第九話 戦場にかかる橋のお話

 屠殺場と化した中学校を脱出し、僕達はさらに東へと向かった。ここからさらに東にも避難所があるらしい、と小学校の一室で見つけた地図に書き込まれており、当分はそこを目指すことにした。


 もし僕一人だけなら避難所に向かう事はせず、これまでのように誰もいない家屋を転々とする生活を送っていただろう。だが僕も含めて三人で行動を共にする事になった以上、もはやそのような生活を取るのは難しい。三人なら消費する物資の量も当然三倍になるし、それに生活を送る以上どうしても物音が起きたりする。その気づかれるリスクも三倍になるとあっては、どうしても路線変更せざるを得なかった。


 もちろんいい物件が見つかれば、また以前のように隠れて生活を送るつもりだ。だがそれには好条件が整っていなければならない。地上に騒音が届かないようなるべく高いマンション、そして周辺には物資調達用のスーパーかコンビニ。万一襲撃を受けた際に備え、複数の安全な脱出経路を備えた物件は、かなり少ないように思えた。





 小学校を出てから四日後、僕達は物資補給のため、途中で見つけたコンビニで一休みしていた。

 ここは人口数十万人を抱える市だったらしく、街に入ってからはやたらとマンションを見かけるようになった。ここは郊外であるため、ベッドタウンとして多くの人間が以前は暮らしていたらしい。もっとも、今に至るまで一人も人間は見かけていないけど。

 人口が多いという事は、それだけ感染者の数も多いという事だ。鼠算式に増えていく感染者は、周囲にいる人間が多ければ多いほど感染拡大の速度も増していく。この街も早々に住民の多くが感染者と化したらしい。


 感染者は人間を食って生きているため、必然的に人間がいる場所を目指す事になる。いつまでも人間がいない場所に留まっていては餓死してしまうからだ。この街の感染者も生存者を追って街の外へ出て行ったのか、生きた人間を見かけない代わりに感染者と遭遇する事もない。


「まだ物資が残っていてラッキーだったな……」


 開きっ放しの自動ドアから店内に入り、そう呟く。コンビニには何度か人が訪れた痕跡があり、食料や飲料水が半分以上棚から消えていた。この街にもまだ生存者がいて、度々ここを訪れて物資の補給をしているのだろうか? それともその人はとっくに死に、僕達以外に生きている人間はいないのだろうか?

 念のため、金属バット片手に店中を回って安全を確認する。従業員待機所、バックヤード、トイレ。レジの下まで調べたが、人間も感染者もいなかった。


「よし、入っていいぞ」


 そう告げると今まで我慢していたのか、愛菜ちゃんが一目散にトイレに駆け込んでいく。男だったらそこらですれば大丈夫なのだが、やはり女の子はそうもいかないらしい。結衣だって用はトイレで足しているし、特に愛菜ちゃんは今まで電気も水道も使えていた避難所で過ごしていたから、まだまだ慣れていないのだろう。

 トイレの水を流すのにミネラルウォーターを使うと教えたら、目を丸くしていたものだ。長居するつもりがないのなら別に放置でも構わないが、臭いなどで気づかれたくないのならきちんとトイレの水は流しておくべきだろう。


「ま、今じゃそこらじゅうの異臭の源があるけど」

「それもそうね」


 早速化粧品の棚を漁り、生理用品を手に入れた結衣が上の空で答える。

 気温が上がるにつれ、放置された死体が強烈な腐敗臭を放つようになってきたのだ。今までは気温が低かったから腐敗の進み具合も遅く、その間に野犬やカラスに食われて死体の腐敗臭はそれほど気にならなかったが(もちろん慣れたというのもある)、今や季節は夏である。

 今では生存者の数も減ったとは言え、物資調達か何かで外に出て、感染者に殺される人間もいる。あるいは愛菜ちゃんのように、避難していた場所を襲われ、逃げ出したはいいものの結局追いつめられ殺されたとか。それに加え、最近は餓死する感染者もちらほら出てきているので、それらの死体が強烈な腐敗臭を放つようになってきたのだ。

 慣れたとはいえ、やっぱり出来る事なら腐敗臭を嗅がずに生活したい。どこかにいい隠れ家があればいいんだけど。



 コンビニでいくつか食料や水を確保した後、僕達は出発した。照りつける日差しに加えて背中の重い荷物が容赦なく体力を奪っていくが、こればかりはどうしようもない。僕はこの中で最年長だし、唯一の男だ。結衣は中学生だし、愛菜ちゃんに至っては小学生である。必然的に僕が多くの荷物を持たなければならない。

