第五話 学校へ行くお話
「あー、ラーメン食べたい」
ふとそんな言葉が口から出た。
「ラーメンならあるじゃない、カップ麺が」
「俺が食べたいのは店で作ってくれるような、生麺のラーメンだ。断じて乾麺じゃない。別に行列が出来るような店じゃなくて、一杯三〇〇円で食べられるチェーン点のでもいいな」
そう言うと、隣を歩く結衣が「何言ってんのこの男」みたいな冷たい目で僕を見てくる。
「結衣も何か食べたい物の一つや二つくらいあるだろ? 長い間ろくなモン食ってないんだし」
「……そういえばそうね。もう三ヶ月、食事は缶詰とかそういった保存食ばっかりだし」
電気が使えなくなってから三ヶ月、冷蔵庫は使えず生鮮食品の類は全て腐ってしまった。そのせいで時々民家を漁って見つかる食糧は、保存の利く缶詰や乾麺ばかりだ。米だけはまだ食べられるが、それ以外は毎日保存食しか食べていない。
「出来るならアイス食べたいわね、それかクレープとか」
「甘い物ばっか食べてると太るよ」
「ぐっ……!」
「まあ結衣はもう少し肉を付けた方がいいと思うけど。特に胸のあたり……」
瞬間、結衣の裏拳が僕の顔面に炸裂した。
スーパーで結衣と初めて会ってから、既に一週間が経過していた。
大量の感染者をどうにかガソリンスタンドに隠れてやり過ごした僕と結衣だったが、今まで安全に隠れていたあのマンションには戻れなくなってしまった。その上まだ物資が残っていたスーパーも感染者のテリトリーに入ってしまったとなれば、あの町にいる理由はもう無かった。その日の内に僕は結衣を伴い、あの町を脱出した。
感染者に見つかる直前でリュックの中に食糧を詰め込んでおいたものの、消費する人間が二人になってしまった事については正直頭が痛かった。結衣は避難所を身一つで逃げ出してきたので持ち物はほとんどなく、必然的に食糧などの物資を二人で分ける事となる。今まで一人で節約してどうにか暮らせていたのだが、二人になってからは消費するペースも倍になってしまっている。
その事に責任を感じているのか足が治ってから結衣は積極的に食糧を求めて民家などを探したが、結果は芳しくなかった。得られたのは缶詰数個くらい、これではぜんぜん足りない。
僕は高校生男子だから多少は無理が利くけど、結衣は女子だ。いざという時に空腹で動けませんでは洒落にならない。そのため、目下のところ食糧の入手が最重要目標だった。
だけど僕は、少しだけ食糧の入手について希望を見いだせていた。理由は押し入った民家で見つけたラジオを何となく作動させた時、偶然電波を受信できたからだ。
それは政府が流しているらしいFM放送で、ひたすら避難所の場所を繰り返す内容だった。録音放送なのでいつから流れているのかはわからないが、聞いてみるとかなり近い場所に避難所が設けられている事だけはわかった。
放送局によるラジオ番組はそれを流す人間がいなくなってしまったせいで長い間沈黙したままだが、時々こうやって放送の電波を受信出来る事がある。それは今挙げたような政府の録音放送だったり、生存者が各地から集めた情報を放送するものだったりする。無駄だと思って僕は長い間ラジオを聞いていなかったのだが、結衣が避難所にいた頃は時々皆でラジオを着けて放送を聞いていたらしい。というか、比較的大きくて設備も充実している避難所だと、生存者を導くために自らラジオ放送をしている場所もあるんだとか。
「あんた、そんなんで今までよく一人で生きてこれたわね……」
と何も知らない僕に結衣はそう言った。それについては僕自身も驚いている。何も情報を集めようとしなかったのに、よく生きていたなと我ながら感心した。
「避難所まであとどれくらいだっけ?」
結衣の言葉で地図を取り出し、さらに方位磁石をその上に乗せて現在地と進行方向を確認する。ラジオ放送によると避難所はここから東へ向かった場所にあるらしい。
僕達は今国道を東へ向かって歩いている。道路の左右に並ぶ民家や商店は略奪の痕跡があり、物資が残っている見込みはない。さらに火災が発生したのか、黒焦げの瓦礫が並ぶ住宅街もあった。当然そこかしこに破壊の爪痕が残っている。
