第八話 嘘つきのお話

 二人を調理室に残し、僕は一人三階へと向かう。調理室に来る途中で一階と二階の教室は捜索済みだったので、愛菜ちゃんの家族がいるとすれば3階か4階だ。

 煙が風で流れてきているのか、だんだん校舎の中が煙たくなってくる。これはもしかしたら、こっちの校舎のどこかが燃え始めているのかもしれない。なるべく早くここから撤収しなければ、あっという間にステーキにされてしまう。


 3階にも殺戮の痕跡は生々しく残っていた。校内で発生した感染者はそれほど飢えていなかったのか、廊下に転がる死体は比較的綺麗なものばかりだったのが幸いした。いくら慣れたとはいっても、首を食いちぎられていたり内臓が無くなっていたり、顔面に皮膚がほとんど残っていないような死体を見続けるのは精神衛生上よくない。


 愛菜ちゃんの言ったとおりここで多くの避難民が暮らしていたせいか、3階の教室はほとんどが居住区画へと作り替えられていた。教室からは机と椅子が撤去され、代わりにベッドや畳まれた布団がいくつも並んでいる。

 その隣の教室を覗いてみると、娯楽室になっていたのかソファーや本棚、そしてテレビなどが置かれていた。電波が入ってくる事はないのでコードはDVDデッキに繋がっていただけだが、それでも映画だろうと何だろうと再生出来るのはうらやましかった。ずっと感染者から逃げ回る生活を送っていたので、もう3ヶ月近く動画などは見ていない。


 ……っと、本来の目的を忘れるところだった。今やるべき事はここでどんな生活が為されていたかを観察する事ではない。

 3階の教室を片っ端から覗いていく。途中いくつか鍵のかかった部屋があったが、それらはドアのガラスを割るなり何なりしてどうにか開けた。流石に大きな音を立てるのはマズかったが、かといって放置するわけにもいかない。幸い、鍵がかかったままの部屋には感染者も生存者もいなかった。


 どの部屋にも生活の痕跡は色濃く残っていた。飲みかけのペットボトル。栞が挟まれた漫画本。床に散らばった玩具。どれもここで、人々が平和に暮らしていた証だった。

 この地獄を3ヶ月近く、ここの避難民は平和に過ごせていたのだろうか。僕がネズミのように息を潜めスーパーを漁っている時も、銃を保った人々に守られていた彼らには遊ぶ余裕さえあったのか。

 そう考えると、なぜだか怒りが湧いてきた。僕が必死に生きるために戦っていた時も、ここにいた連中はぬくぬくと暮らしていたのだ。どうせ避難所の中で感染者が発生したのだって、咬まれた人を助けようとして中に入れたなんていう甘っちょろい理由に違いない。外の過酷な現実も知らず、平和な避難所で暮らしていた人々には、咬まれた人を見捨てるなんて選択肢は出来なかったんだろう。


 もちろんそれが単に憶測である事も、人間らしく暮らす事が出来ていたここの人々への嫉妬である事も僕は理解している。一瞬たりとも気を抜けない生活を送っていたせいで、平和に生きていた彼らが羨ましい。それは一番自分が理解している。だが、そう思わざるを得なかった。


 だいたい、何で僕はこんな事をしているのだろう。今日出会ったばかりの女の子の話を聞いて、家族を探して欲しいという願いを聞き入れてしまうなんて。奇跡的に生きていたってここにいない事は明らかなのに。

 それを言うなら結衣を助けた事もそうか。何で僕は彼女を助けようとおもったんだろう。この避難所を訪れたのも、元はと言えば結衣がスーパーで感染者に気づかれて、僕の隠れていたマンションに戻れなくなったのが原因だ。見捨てていてもおかしくない、というより以前の僕なら容赦なく彼女を見捨てていたに違いない。


 今まで僕は、生きるために何度も人を見捨ててきた。そりゃ、最初の数週間は助けを求める人の気持ちに答えようと行動したし、現にそれで何人か救ったかもしれない命もある。だけど時が経つにつれて感染者の数は増え、他人を助けるどころか自分が生きるのに精一杯になった。

 それなのに僕はこうやって結衣を助け、愛菜ちゃんを保護し、彼女の願いを聞いて危険な校舎内を一人で彷徨いている。




 足音が聞こえてきたのは、3階から4階へと移動している最中だった。炎上する校舎で何かが弾ける音以外何も聞こえない廊下で、その足音はとても鮮明に聞こえた。

 こんな時に呑気に歩き回っているような人間はいない。感染者だろうと判断し、鉈を握る手に力が籠もる。足音を立てないようゆっくりと一歩ずつ階段を上った僕は、そっと廊下を覗いた。

 廊下に人影は見えない。だとすると教室の中か……と視線を移動させた僕の目に、廊下の端に仰向けに転がる死体の一つが目に入った。顔がよく見えないが、少年のものらしい。愛菜ちゃんから借りた写真に映っていた彼女の兄も、確か僕と同じくらいの年齢だったか。


 もしかしたら。そう思い、無意識のうちに一歩踏み出していた。しんと静まりかえった廊下に、僕の足音は意外なほど大きく響いた。


 次の瞬間、今いる場所から2つ先に位置するドアが開いたままの教室から、突然人影が飛び出してきた。胸から果物ナイフの柄を生やし、口の端から血の混じった涎を垂れ流すその男は、どう見ても感染者だった。

 血走る目で僕の姿を捉えると、感染者は絶叫し僕に突撃してくる。突然の事に軽くパニックに陥りかけたが、すかさず手にした鉈を構えた。

 知性のない感染者は、回り込んで戦うなんてまどろっこしい事をしない。単に正面から突っ込んでいくだけだ。近接戦闘用の武器しか持っていない状態で複数の感染者が突っ込んできたら逃げるしかないが、一対一ならまだ勝ち目はある。突っ込んでくる感染者をかわし、すれ違いざまに頭に一撃をたたき込む。危険だが、僕は今まで何度かこの手段で感染者を倒していた。

 大事なのは距離感だ。上手く距離を測らなければならない。距離が離れている内に身体を動かしたって、感染者もこちらの動きに合わせて突撃してくる。かといって近すぎると、上手くかわせず身体を掴まれガブリ、なんて事になりかねない。


 フリーな左手を軽く前に出し、鉈を持った右手を身体の横へ持ってくる。ウイルスのせいで知性と理性を失った感染者は、獣のように僕へと一直線に走る。

 距離が10メートルを切り、僕は鉈を大きく掲げーーーーーー


「あ」


 突っ込んでくる感染者の顔に見覚えがあった。思わず動きが止まり、その間に感染者は一気に距離を縮める。我に返った時には、感染者は文字通り目と鼻の先にいた。

 僕を捕まえようと感染者が伸ばした手を、上半身を大きく捻ってどうにかかわす。が、そのせいでバランスを崩し、よろめいた僕にさらに感染者が手を伸ばす。


「クソッ!」


 不安定な状態で鉈を振ったが、刃は伸ばされた感染者の腕の骨を割り、突き刺さっただけだった。逆に万力のような強さで感染者に腕を掴まれ、激痛に思わず鉈から手を離してしまう。

 すかさず僕の腕に食らいつこうとした感染者の腹を思い切り蹴り上げ、拘束が緩んだ隙にどうにか手を振り解く。ちょうど背後には消火器が一つ設置してあり、それを武器に戦おうとしていた僕は、床に溜まっていた血で足を滑らせてしまった。

 背中から床に倒れ込み、頭を打って一瞬視界が真っ白に染まる。その隙を見逃すはずもなく、感染者は再び僕に飛びかかってきた。

 馬乗りになるような形で僕を喰おうとする感染者は、右手で僕の身体を押さえ、首筋に噛みつこうとする。どうにか左手で僕に跨がる感染者の腕を押さえ、右手でその首を締め上げる。鉈が刺さったままの左手が使えない事が幸いだったが、それでもこちらが不利である事に変わりはない。一瞬でもどちらかの手の力を抜けば喰われる、そう直感していた。


 全く身体を動かす事は出来なかった。ウイルスの影響により脳のリミッターが外れている感染者はとてつもない力で僕の身体を掴み、首が絞まっているにも関わらず圧搾機のように顔を近づけようとする。男子高校生と火事場の馬鹿力を常に発揮している大人の感染者とでは、かなり分が悪い。

 それでもここで死ぬわけにはいかなかった。もし僕が死ねば、感染者は下に降りていって結衣と愛菜ちゃんを襲うかもしれない。男子である僕が身体能力で太刀打ち出来ないのだ、二人が感染者から逃げきれる確率は低い。


 だから、死ねない。今は一人でいた頃とは違い、一緒に行動する仲間がいる。二人のことを考えれば、このままここで感染者に喰われるわけにはいかない。

 僕の視界に感染者の胸から生えた果物ナイフの柄が入る。自殺しようと胸にナイフを突き立てたが、運悪く心臓を刺すことは出来ず、そのまま感染者と化したのか。とにかく、この状況を逆転するにはどんな手段でも使う必要があった。


 感染者の赤い涎が学生服に滴る。感染者の口の中には血液中よりも多くのウイルスがいるらしく、そのため咬まれると傷口からウイルスが入ってこちらも感染してしまう。わずかに身体をよじり、それ以上涎を被らないようにした。

 左手で感染者の首を掴み、同時に右手を離して感染者の胸に刺さった果物ナイフの柄を掴む。気合いの声と共に深々と胸に刺さっていたナイフを引き抜くと、今度は順手に握ったそれを顎の下から一気に突き上げた。顔を近づけつつあった感染者の身体が電気を流したように一度大きく揺れ、それから力を失い僕にもたれ掛かってくる。


「脅かしやがって……。訴訟も辞さない」


 重い感染者の身体を脇へ押しやり、深呼吸した。今度は顎の下から果物ナイフの柄を生やした感染者は、心臓がまだ生きているのかわずかに痙攣している。突き刺さったナイフが脳に達したのだろうか、どちらにせよ感染者が死ぬのは間違いない。

 一か八かの賭だった。もし僕がナイフを掴もうと力を緩めた一瞬に一気に感染者が顔を近づけていたら、僕は首から血を流して死んでいただろう。あるいは首を掴んでいた左手を掴まれ、食いつかれて感染し、彼らの仲間入りをしていたか。

 倒れた感染者の左腕に、バースデーケーキ上の板チョコのように突き刺さった鉈を引き抜く。が、今まで酷使してきたせいか、鉈の刃は大きく欠けていた。元々人を叩き斬るためのものではないし、ついに寿命が来てしまったのか。とにかく、僕が今まで愛用していた鉈は使い物にならなくなってしまった。


 しかし今の僕は、鉈にではなく目の前に転がる感染者の死体に気を取られていた。さっきのどこかで見たような感じ、あれは確か……。

 ポケットから愛菜ちゃん一家の写真を(あちこち折れてしまっていたが)取り出すと、その既視感の正体がすぐにわかった。僕を襲ってきた男の感染者は、写真に写っている一人だった。

 憎悪に塗りつぶされた凄まじい形相ではあったが、彼が愛菜ちゃんの父親である事は写真を見比べるとよくわかる。温厚そうな小太りの中年男性は凶暴で理性の欠片もない感染者と化し、そして僕に殺された。

 愛菜ちゃんの父親が着ている服は、肩の部分が裂けそこから赤い歯形が覗いていた。彼は結局愛菜ちゃんと出会う事も出来ず感染者に咬まれ、そして自殺を図ったらしい。だが死ぬ事が出来ずに、感染者と化してしまった。


 いかんいかん、これ以上考えちゃいけない。一々死者に思いを馳せていたら、その内気が狂ってしまいかねない。たとえそれが知り合いだったとしても、既に彼は人間ではないし生きてすらいない。考えるだけ無駄で、その分の思考を別の事に費やした方がマシだ。

 頭ではそう理解しているが、それでも僕は愛菜ちゃんの父親の死体から目を逸らせなかった。愛菜ちゃんがあれだけ探していた父親を、僕は死に追いやったのだ。たとえ彼が感染者と化していたとしても、その事実は変わらない。僕が愛菜ちゃんのお父さんを殺した。


 ーーーーーーやめよう、これ以上考えるのは。今は死んだ人間より、生きているかもしれない人間を探す方が先決だ。どうにか愛菜ちゃんの家族を一人でも見つけ、彼女のところへ連れて行くしかない。そうする事でしか、僕の気は晴れそうもない。

 それに愛菜ちゃんの父を殺したことは、仕方のないことだったのだ。殺さなければ僕が死んでいた。だから、僕は悪くない。




 十分かそこらの後、途中で見つけた金属バットを片手に調理室に戻った僕を、二人はほっとしたような顔で迎えた。


「誰もいなかった」


 開口一番、話の主導権を握るためにそう言う。


「少なくともこの校舎には、愛菜ちゃんのご家族の姿は見あたらなかった。だからたぶん、外に逃げたんだろう」


 そう言って写真を返すと、愛菜ちゃんは心底安堵したような顔を見せた。


「こういった場合にどこに集まるとか、事前に決めてあった?」

「いえ。でもいざという時は、皆で東に向かって逃げようって言ってました。もしかしたら……」

「大丈夫だ、きっと生きてるよ。だから心配しないで」


 そう言って話を打ち切ったにも関わらず、愛菜ちゃんは不快そうな顔を見せる事はない。僕がここに家族がいないと言った事を、心の底から信じてうれしく思っているのだろう。愛菜ちゃんが見せる笑顔は底抜けに明るく、眩しかった。


「あの、ありがとうございました。私のためにわざわざ……」

「……ああ」


 僕は片手を振って愛菜ちゃんに背を向け、調理室の壁にもたれ掛かった。そしてそのまま、床にしゃがみ込む。


「どうしたのよ、なんかやつれてるように見えるけど」


 そんな僕を心配に思ったのか、リュックを両手に抱えた結衣が尋ねてくる。必要な物資を詰め終わったのかパンパンに膨れたリュックの一つを、僕に手渡してくる。普段は何ともないのに、まるでバーベルようにリュックを重たく感じた。


「なんでもない、ちょっと疲れただけだ」

「ちょっとには見えないけど。何かあったの?」

「何もなかった。何も……」




 何もなかったわけがなかった。

 感染者と化した愛菜ちゃんの父親を殺した後、彼が出てきた部屋を覗いた僕が目にしたのは、二つの死体だった。中年女性と、僕と同年代の少年の死体。それはまさに、僕が探していた愛菜ちゃんの母親と兄の死体だった。

 写真で確認したから間違いない。愛菜ちゃんの家族は、彼女を残して全員死んでいたのだ。

 愛菜ちゃんの母親と兄は腕や足に咬み傷が残っていたが、どうやら人間のまま死んだらしい。その証拠に二人が争ったり暴れたような形跡はなく、安らかな表情で眠るように死んでいた。


 二人の胸には大きな刺し傷があり、それが致命傷となったらしい。感染者は動く死体ではない、感染しても心臓を刺されたり大量に出血すれば死ぬ。二人も感染者になる前に、誰かに殺してもらったのだろう。

 その誰かが、僕が殺した愛菜ちゃんの父親である可能性は高いと思う。二人の胸の傷と、父親の胸に刺さっていた果物ナイフの大きさがピタリと一致していた。恐らく愛菜ちゃんの一家は全員が咬まれ、父親が母親と兄を介錯したらしい。そしてその後自分も後を追おうとしたが、上手く死ねずに感染者と化したといったところか。


 どちらにせよ、愛菜ちゃんが捜していた家族はとっくに死んでいたという事だ。それなのに僕は、彼女に嘘をついた。家族の死体は見つからなかったと。

 何であんな事をしたんだろう? 僕は最初、ありのままの事実を伝えようとしていた。でも調理室に戻って愛菜ちゃんの顔を見た途端、とっさに嘘をついてしまった。

 愛菜ちゃんの笑顔を曇らせたくなかったと思ったからだろうか? 自分を残して家族が全員死んだと知れば、愛菜ちゃんは確実に悲しむ。それどころか生きる気力も何もかもを失ってしまうだろう。最悪、この世に絶望して自ら命を絶ってしまうかもしれない。

 家族の死を告げられるより、家族の姿は学校の中には見あたらなかったと告げられる方が、どこかにいるであろう家族を見つけようと生きる希望が湧く。だから僕は愛菜ちゃんに嘘をついた。


 それは取り返しのつかない嘘だった。これから愛菜ちゃんは、どこかで家族が生きていると信じて生き続けるのだろう。だが僕は、彼女が既に天涯孤独の身となってしまった事を知っている。そしてその事実は、現状僕しか知り得ない。

 結衣にもその事を言わなかったのは、彼女から批判される事を恐れたからだ。たとえ結衣が残酷な光景を見せたくないと言っていても、家族の死は別だろう。受け入れるべきは受け入れ、現実を見据えて前に進んでいく。そうでなければこの世界では生きていけない。


 だが僕はその機会を奪ってしまった。愛菜ちゃんは家族の生存という幻想を信じて生きていく。いつかそれが嘘だとわかり、そして感染者と化していたとはいえ僕が彼女の父親を殺した事を知ったら、いったいどんな結果になるだろうか。

 少なくともいい結果になるとは思えない。だから僕は愛菜ちゃんに家族の死を告げられなかった。そして彼女が現実を知る機会を奪ったとして批判されるのを恐れ、結衣にも教える事が出来なかった。


 よかれと思ってついた嘘だが、それはある意味とても残酷な事なのかもしれない。そして愛菜ちゃんに現実を教えるべきだと思っていた僕が、よりにもよって彼女に現実を突きつける機会を奪うとは、なんて矛盾した事だろうか。


 この先、僕は一生この事を背負って生きていくに違いない。いつかこの嘘を告白出来る時が来るのか、僕にはわからなかった。

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