 愛菜ちゃんが加わった事で、持ち歩かなければならない荷物の量も増えた。食料や水も一人分増えたし、その他の物資も色々と携行する必要がある。一人でいた頃は食料も水も一人分で済ませる事が出来ていたが、体力が劣る女子達が加わってからは、自分の分以外の荷物も持ち歩かなければならなくなった。


 何で二人を助けたんだろう、避難所を出てから何度かそう思う時があった。一人でいた方が感染者に見つかる可能性は低いし、逃げる時だって身軽だ。物資を仲間と等分する必要もないので、少ない物資で長い間暮らしていられる。

 それなのに結衣と愛菜ちゃんを助けたのはどうしてなのか。それは僕にも理解出来なかった。ただ久しぶりに生きた人間と出会い、情が移ったのかもしれない。

 ただ、二人の人間を抱えた事で、僕が果たさなければならない責任も格段に増えた。これからは自分の事だけでなく、結衣と愛菜ちゃんの安全にも気を使わなければならない。


 最年長者という事で、いつの間にか僕がリーダーになってしまっていた。どこの道を行くか、どこで休憩を取るか。そういった事を決めるのは僕の役割になっていた。さらに二人が非力な女子だという事で、感染者と遭遇した時にメインとなって戦うのも必然的に僕になる。

 その事に僕は疲れを感じていた。二人は僕の言う通りにしていれば大丈夫だろうと思っていて、僕の言う事に反対する事はほとんどない。信頼の証なのだろうが、その信頼に応えなければならないという気持ちがさらに僕を追いつめた。


 僕一人が死ぬならまだいい。こんな時代だ、出来れば死にたくはないが、自分のヘマは自分で尻拭いしなければならない。だが僕の失敗が、結衣と愛菜ちゃんの命を脅かす事態も考えられる。そして二人は僕が彼女達を正しく導く事を期待している、これ以上の重圧はない。

 僕はほんの三ヶ月前まで、ただの男子高校生だったのだ。格闘技をやっていて他の人より戦闘能力が高いとか、あるいは頭脳明晰で天才軍略家というわけでもない。取り柄は人より逃げ足が速いだけで、今までそれで生き残ってきたようなものだ。特に才能があって生き延びてきたわけではない。

 そんな人間が一気に二人の命を背負う事になってしまった。その事が重荷になっていた。


 言葉にこそ出していないが、精神的にも肉体的にも僕はかなり疲れていた。結衣と愛菜ちゃんの命が自分に掛かっているという重圧と、重い荷物を背負い長距離を歩かなければならない事。その他にも様々な要因が重なり、僕の疲労感を増大させていた。




 街の中心部を通る河を渡り、さらに東に進もうとしていた僕達は、予想外の光景に度肝を抜かれていた。

 河に架かる鉄筋コンクリート製の橋は中央部の柱が根本から消失し、橋桁が河の中へと落下していた。ボロボロになりながらも辛うじて残っている基礎部分から伸びる鉄筋が生々しい。


「この橋、何があったんでしょう……?」

「爆破されたんだろうね、自衛隊か在日米軍に」


 パンデミック初期には、感染拡大を防ぐために自衛隊や在日米軍が各地の交通を遮断するという方式を取っていた。感染源となる感染者を封じ込めるために、物理的に移動手段を絶ったのだ。

 空港からは許可された航空機しか離発着出来なくなり、電車は全て止められた。各地を結ぶトンネルや高速道路も封鎖された。しかし感染者は人間の身体を持つ、人間の足で行ける場所ならどこまでも生存者を追っていく。


 そのため河などに架かる橋は爆破された。感染者と共に生存者の移動も制限する最終手段だったが、その頃には既に生存者の数自体が減っていたから大して問題はなかったようだ。他にも感染者が大量に発生した街を空爆したりしていたが、結局ウイルスの封じ込めは出来なかった。

 この橋も、自衛隊が感染者掃討作戦の一環として爆破したのかもしれない。感染者を橋の上におびき寄せたところで爆破し、大量の感染者を一気に倒したとか。もしくは撤退していく時に感染者の追撃を遅らせようと爆破していったのか。どちらにしろ、この橋が通れないのは明らかだ。