そんな道路を堂々と歩いていられるのも、感染者の姿が見えないからだ。感染者の能力は一部を除いて人間と変わらないから、こちらから感染者が見えないなら向こうからもこちらが見えない。それならむしろ、見晴らしのいい道路にいた方が早々に感染者を見つけられるからこちらが有利になる。
「あと二キロってところかな。あと一時間くらいだよ」
「そんなにかかるの……?」
「しょうがないだろ、避難所は歩いてこないんだから」
むしろ足を生やしてのっしのっしと歩く避難所があったら見てみたい気がする。
「ま、あと一時間ね。そこで食べ物を分けてもらえれば何も文句は言わないわ」
「避難所に物資が豊富だったらいいんだけど」
そう言って、僕と結衣はひたすら東へ向かって歩き続けた。だけど僕は、心の中で懸念を抱いていた。表情にこそ表さないものの、それは結衣も一緒だろう。だけど口にすればそれが本当になってしまいそうだから、敢えて言わないだけなのだ。
僕と結衣が抱いている不安。それは避難所が「まだ」存在しているかという事だった。
それからしばらく無言で歩き、とうとう避難所にたどり着いた僕と結衣は、目の前の光景に呆然としていた。
「ですよねー……」
最初から嫌な予感はしていた。東の空に黒煙が立ち上っているのを見た時も、避難所の座標に近づいて行くにつれて道端に転がる死体が増えていたのも敢えて無視していたのだが、こうやって避難所にたどり着いた今、改めて現実を突きつけられた形になった。
簡単に言うと、避難所が廃墟と化していたのだ。
「中山中学校」との立派な札が門の脇に設置されている事から、かつては中学校だったのだろう。災害時に学校などは避難所になる事も多く、日本に感染者が発生した時も学校が避難所となっていた地域は多かった。
僕達がたどり着いたこの中学校が、丸で地図に記載された避難所だった。だがその避難所は今や死と破壊の痕跡しか残っておらず、普通の人間の姿は全く見えない。
感染者の侵入を防ぐためだろうか、鉄板が張られ補強された校門の柵は、内側から開け放たれていた。そこから見える避難所内部の光景は、まさしく「悲惨」の一言に尽きる。
あちこちに死体が転がり、二つある内の一つの校舎からは炎が吹き出していた。炎上していないもう一つの校舎には、脱出しようとして運転を誤ったらしいマイクロバスが突っ込んでいる。
学校の敷地をぐるっと囲む柵はこれまた鉄板で補強され、さらに柵の上には有刺鉄線が張り巡らされている。その有刺鉄線には、男女問わず死体がいくつもぶら下がっていた。どれも避難所から逃げ出そうとしたかのように、校庭の内側から外へと上半身を突き出している。そのどれもに苦悶の表情が浮かんでいた。
「ひどい……」
結衣がそう呟いて口元を手で覆う。だが僕は不思議なほど心が落ち着いていた。予想された事態が現実の物となった、それくらいの感想しか抱けなかったのだ。
腰のベルトにぶら下げたケースから鉈を抜き、いつでも振れる体勢を取って校庭へと一歩足を踏み出す。そんな僕を見て、慌てて結衣が追い縋ってきた。
「ちょ、ちょっと! まさかこの中に入ろうってんじゃないでしょうね!?」
「そのまさかだけど、何の問題ですか?」
「問題大有りよ! どう見ても生存者じゃなくて、感染者がお出迎えパターンじゃないこれ!」
そう言って校庭を指さす。
「感染者がいたなら、逃げる人を追ってとっくにここから出て行ってるだろ。いたとしても数は多くない」
「でも……」
「じゃあ今夜の食事はどうする? 明日の朝飯は? もう食糧はないんだ」
そう言うと結衣が「ぐっ」と痛いところを突かれたかのように一歩引き下がった。
物資はもうほとんどない。この避難所に来たのは食糧を恵んでもらうためで、あわよくばここに収容してもらおうという考えもあった。だがこの惨状を見るに、ここは避難所としての機能を失ってしまったのは間違いない。だが様子を見るにここが放棄されたのは昨日か一昨日と比較的新しい頃で、もしかしたらまだ食糧とかが残っているかもしれない。
確かに感染者がいるかもしれないが、かといってここをスルーして他の場所で食糧を探す余裕はない。多少の危険は覚悟の上で踏み込むべきだ、と僕は結衣を説得した。
