込んだままのバンダナを巻こうとしたが、左手だけでは上手くいかない。結衣にも手伝ってもらい、きつく右腕を縛って止血した。


「これで大丈夫、ですよね……」


 肩を上下させながら、息も絶え絶えに愛菜ちゃんが呟く。僕達にではなく、自分を安心させるために言ったようだった。

 口の中は乾いて粘ついているし、全力で走っていたせいで身体が痛い。それに加えて手首の傷もかなり痛いし、この状態でもっと走れと言われればギブアップする自信があった。

 興奮も冷めてきたのか、一気に痛みが増す。血塗れの右手と激痛に思わず呻き声を上げてしまった僕は、慌てて口を閉じる。僕達を探し回っている感染者は、音などで少しでも人間の気配を感じたなら、あっという間に居場所を特定して再び追いかけ始める。ここで連中に見つかったら、もう逃げ場はない。

 寝室には北に面した窓が一つだけあるが、下には足がかりになりそうな物は何もない。窓から逃げ出そうと思ったら飛び降りるか、時間をかけてシーツか何かでロープでも作るしかない。が、利き手を怪我した僕にそんなアクロバティックな事が出来るとは思えない。


 気づかれてませんように、見つかっていませんようにと全員が祈っていた。だがその祈りも空しく、突然階下から轟音が響き渡る。感染者が雨戸に体当たりをかます音だった。


「バレたわ、どうすんの!?」


 どうしようもない。

 さらに破壊音は大きさを増し、遂に雨戸が破られたのか一回から大きな足音が聞こえてくる。足音はすぐに近づいてきて、そしていきなり寝室のドアが激しくノックされる。ドアの向こうからは感染者のうなり声が聞こえた。

 愛菜ちゃんが悲鳴を上げた。僕も思わず壁際に後ずさり、そして思った。どうして感染者達は、この部屋に僕達がいるとわかったのだろうかと。




 だがそんな事を考えている間もなく、ドアを叩く音はどんどん増え、しまいにはデスメタルなバンドがドラムでも叩いているんじゃないかというような勢いになった。ベッドで押さえてあるせいか頑丈な木製のドアがすぐに破られる事はないが、それでもメリメリとイヤな音が聞こえてくる。バリケード代わりのベッドが大きく揺れ、ついにはドア枠までも歪み始めたような気がした。


「もしかしてこれって……詰み?」


 逃げ場はなく、ドアの外には感染者達。そもそも逃げようにも体力をほとんど使い果たしていたし、追い詰められた僕達には何の手だても残っていなかった。

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