第二話 沈黙のお話

 マンションの屋上に立てこもってから二週間が経過したある日。



 金属の擦れる僅かな物音と共に、僕はドアを開けた。とたんに眩しい太陽の光が、カーテンを閉め切り一切の明かりが消えた暗い部屋の中へと差し込んでくる。事前に瞼を閉じていたもののやはり朝の日差しは強烈で、僕の視界にはしばらく黒い染みが出来てしまった。

 少し待って視野を正常に戻し、日差しに目が慣れたのを確認して僕は少し開いたドアの隙間から外を見た。視界に入るのはマンションの廊下の壁と床の一部だけ。それ以外は何も見えない。


 また少し待ち付近で物音がしないのを確かめてから、ドアを前回にする。それと同時に素早く部屋の中から出て、廊下の左右を見回す。誰もいない。

 ここに自分しかいない事がわかって、思わず安堵のため息を漏らす。そして無意識の内に腰に下げていた鉈なたに手を触れていたので、僕はゆっくりと手を鉈から離した。

 世界がこうなってしまってから、武器を持ち歩くのはごく普通になってしまった。そうでなければ生き残れないし、たとえ武器があっても使いこなせなければ死が待っている。この鉈も幾度となく血を吸ってきたせいで、木製グリップの部分が赤錆色に染まってしまっている。


 平日―――もはや死語だが―――の朝だというのに、町は静まりかえっていた。車の走る音も、通勤通学中の人々の喧噪も聞こえてこない。代わりに耳に入ってくるのはカラスの鳴き声だ。

 僕は廊下の壁から身を乗り出すと、双眼鏡を取り出して目に当てた。するとたちまち町の惨状が目に入ってくる。


 民家のブロック塀に突っ込み、勢いが止まらず家屋に激突してひしゃげているトラック。

 ぶつかって横転した乗用車。

 火事で燃え尽きた、家だったらしい黒焦げの残骸。

 走行中に正面衝突し、滅茶苦茶に壊れてしまった二両の電車。

 ……そして、電線を埋め尽くすように停まっている、数え切れないほどのカラス。


 こんな光景が常態化してしまってから、もう三か月ほどが経つ。人類が築いてきたあらゆる文明や組織は、今や崩壊の一歩手前まで追い込まれてしまっていた。

 双眼鏡で大通りのある方向を見ていた僕は、双眼鏡の視界の隅で何かが蠢くのを見た。素早くピントを合わせてそれを見る。

 視界の中では、いくつかの人影が動いていた。一見普通の人間に見えるが、口の周りが真っ赤に染まり、手には何か紐のような物を握って引きずっている。よく見るとその紐は、人間の小腸のようだった。


 そのすぐそばでは、人々が身を屈めて何かに群がっていた。まるでバーゲンの商品売場に群がるオバちゃんたちのようだったが、彼らが群がって食らいついていたのは人間の死体だった。

 その死体は女性で、何人かの男が彼女に覆い被さっているところだけを見れば暴行を受けているようにも見えただろう。だが群がる人影の隙間からは、彼女が腹を食い破られて内臓を引きずり出されているのが見える。左腕は食いちぎられたのか肩の付け根から消失しており、力を失った右腕が人々の動きに合わせて誰かを招くかのように揺れていた。


 余りに凄惨な光景だったが、何も感じなかった。以前はスプラッター映画とだけでなく、テレビのドキュメンタリーなどで医者が手術をしているシーンを見るだけで目を背けていたのだが、人間何でも慣れなのだろう。もう数え切れないほど凄惨な死体を目にしてきたし、目の前で人間が喰い殺されるのを何度も見た。


 双眼鏡で死体に群がる人々を観察していた僕に気づいたかのように、一人のサラリーマン風の男がこちらを向いた。口元には肉片がこびりつき、ワイシャツの上腕部は大きく裂け、そこから見える肌は皮膚が引き裂かれてズタズタになっていた。だが男は何も感じていないかのように視線を戻すと、しゃがんで隙間無く人々が群がる死体にかぶりつく。


 僕は双眼鏡を下ろし、壁に寄りかかってずるずるとしゃがみ込んだ。人が人を喰らう、そんな光景はこの二ヶ月で見慣れている。どうしてそんな事になったとか、何で彼らがそんな事をするのか、というのを考えるのは最早放棄している。考えても無意味だし、考えるよりもまずは生き延びるための行動をしなければならない。




 あの人々は―――感染者は、僕が見ていたように人間を襲って喰う。詳しい事はわからないが、食欲と攻撃衝動に支配されていると聞いた事がある。ひたすら餓え、常に怒り、人間を見かければ攻撃して喰いたくなる。

 原因はある種のウイルスだろうと、テレビやラジオが止まる前に報道されていた。そのウイルスに感染すれば数時間以内に人間ではなくなり、食欲と攻撃衝動に取り付かれた感染者へと変貌する。感染者は人間を敵(もしくは餌)とみなしひたすら襲うが、同じ感染者は仲間と思っているのか、単に興味がないのか襲う事はない。人間を人間たらしめている理性と記憶は失われ、「人の形をした凶暴な獣」と化してしまうのだ。