「……仕方ないわね。確かにもう食糧はほとんど無いし、かといって余所で手に入れられる見込みもないし」
「だろ?」
「でも、もし感染者が三体以上いたらさっさと逃げるわよ! いい!?」
それについては同じ意見だった。一度に倒せるのは一体まで、同時に二体以上が襲いかかってきたらどうしようもない。だからもし同時に三体以上の感染者に遭遇したらさっさと逃げるという点については、僕も賛成だった。
普段は思い切った行動に出るのは控えていたのだが、今は仕方がない。今日中に食糧が無くなってしまったら、飢えて動けなくなる。そこを感染者に襲われるよりも、多少の危険を冒しても食糧を入手すべきだった。
結衣がバールを右手に握り、後ろをついてくる。初めて出会った時結衣は丸腰の状態だったから、持っていたバールを与えたのだ。まだ鉈があるし、いざという時にはマグライトも鈍器代わりになるので武器に不安はない。
中学校の敷地内に入ってまず目に付いたのは、あちこちに転がる死体の数々だった。老若男女を問わず、数え切れないほど死んでいる。どれもこれも何かに喰われたかのように死体が激しく損傷しているので、感染者の仕業と見て間違いないだろう。
砂利が敷かれたグラウンドに何か太陽光を受けて輝く物が落ちていたので、しゃがんでそれを拾い上げた。鈍い真鍮の輝きを放つそれは、ライフル弾の空薬莢だった。他にも赤いプラスチック製の散弾銃の空薬莢がところどころに散乱している。おそらく民間人でも所持が許可されている猟銃のものに違いない。
「感染者に襲われたのかな……?」
「いや、違うと思う。ここの人達はきちんと武装していたみたいだから、感染者の襲撃を受けたわけじゃなさそうだ」
そう答えて拾った空薬莢を結衣に渡す。
人の形をした猛獣といった感染者だが、武器さえあれば対処する事も可能だ。特に遠距離から一方的に攻撃できる銃はもっとも有効な武器であり、感染者を遠くから安全に排除する事で生存確率もあがる。自衛隊員や警察官がいない避難所には猟友会などの銃を持った人々が集まって警備の仕事についていた事も多いから、数が少ない内は感染者が襲ってきても無事に対抗できていた。
結衣のいた避難所も、一週間前に襲撃を受けるまでは一度も感染者の侵入を許していなかったらしい。そして僕が三ヶ月前に逃げ込んだ避難所には、銃を持った大人は一人もいなかった。
かといって銃さえあれば無敵というわけでもない。数で押されればいずれ弾は尽き防衛線にも綻びが生じ、そこを突破される。が、この避難所の様子を見る限り、外部から度重なる感染者の襲撃を受けて内部への侵入を許したわけではなさそうだ。
事実、学校を取り囲む柵や門が破壊された形跡はない。それに人々が校庭の中から外へと逃げ出そうとした形跡も数多く見える。先ほど見えた柵に引っかかっていた無数の死体も、学校から一刻も早く脱出しようとして柵を乗り越えようとしたが、有刺鉄線に絡まって身動きが取れなくなったところを襲われたようだった。
そこから鑑みるに、感染者は外からではなく内側から発生したに違いない。おそらく感染したもののまだ発祥していなかった人を油断して避難所に入れてしまい、その人が感染者と化して周囲の人間を襲った。内側から発生し鼠算式に数を増やしていく感染者に避難していた人々はパニックに陥り、てんでばらばらに逃げようとしたものの大半は喰われるか感染者と化した――――――といったところか。
本当のところは僕にもわからない。今のだって単なる推測だ。生存者がいたならば正確な事もわかるだろうが、この有様ではまだ学校に残っている人がいるとは思えない。
あちこちに部品パーツと化した死体が散らばっているのを見て結衣は今にも泣き出しそうだったが、僕は何の感慨も抱かなかった。恐怖や嫌悪感、そして悲しみといった感情は、三ヶ月前にとっくに捨て去っている。今や電柱や信号と同じく死体は街の一部と化しているのだ、一々吐いていたらやってられない。
だが結衣は一週間前まで安全な避難所で暮らしていたのだ。当然死体も見慣れていないのか、校庭に生える木の根本に駆け寄ると一気に嘔吐した。僕は何も言わず、タオルと水を渡しておく。
「……ありがと」
「どういたしまして」