「どうする、泳いでいく?」

「無茶言うなよ、この荷物を背負って河を渡りきるのは無理だって」


 見たところ、川の流れはあまり速くはなさそうだ。だが深さは結構あるように見える。重い荷物を背負って泳ぎ切るのは難しい。途中で沈み、二度と浮き上がってこれない可能性が高いだろう。夏とはいえ、命がけの川遊びはしたくない。


「渡れる橋を捜すしかないな。どこかに無事な橋が残っていればいいんだけど」


 もっとも、その可能性は低そうだ。河を天然の障害として感染者の移動を絶つつもりなら、上流から下流までの橋を全部爆破していなければ意味がない。感染者が死に絶えた後々の事を考えていたなら人間の移動用に一本は無事な橋が残っているかもしれないが、それがあるのは多分滅多に人が立ち入らないようなかなり上流の山奥くらいだろう。人間が通らない場所は、感染者も通らない。

 河はかなり曲がりくねっており、双眼鏡で上流の様子を確かめるのは無理だった。人口密集地帯だった市街地のある街の南側を避け、とりあえず北を目指して川沿いに歩き出す。



 その上流の橋も破壊され使用不能になっていた。今まであまり寝ていなかった事に加え、大回りして河を渡らなければならない事に疲労が重なり、僕の注意力と判断力は無意識の内に落ちていた。

 だらだらと北へ向けて歩いていると、一件の高層マンションが見えてくる。少なくとも一五階以上はあろうかという、建設時には日照問題などで訴訟が起こったに違いない高さのマンションだ。周りの建物の背が低いせいで、荒野にニョッキリと生えたサボテンのようにも見える。


「あんなマンションに住んでみたかったわね……」


 結衣が愚痴をこぼす。僕としてはあんな高いマンション、上ったり降りたりするのはさぞ面倒だろうと思うのだが。

 それは置いといて、あのマンションは当分の隠れ家としては中々いい物件かもしれない。最上階に住めば確実に感染者から見つからないだろうし、ちょっとばかり騒いだって地上まで音は届かない。階段を塞げば感染者が侵入してくる恐れもない。電気が止まっているので、上の階までひたすら歩いていかなければならない事が欠点だろうけど。


「どうする? 今日はあのマンションで休んでいくか?」

「あの、出来れば橋を渡って街の東側に行きたいんですけど……」


 遠慮がちにそう言ったのは愛菜ちゃんだった。

 愛菜ちゃんには未だに、彼女の家族が死んだ事を伝えていない。そのせいで愛菜ちゃんは、今もどこかで家族が生きていると信じているのだ。東へ向かって進んでいるのもそのせいで、愛菜ちゃんは一刻も早く家族と再会したいと思っているのだろう。

 その事に胸が痛んだが、今は気にしない事にした。


「わかった、じゃあ渡れる橋が見つかるまで北へ進もう」



 視界の中でマンションがどんどん大きくなっていくにつれ、蛇行していた河の北側に橋が架かっているのが見えてきた。双眼鏡で覗いたところ、破壊されたり通れなくなっている様子はない。河を遡る事一時間、ようやく無事な橋を見つける事が出来た。

 その橋はどうやらさっきの高層マンションの近くにあるらしい。もし橋に何らかの問題があっても、マンションで一夜を明かす事が出来るのはいい。選択肢が多いに越したことはない。

 だが僕はようやく通れそうな橋を見つけた事に頭が一杯で、周囲の状況を確認する事もせずひたすら橋へと突き進んでいた。結衣と愛菜ちゃんが何か言ったようだがそんな事は微塵も頭に入って来ない。今の僕は早い内に橋を渡る事しか考えていなかった。今まで感染者の姿が見えなかったのをいい事に、立ち止まって一々曲がり角の先を確認する事すらしない。


 橋の入り口が事故か何かで突っ込んできたらしい大型バスで塞がれているのが見えても、僕は歩くのを止めなかった。どこかに人一人が通れるくらいの隙間があるだろう、なければバスをよじ登って渡ればいい。目と鼻の先の距離まで近づきつつある橋に心躍らせ最後のT字路を渡っている途中、何気なく道路の左側を見た僕は目を見開いた。


 この街に入ってから一度も見る事の無かった感染者が、道路に何十体と屯していた。

 大人、子供、男、女、サラリーマン、主婦、学生。ありとあらゆる種類の感染者が、よろよろと道路上を歩き回っている。そして虚空を漂っていた彼らの視線が、突然目の前に現れた僕達に一斉に突き刺さった。

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