 感染者は身体のリミッターが外れていて、常に火事場の馬鹿力を発揮しているような常態で人間を襲う。さらに身体も強靱になり痛覚も麻痺しているのか、普通の人間なら即死するような重傷を負っても生きている事がある。腕の一本や二本が切断されたくらいでは死なず、さらに出血にも強いのか大出血していても生きている。


 まるで映画に出てくるゾンビのようだったが、感染者は一度死んで復活したわけではない。生きた人間がウイルスに感染し、凶暴化したものだ。だが腕が千切れようと足がもげようとひたすら人間を喰おうとする彼らを「ゾンビ」と呼ぶ人も多い。


 そう呼ぶ人間自体がほとんど残っていないんだどね。




 アフリカを感染源として世界中で流行したウイルスは人間を凶暴化させ、たちまちその数を増やしていった。感染者の唾液には大量にウイルスが含まれていて、咬まれた人間は傷口からウイルスが体内に入って感染し、数時間後には感染者の仲間入りをしてしまうのだ。


 ねずみ算式に数を増やしていく感染者に、世界各国は為すすべもなく崩壊していった。警察や軍隊は奮戦したが、戦果を挙げる代わりに被害も多かった。何しろオリンピック選手のような速さで走り、手足を撃たれても動き続けるような奴らが相手なのだ。おまけにこちらが失った戦力は、丸ごと敵の戦力と化してしまう。


 日本も外国と同様に大量の感染者が発生した。今や日本人の九割は死ぬか感染者と化した、とラジオではやっていたが、そのラジオも電波が入らなくなって久しい。流通や人の動きはストップし、電気や通信のインフラもそれを動かす人間が死ぬか感染して止まった。人々は感染者から逃れようとあちこちに逃げたが、紛れていた感染者が各地に解き放たれ被害を増やすだけだった。


 政府は既に機能しなくなっているらしい。警察と自衛隊の残存部隊がどこかに拠点を設けて戦力の回復に努めているという噂を聞いた事があるが、あくまで噂だ。全滅したという話も聞いたが、この現状ではそっちの方が信憑性がある。


 僕は数か月前まで普通の高校二年生だった。感染者が発生して物流とインフラがストップしてからは家の近くの避難所で暮らしていたが、避難して一週間もしない内に感染者の大群に襲われた。両親とはぐれ、必死に逃げて僕は今日まで生きてきた。

 避難所から逃げてから何人もの生存者と出会ったが、例外なく彼らは死ぬか襲撃の際に分断されて行方知れずになってしまっていた。



 そして今日、僕はネズミのように隠れていたマンションの一室から出ていく事にした。別にここを離れるわけではない、必要な食料や水を調達するためだ。

 感染者は人間を襲う。だが見つからなければ当然襲われる事はない。感染者の身体のリミッターは外れ超人的な力を発揮しているが、感覚は痛覚を除いて人間のままだ。暗闇では物が見えないし、よほど強烈な臭いでもなければ嗅覚で見つかる事はない。車に乗ったり大声を出すなどすればさすがに位置がばれて襲われるが、息を潜めてひっそりと暮らしていれば感染者には見つからない。


 そのため僕は数日の放浪の後、マンションの最上階の一室に引きこもるように暮らしていた。カーテンを全て閉め、夜に見つからないよう灯りもほとんど点けず、ただ息を殺して生きてきた。その部屋を選んだのは単に偶々鍵が開いていたのと、最上階にあって安全が確保出来ていたからだ。六階建ての最上階ならちょっとやそっとの音は地上の感染者には聞こえないし、エレベーターが止まっているから階段を封鎖すれば感染者の移動を制限出来る。

 感染者は生きている人間を見つければ全力で追ってくるが、上手く隠れれば撒く事も出来る。見つかっても全力で走って距離を稼ぎ、建物などに隠れて息を潜めていれば感染者は人間を見失う。最初は逃した得物を捕らえようと見失った場所の近くを徘徊し、わずかな物音や臭いも逃さないが、やがて興味を失って離れていく。僕は何度も感染者に襲われたが、そうやって今まで生き延びてきた。


 僕が生き残れているのは、単に運と足の速さが理由だろう。子供の頃から外で遊ぶのが好きで、特に鬼ごっこが得意でいつも走り回っていた。そのおかげか中学高校では部活に入っていなかったが、新学期に行われる体力測定では陸上部の短距離選手に負けない記録を叩き出した事もある。


 だが逃げる時に大きな荷物を抱えていては邪魔になる。このマンションの近くにはコンビニがあり、まだいくつか食料や水などが残っていた。この地区は早々に壊滅してしまったのか生存者は外部から逃げ込んできて以来見た事はなく、実質残っていた物資は僕の物同然だった。

 だが一度にマンションに運び込むには、少し多い量だった。食料と水を蓄えてひたすら立てこもろうとして、物資の運搬中に見つかり動きが鈍くて追いつかれてしまったのでは本末転倒だ。だから僕は物資を機敏に動ける分量だけ持ってマンションに立てこもり、使い尽くす直前で再び外に出ては運んできていた。万一襲われた際に体力が無くては困るので食事などの極度な節約は行わず、そのため五日おきに外に出ていた。


 僕はナップザックに僅かに残った水と食料、それと必要な物資を詰め込み、武器の点検をしていた。もし襲われたらまずは逃げるが、追いつめられたら戦わなければならない。そのための武器だった。

 僕は頑丈な鉈と、アルミから削りだした警棒にもなるマグライト、それにバールを武器にしていた。どれも元から持っていた物ではなく、逃げ込んだ先の民家で見つけた物だ。銃があれば効率的に遠距離から感染者を排除出来るのだが、無い物ねだりをしても仕方がない。銃社会のアメリカなら期待できるけど、ここは日本だ。銃を持っているのは警官と自衛隊員、それに在日米軍の兵士と猟師くらいだ。反則として暴力団などの反社会的な団体も銃を所持しているが、都合よくそれらの死体に出くわして銃を拾うなんて展開はない。


 感染者は映画のゾンビなどと違って、弱点が頭しかないというわけではない。あくまで凶暴化した死ににくい人間なので、きちんと頭や心臓、肺などの生命維持に必要な器官に重大なダメージを与えたり、全身にバラバラにするなどすれば死ぬ。だから胸を狙っても死ぬのが救いだ、あまり嬉しくないが。



 もっとも僕は、感染者と遭遇した場合まずは隠れる。それから逃げる。戦うのは最後の手段だ。

 感染者が一体しかいない場合、鈍器などで倒すのは簡単だろう。だが二体いたら僕は様子を見るし、三体以上いたら迷わず引き返すか迂回路を探す。背後からこっそり忍び寄って頭に一撃、で倒す事も出来るが、それが出来るのは感染者が一体しかいない時だけだ。二体以上いたら一体目を倒した時点で気づかれ、ひたすら追いかけられる羽目になる。僕も短距離選手並の速度で走ってくる、人の形をした猛獣とやり合うつもりはこれっぽっちもない。


 これが映画やゲームなどのノロノロ動くゾンビだったらまだ楽なんだけど。動きがトロいから鈍器でも十分やれるし、いざとなったら簡単に逃げられる。だけど感染者たちは獲物を見つけたら、視界から消えるまで全力で追いかけ続ける。本当、冗談抜きでどうにかしてほしいくらいだ。


 車での移動は自殺行為だ。そもそも僕は免許を持っていないから確実に事故を起こす自信があるし、エンジン音で感染者に気づかれる。道路も三ヶ月前の大混乱で事故を起こした車などであちこちが塞がれていたりして、よほど地理と地形に詳しくない限り迂回路を探して迷走している内に追いつかれて窓を破られる。


 ガソリンスタンドなどにはまだ燃料が残っているが、車で移動しないのはそのためだ。それに普通の車で道を塞ぐ感染者を轢いたら、タイヤは滑りエンジンは破壊されてすぐに動けなくなってしまう。山で走行中イノシシにぶつかったが、イノシシは何ともなく自動車が滅茶苦茶に壊れてしまったという話も聞くくらいだ。特別な改造をするしかないが、そんな技術も時間も道具も僕にはない。



 荷物を全て持った僕は廊下に出て、階段の前に置かれたバリケード代わりの机やソファーを退かし始めた。電気が来ないからエレベーターは止まっているし、非常階段も同じように封鎖しておけば、感染者が六階まで上がって来る事はない。もしも発見された場合には、さっきまでいた部屋のベランダに出て、避難用の梯子を使って地上に降りる計画だった。

 僕がリュックに入れた荷物は合わせて一〇キロもない。中には衣服や薬などの必要物資と水や食料が入っているが、水と食料は今まで部屋に立てこもっている間にだいぶ消費したので余り量はない。これは僕が全速力で走る時に持てる、最大の重量の荷物だった。


 ついでに言うと部屋には何も残して来ていない。またここに帰ってこられるかわからないからだ。仮に感染者に見つからずスーパーで物資を補給出来たなら、また戻ってきて立てこもる。発見された場合、また部屋に戻るのは感染者に居場所を教える事になってしまうので、その時は部屋には二度と戻らず別の拠点を探すつもりだった。

 今この町にいる普通の人間は、多分僕しかいないのだろう。このマンションに立てこもるようになってから度々外の様子を観察したが、動いているものは感染者と野生化した犬猫くらいしか見かけなかった。仮に皆が僕のように家に閉じこもっているのだとしても、ほんの数人しか生き残っていないだろう。もし僕が感染者に追いかけられていても、自分の身を守るために僕を助けてくれる事はない。頼れるのは自分だけだ。


 そこで僕は再び双眼鏡を取り出すと、先ほど感染者たちが群がっていた死体のある方向を見た。満足して余所に行ったのか大通りに感染者の姿は見えず、無惨なバラバラ死体だけが残っていた。

 あれだけ損壊が激しいなら、確実に死んでいるだろう。死んでいるなら感染者と化して襲ってくる事もない。僕はその女性の生存者が死んでいた事に、思わず安堵していた。

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