それにしても、何や役に立ちそうな物は転がっていないのだろうか? この避難所に銃を持った人がいたのは間違いない。だが銃を持っていた人がそのまま感染者と化してしまったのか、銃を持った死体は見あたらなかった。所持者が銃をぶら下げたまま感染者になったか、あるいは生存者がいて遺棄されていた銃を回収していったか。何となくしか使い方はわからないが、銃があればぐんと生存確率が上がるのに、少し残念だ。
校庭にはいざという時のためか何台か乗用車やマイクロバスが停まっていたが、パニックに陥った人々の大半が事故を起こすか存在そのものを忘れたらしく、大半が無傷のまま校庭に鎮座していた。エンジン音で感染者が寄ってくるし、何より運転の仕方がわからないから当然自動車には乗らない。
やはり物資を得るには建物内部に入るしかなさそうだ。二つある校舎の内一つは今でも炎が燃え上がっているが、距離があるのでもう一つの校舎に炎上する心配はない。まずは校庭に入ってすぐの場所にある、体育館の中を探索してみる事にした。
人々が慌てて逃げ出したためか、体育館の扉は開け放たれたままだった。しかし中に入ると、とたんに濃厚な血の臭いが漂ってくる。
マグライトを取り出して点灯すると、暗い体育館に足の踏み場も無さそうなほど死体が転がっているのが見えた。場所が足りなかったのか、震災の時のように体育館の床にはあちこち仕切りが設けられている。恐らく相当数の人々がここで暮らしていたらしく、パニックに陥り冷静な避難も出来ないまま、ほとんどが体育館の中で感染者に喰われて死んだらしい。
僕達と年が近そうな子供の死体も多く転がり、それを見た結衣が再び吐いた。吐瀉物の臭いはすぐに血の臭いにかき消される。きっとこの体育館にはプール一つ分は血がぶち撒けられているに違いない。
「外で待つ?」
そう尋ねると、青い顔をしつつも結衣は首を横に振った。一応根性はあるようだ。
体育館の中をざっとライトで照らしてみたが、動く物は何一つ見あたらない。生存者も、もちろん感染者の姿もない。
ここはどうやら生活スペースだったようで、物資集積所は他にあるようだ。無駄足だったか、と溜息を吐いた途端、何か音が聞こえた気がした。
「なあ、今の聞こえた?」
「聞こえたって、何が?」
嘔吐を堪えるので精一杯の結衣には聞こえなかったらしい。改めて耳を澄ませると、どこかからすすり泣くような声が聞こえてくる。
「……聞こえた!」
今度は結衣にも聞こえたらしい。声のする方へと歩いていくと、「体育倉庫」とのプレートが貼られた大きな鉄扉の前にたどり着く。扉の前には金属製の大きな棚が、つっかえ棒をするかのように倒れている。感染者が発生した時の騒動で倒れたのだろうか。とにかく外から扉を塞ぐような格好で棚が倒れているため、中に閉じこめられた誰かは外へと出られないようだ。
「誰かいるんですか?」
感染者を警戒してやや小声でそう言ったが、返事は帰ってこない。聞こえていないのか、あるいは言葉も出ないほど恐怖に襲われているのか。
「助ける?」
「助ける。当たり前でしょ?」
「そう言うと思ったよ」
結衣を置いて、僕は一人で棚を持ち上げた。結構重いが、男子高校生が持ち上げられない重さではない。半ば引きずるようにして何度か揺さぶり、どうにか棚を扉の前から撤去した。
「よし、開けるぞ。何かあったら助けてくれよ」
鉈を片手にドアの取っ手に手をかけると、結衣が頷いた。結衣もバールを構え、いつでも戦える体勢を取る。
息を吸い込み心を落ち着かせ、そして一気にドアを開け放った。マットや跳び箱が置かれた体育倉庫の中は暗く、ぼんやりとシルエットしか見えない。
隅々までライトの光を巡らせた僕は、跳び箱の影で一瞬何かが動いたのを見逃さなかった。すかさず倉庫内へと足を踏み入れ、ゆっくりと跳び箱へ近づいていく。
いつでも振り下ろせるよう鉈を上段に構えながら、跳び箱を回り込んだ僕はそこにいた人を見て、思わず言葉を失った。
「幼女、だと……?」
一〇歳にも満たないであろう少女が、震えながら床に座り込んでいたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます