第四話 逃げるお話
その後僕が名を名乗る事で彼女の警戒も解けたのか、色々と質問に答えてくれるようになった。
彼女の名前は
だが数日前、その避難所が感染者たちに襲われた。生存者の不注意が原因だったらしいが、そんな事はどうでもいい。避難民の多くが殺され、生き残った者たちも散り散りになって逃げたという。
結衣もその混乱の中で両親とはぐれたが、どうする事も出来なかった。感染者の巣窟と化した避難所に戻るわけにはいかないし、かといって両親を捜す手がかりもない。とにかく感染者から離れようとひたすら東へ向けて走り、今朝この町へたどり着いたそうだ。
突然の事で荷物は一切持ち出せず、とりあえず餓えと乾きを満たそうとこのスーパーへ入ったところ、僕と遭遇した。これがここに彼女がいる理由だ。
「あんたもしかして、一人?」
「そうだけど」
いきなり年上の人間に向かってとは思えないような態度を取り始めた結衣に少しいらっとしつつも、僕も質問に答える。こっちだけが尋ね続けては彼女の不審を買ってしまう。
「あんたよく、何週間も一人で生きていられたわね……」
結衣は驚いたように言ったが、僕からしてみればこの町にたどり着くまでずっと走っていたという彼女の方が驚きだ。
「まあ奴らに見つからないよう隠れていたからね、ほとんど引きこもっていたようなもんだよ」
「この近くに住んでるの?」
一瞬、答えるかどうか迷った。もしイエスと答えれば、行く当てのない彼女が保護を求めてくる可能性が高い。だが僕が隠れているマンションは安全とはいえ、数が増えればそれだけ発見される確率も高くなる。それに二人で暮らせば消費される物資の量も当然二倍になる。今の僕にそこまでの余裕はない。
だが口を開こうとしたその時、入り口の方で何か音が聞こえた。とっさにその場にしゃがみ、小声で結衣に「隠れろ」と言う。彼女も今の音が聞こえたのか、姿勢を低くしたまま隣のレジへと移動する。
プレゼンなどで使用される伸び縮みする指揮棒の先に小さな鏡をくっつけた代物をポケットから取り出し、レジの陰から少しだけ突きだして入り口の方に向ける。曲がり角などでも先の様子が分かるように自作した物だがなかなか使い勝手がよく、重宝している。
鏡に映った入り口から、一体の感染者がスーパーの中へと入ってきていた。舌打ちしたくなる衝動を抑え、そのまま観察を続ける。結衣がスーパーに入って行くのを見て後をついてきたのかどうかはわからないが、まだ僕たちは発見されていない。
だがここで音を出したり動いたりすれば、確実にあの感染者に見つかる。それだけはなんとしても避けたい。
感染者は低いうなり声を発しながら、フラフラとスーパーの中を徘徊する。普段はああやってウスノロな感染者だが、獲物(人間)を見つけた瞬間餌を見つけたライオンの如く全力で走り出す。その足の速さで何億人が逃げても追いつかれて喰い殺され、連中の仲間入りをしただろうか。
早く行け、ここには何もない。そう念じて感染者が行ってしまうのを待つ。一体だけならば倒せない事もないが、相当のリスクを犯す覚悟が必要だ。
感染者は入り口付近をウロウロし、数分もすると反転して入り口の方へと向かい始めた。逃げ切れたか、安堵して胸を撫で下ろそうとした時、チャリ……と金属が擦れる音が僕の耳に届いた。しかもその音は、結衣が隠れている隣のレジから聞こえた。
感染者の動向に夢中で、僕はすっかり結衣の存在を忘れてしまっていた。身体の姿勢を変えた拍子に床に散らばった硬貨を下敷きにしてしまったのだろうが、原因はどうでもいい。音を出してしまった事が問題だった。
隣のレジから結衣が息を呑むのがわかった。僕も息を殺し、指揮棒を少しだけ出して入り口の様子をうかがう。
僕の願いに反して、やはり感染者は今の音を聞いていたようだった。足を止めて周囲を見回し、それからこちらに顔を向ける。そして最悪な事に、こちらに向けて進み始めた。
一歩一歩近づいてくる感染者の顔が、鏡によく映る。学生服に身を包んだ高校生らしい男子だ。感染者の運動能力はある程度人間だった頃の状態に左右されるので、高校生男子といえば成長真っ盛りで運動能力も高い。それが感染者となれば、まさに化け物じみた運動能力と力を発揮するようになる。敵にするには厄介な奴だった。
来るな、来るな、来るな……! ただそう願う事しか出来ない。だが感染者は僕の願いなど無視して、どんどん近づいてくる。
そして、
「いやぁああああああッ!」
ついに緊張に耐えられなくなったのか、パニックに陥ったらしい結衣が悲鳴と共に立ち上がり、もう一つの位置口へ向けて逃げ出した。当然感染者がそれを見逃す筈もなく、大きく吼えた感染者は結衣を追い始める。
こうなっては隠れても意味がない。僕も立ち上がり、叫ぶ。
「走れ、走れ!!」
そう叫びながら、今まで握っていたバールを構える。結衣を追おうとしていた感染者は僕に狙いを変えたのか、こちらに向けて全力疾走してくる。見る見る内に距離が縮まり、血の混じった涎を口の端から垂らして走る感染者の姿が大きくなってくる。
今すぐ背を向けて逃げたくなる衝動を抑え、冷静に距離を測る。感染者が僕と一メートルの距離まで近づいてくるのに、あと二秒もない。
感染者が僕と一メートルの距離まで近づいた瞬間、バールを思いっきり斜め右上から振り下ろす。ゴッと鈍い音と感触と共に僕めがけて全力疾走していた感染者の左側頭部が大きく陥没し、血が噴き出す。惰性でそのまま突っ込んでくる感染者の身体を避けると、感染者の死体はしばらく進んでスーパーの床に倒れた。
感染者はあくまでウイルスに感染して凶暴化した人間なので、人間と同じく生命維持に必要な組織や器官が活動停止したら死ぬ。ただグリズリー並に死に難いだけだ。
感染者を倒した僕は、すぐさま荷物を背負い全力で結衣の後を追う。ちらりと背後を振り返ると、さっき男子高校生の感染者が入ってきた入り口から、アリの如くワラワラと感染者たちがスーパーの中に飛び込んでくるのが見えた。
感染者は獲物を発見すると吼える癖があるらしく、それに釣られて他の感染者も集まってくる。一体に見つかったら近くにいる感染者全員に追われる危険があるのだ。
僕を追う感染者はわざわざスーパーの入り口を通り、店内を通ってくれているので直線距離で追うよりも時間をロスしてくれている。感染者には知性がないので、先回りしたり近道を通って追うなどの合理的な判断が出来ず、ただ食欲に身を任せてひたすら後を追う事しかしない。行く先々で感染者が待ち伏せしている危険が無いのはうれしいが、全力で追いかけられている状態では何の有り難みもない習性だ。
大通りには枝分かれした道が少ないので、ひたすらまっすぐ走り一番近い曲がり角を曲がる。もし追われている人間ならとりあえず感染者の視界から一度逃れようと、進路を変えるはずだ。
予想通り、角を曲がるとすぐに結衣と再会した。だが彼女は転んだようで、膝に血が滲んでいる。
「大丈夫か!?」
「っつ……!」
痛む膝小僧を押さえる結衣を立たせようとしたが、彼女は小さな悲鳴と共にしゃがみ込んでしまった。転んだ拍子に足首を挫いたらしい。
「クソッ!」
そう罵るしかなかった。走れなければすぐに感染者に追いつかれ、殺されてしまう。
一瞬結衣をここに置いていこうかという考えが頭に浮かんだ。元はと言えば感染者に発見されたのは彼女の責任なんだし、僕が彼女を助ける義務も義理もない。はっきり言って赤の他人を助ける余裕はないし、ここに置いていって彼女が襲われている隙に、僕は――――――。
その悪魔のような考えは、「助けて」と訴える結衣の声でかき消された。痛みと恐怖で目を潤ませ、足を押さえて見上げてくる彼女を、僕は見捨てる事は出来なかった。
それがどうしてなのかはわからない。数週間ぶりに人間と出会って情が湧いたのか、それとも元々こういう人間だったのか。とにかく僕は結衣を置いては行けなかった。
大通りの方からは感染者の絶叫が聞こえ、しかもどんどん大きくなってくる。後数秒で通りの角を曲がり、僕たちを再び視界に捉えるだろう。今から近くの民家に隠れる余裕はない。
僕は結衣をいわゆる「お姫様だっこ」の格好で抱き抱えると、前へ向けて全力で走り始めた。背中には荷物、両手には中三の女子と一気に身体が重くなり、当然走るスピードも落ち始めた。いくら地面を蹴っても全然進んでいない、そんな気さえしてくる。
一瞬荷物を捨てようかとも思ったが、そんな暇はないしここで食料や水を失うわけにもいかない。この付近で感染者に発見された以上もうあのマンションには戻れないし、さっきのスーパーで物資を調達する事も出来ない。いつどこで物資が補給出来るかわからない以上、荷物を捨てていくわけにはいかなかった。
「来たわ!」
僕に抱き抱えられた結衣が後ろを見て叫び、同時に感染者たちのうなり声が大きくなったように感じた。彼女を抱えている以上一々振り返る暇はない、早くどこかへ隠れなければ……!
ここ数週間この町に滞在していたが、外に出たのは数えるほどしか無いので町の土地勘はない。だが何度も地図を見て屋上から双眼鏡で町を観察していたので、地形はだいたい把握している。
確かこの先にガソリンスタンドがあったはずだ。そこならわざわざ塀を乗り越えたりする必要もなく逃げ込める。頭の中の地図と目の前の道路をつき合わせてルートを確認し、そこまでの最短距離を導き出す。
重い荷物と少女を背負っている割には、僕は速く走っていたと思う。後ろから追い続ける感染者の叫び声と、それを聞いて手の中で震える少女。その二つが僕を必死に動かしていた。
やがてガソリンスタンドが見えてきた。最近のガソリンスタンドはコンビニも併設してある場所が多いが、あのガソリンスタンドは個人経営店らしいので従業員の休憩室兼待機所しか無いだろう。だが隠れる事は出来るかもしれない。
僕の身体は限界に近づいていた。腕は少女を抱えているので重く、リュックの紐は肩に食い込み、口の中は乾き、心臓と肺はパンク寸前で、休息を求める身体は熱かった。
そしてガソリンスタンドから五〇メートルも無い距離まで近づいた僕は、最後の力を振り絞ってまっすぐ突っ込んでいく。従業員休憩室らしい小さな建物の入り口には乗用車が突っ込んでいたが、その脇に人が通れそうなほどの隙間があった。その割れたガラス戸から身体を室内に滑り込ませ、僕は隠れられそうな場所を探す。
休憩室の中は机と椅子、ソファーや雑誌の棚などくらいしか置いてなかった。だが部屋の隅に清掃用具を納めたロッカーがある。ここで我慢するしかない。
一旦結衣を下ろすと背負っていた荷物を床に放り出し、ロッカーを開けて中の箒やモップを外に全て出す。それでもロッカー内部の空間は人が二人どうにか隠れられるかどうかというほどしかないが、この際仕方がない。隠れなければ死ぬだけだ。
「入れ」
手を掴み、結衣をロッカーの中へ引っ張り込む。何か言い掛けたようだが気にせず、僕はロッカーの扉を閉めた。
確かにロッカーの中は狭かった。近いというか、僕と結衣が全身を密着させているような状態だ。
僕は左手で結衣の身体を抱き抱え、右手で彼女の口を押さえていた。背後から抱き締めるような格好だ。口を押さえているのは、またパニックになって喚かれたらたまらないからである。
ちなみに左手に何か柔らかい物が当たっている感触がするが、気にしないでおこう。自分の姿勢からして僕の手が何に当たっているのかは大体想像がつくが、非常時だし仕方がないよね。それにしても、あまり大きくないな。
結衣が何か呻いたが、僕は「シッ」と言ってさらに口を押さえた。窒息死されては困るので、当然鼻は押さえない。
ロッカーの扉上部に入った細長いスリットから外の様子を伺う。狭いロッカーの中にいるせいで音はほとんど聞こえないが、外の様子は見える。
すぐに、車が突っ込んで大破した休憩室の入り口から、僕たちを追ってきた感染者たちがぞろぞろと室内に入ってきた。結衣が息を呑むのがわかり、恐怖で彼女の身体が震え出す。僕は無意識の内に、彼女を落ち着かせるため強く抱き締めていた。
感染者たちは涎を垂らしながら、あーうー呻いて室内を徘徊する。ロッカーの前に僕の荷物や箒が散らばっていても、それが何を意味しているのか理解する事が出来ない。そのため人間なら真っ先に誰かが隠れていると疑うロッカーにも、感染者たちは無反応だった。
もっとも今音を出せば、確実に感染者たちは僕たちに気づく。だが僕たちが一切動かず音も出さなければ、感染者たちにとってこのロッカーはただの物体の一つとしか認識されない。
何体かがロッカーの前を通り、その度に結衣の身体は電流が流れたように大きく震える。僕も逃げ場の無い恐怖に呑み込まれそうになったが、今は結衣を守らなければならないという義務感でどうにか精神を保たせた。
知性のない感染者は何故ロッカーの前に僕の荷物や本来中にあるはずの箒が散乱しているのか、そこから推測する事が出来なかった。僕たちを見失った感染者たちは次の獲物を求めて、潮が引くように休憩室からぞろぞろと出ていった。
念のために最後の感染者の姿が見えなくなってもしばらく待ち、一〇分後、ようやく僕たちはロッカーの中から出た。狭い空間に二人で密着して入っていたため中は蒸し暑く、ようやく地獄から解放されたような気分だった。
油断せず素早く室内の安全を確認した後、ガソリンスタンドの周辺にも感染者がいない事を確かめて、ようやく一息つく事が出来た。ずっと走っていた上にクソ暑い場所にいたので口の中はカラカラで、リュックからミネラルウォーターのボトルを取り出した僕は一気に乾きを癒す。
「飲むか?」
結衣に半分中身が残ったボトルを差し出すと、彼女はひったくるようにして水を飲み干した。そして口を拭い、開口一番、
「あんた、私の胸触ったわね……!」
と思い切り睨んできた。
「いや、あれは不可抗力だし、というか狭かったんだから仕方ないだろ」
「でも他に手を置く場所くらいあったでしょ!?」
「というか、あんな小ささじゃ触った気がしな……」
次の瞬間、結衣の投げた空のボトルが僕の頭を直撃した。痛かったが、こうして二人とも生き残り馬鹿なやりとりをしている事に、思わず笑ってしまう。遠回しに貧乳だと言われ怒っていた結衣も、僕の笑いが感染したのかくすくす笑った。
さっきまで彼女の事を厄介だと思っていたのに、こうして困難を切り抜けた今では、大切な存在のように思えた。
ああ、生きているって素晴らしい。僕は改めてそう思った。
「……それで、あんたこれからどうするのよ?」
荷物をまとめ立ち上がった僕に、結衣がおずおずといった感じに話しかけてくる。さっき転んで擦りむいた箇所は消毒し、足首には濡れタオルを巻いて冷やしてやっているが、一人で歩き回るのはしばらく無理そうだった。走るのはもっと困難だろう。
「もう隠れ家には戻れないし、長くここに留まるのも危険だ。さっさと別の町に移って安全な場所を探すさ」
「へ、へえ、そうなの」
そう言うと、結衣は何かを訴えるような目で僕を見上げた。でもそれを口にするのは恥ずかしいのかプライドが許さないのか、すぐに床に視線を落とす。
……仕方ないか。
「ま、仲間が欲しいとは思っていたんだよな。それにお前の足も心配だし」
仲間云々は嘘だが、足を心配しているのは本当だ。それに何だか、ここで別れるのはかなり惜しい気がする。
僕はニヤッと笑い、続けた。
「一緒に来るか?」
その言葉で結衣は顔を上げた。心なしか、瞳が輝いているように見えた。
「もちろん!」
……それはそれとして。
「それはそうと、あんたって呼ぶの止めてくれないか? 名前もちゃんと教えたんだし」
「じゃあヘンタイって呼ぶわ」
「ヘンタイは無いだろうヘンタイは」
「だってあんた、私の胸揉んだじゃない!」
「だからあんなの小さすぎて触った内に入らな……ちょっと待て、何でバールに手を伸ばそうとするんだ?」
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