第一話 幸運な息子のお話


第一話 幸運な息子のお話


 揺れる蝋燭の赤い炎を、僕はじっと眺めていた。真っ暗闇の部屋の中を、蝋燭の小さな光だけが照らし出している。

 電気を含んだライフラインはとっくの昔に止まっている。別に電気料金を払い忘れたわけではない、発電所を動かす人間がいなくなってしまったからだ。だからいくらスイッチを押そうと明かりはつかないし、夜だというのに街灯が点灯する事もない。


 遮光カーテンできっちり覆われた窓際まで近寄り、カーテンの端を少しだけずらして外の様子を見る。街は暗闇に包まれたまま、部屋の明かりも車のヘッドライトも何も見えない。空も雲に覆われているから、月明かりもない。まさに真っ暗闇だ。

 風が強くなったのか、雨が窓ガラスを叩く音がいっそう大きくなる。昼からずっと激しい雨が降っていて、雨に打たれる前にこの部屋を見つけられたのは幸運だった。


 僕が今いるのはとあるマンションの最上階の一室だった。そこそこ大きなマンションだというのに、僕が訪れた時には誰もいなかった。皆死んだか感染者と化したか、そのどちらかなのだろう。いくつかの部屋のドアは開け放たれ、室内は荒らされていた。略奪されたという感じではなく、室内で何かが暴れ回ったかのようだった。


 念のため鍵が開いていた部屋は中を調べたが、このマンションで動いているものは僕以外に何もなかった。それを確認し、僕は運良く鍵が開いていた最上階の一室を当面のねぐらに定める事にしたのだ。

 この部屋は荒らされた形跡がない。恐らく不用心な住民が鍵もかけずに近くへ出掛けて、そのまま帰ってこなかったといった感じか。どちらにしろドアに鍵がかかり、荒らされていない部屋はとてもありがたかった。


 しかも高いところにあるというのがまたいい、感染者達は高所にあまり注意を払わないからだ。光を外に漏らしたり大騒ぎしなければ、感染者達に見つかる事はないだろう。六階につながる階段も塞いだし、息を潜めて暮らせばここは安全だ。


「さて、と……」


 僕は窓に面したリビングの床に座り、蝋燭の置かれたテーブルの上にリュックの中身を並べた。その中からコンビーフの缶詰と水のボトルを選び、残りは再びリュックに戻した。


「いただきます」


 そう呟いて手を合わせ、缶詰を開く。数ヶ月前なら粗末どころではない、極貧生活のような食事だが、今となっては缶詰も貴重な食料だ。贅沢を言えるほど、物資が溢れているわけではない。缶詰一個を手に入れる為に商店を襲撃する人々もいたほどだ。

 脂っこいコンビーフを時間をかけて味わい、満腹感を少しでも増やそうとする。まだまだ食料に余裕があるとは言え、無計画に消費するわけにはいかない。次にいつ食料が入手出来るかわからないからだ。水は運が良ければマンションの屋上に設置されたタンクの中にまだ残っていて、蛇口を捻れば出てくる事もある。先ほど試してみたが、運良くこのマンションはまだ水が使えた。


 食後は虫歯防止とデザート代わりにキシリトールガムを噛みながら、蝋燭を片手に少しこの部屋を物色してみる事にした。荒らされた形跡がないから、まだ何か役に立つ物が残っているかもしれない。懐中電灯を使わないのは電池が勿体ないからだけでなく、光が強すぎて外から気づかれる可能性もあるからだ。


 まずは当然のように台所へ向かう。冷蔵庫の中身は電気が止まったせいでほとんどがどろどろに腐っていたが、未開封のミネラルウォーターが数本見つかった。

 台所の下の収納スペースからは缶詰が数本と、白米が五〇〇グラム。調味料もあるし、音や臭いに気をつければ久しぶりに文明的な食事が出来そうだ。


 これで目的のほとんどは達成したようなものだが、念のため他の部屋も調べてみる事にした。結果いくつかの工具と乾電池、ライターや医薬品などの使える物が見つかった。医者に診てもらう事が出来ない今、特に医薬品は貴重だ。これらもちゃんと仕分けしてリュックの中に放り込む。


 この家には一家が住んでいたのか、子供部屋があった。勉強机と椅子、本棚に箪笥、標準的な子供部屋だ。クローゼットにはクリーニングのビニール袋に入ったままの学生服がかかっていた。恐らくこの部屋を使っていたのは少年なのだろう、机の上にはテストの解答用紙が散らばっている。


 子供部屋を見て、僕は唐突に昔の事を思い出した。昔と言ってもほんの数ヶ月前だが、その頃は今と違って平和な日々を送る事が出来ていた。こんな世界になるとも思わず、僕はこの部屋の住人のように学校に通い、勉強に苦しみ(僕だけかもしれないけど)、友達と遊ぶ日々を送っていたのだ。

 そう、数ヶ月前までは……。



 いたたまれなくなった僕はリビングに戻り、埃を払ってソファーに横になる。そしてポケットからこの家で見つけたある物を取り出した。

 それは携帯式の音楽プレーヤーだった。とは言っても最新の超小型のそれではなく、随分と古い掌サイズの品である。しかもメモリー内蔵方式ではなく、カセットテープを使うタイプだ。僕の記憶だとこのタイプのプレーヤーが出たのは四〇年以上昔なのだが、きっとこの家の人間は物持ちが良かったのだろう。


 これまた家の中から見つけてきたカセットテープの山の中から一つ適当に選び、イヤホンを装着して再生ボタンを押す。蝋燭を吹き消し真っ暗闇になった部屋の中、明るく軽快な音楽がイヤホンから流れ始めた。

 これまた随分と古い曲を……と思わず苦笑する。確かこの曲はベトナム戦争中に作られた反戦歌で、今でも映画やゲームなどで使われているはずだ。徴兵され戦地へ向かう一般人の気持ちを歌った歌詞で、俺は俺はツイてないというフレーズが頭に残る。


「確かにツイてないよな」


 こんな世界で生き残った僕は幸運だったのだろうか? それとも世界一不幸な男? それはわからないが、多くの人々が後者だと思っているだろう。この世界に絶望し自ら命を絶った人々は、昼間のあの男の死体を始めとして数多く存在する。そして今じゃそれが普通の事と化しているのだ。

 確かに全身を喰われて激痛の中死んでいったり、あるいは自らも感染者の仲間入りをして親しい人々を襲うよりは、幸せな思いを抱いたまま死んだ方がマシという意見もある。僕もそれには賛成なのだが、臆病な事に死ぬ勇気がなかった。そして周りの人々が死んでいく中ずるずると一人生き残ってしまった、それが今の僕だ。


「どうしてこうなったんだろうな……」


 そう呟くと、急に眠気が襲ってきた。昨日からずっと移動しっぱなしだったし、ここのところあまり寝ていない。以前に比べれば無理の利く身体にはなったが、それでも僕はまだ一七歳なのだ。訓練された軍人じゃあるまいし、不眠不休で数日間ぶっ通しで動けるわけではない。


 感染者の事が気がかりだったが、大丈夫だと自分に言い聞かせる。ここは六階だし、明かりも消したから外から見つかるはずもない。多少の物音は雨音が消してくれるはずだし、階段も塞いだ。襲われても脱出する手段がある事は確認済みだ。

 だからここは安全だ。再びそう自分に言い聞かせた直後、先ほどとは比べ物にならないほどの睡魔が押し寄せてきた。ここ数日の事で疲れ切っていた僕は、それに耐えきれず意識を手放した。







『三月七日、朝のニュースをお伝えします。先日からアフリカ各地で発生している暴動に、AU、アフリカ連合は諸外国の支援を求める緊急声明を出しました。……』


 数ヶ月前、世界はまだ平和だった。僕はアフリカのあちこちで激しい暴動が発生し、多数の死者が出ているというそのニュースを、まるで別世界の出来事のように捉えていた。朝の食卓で呑気に食パンをかじりつつ、ああ大変そうだな、などと他人事のような感想を抱いたものだ。そしてそれは僕だけでなく両親も、いやそれどころかこの国の人間のほとんどが抱いていた気持ちだったのかもしれない。とにかくその時、僕はそんなニュースを気にも留めていなかった。




『先日からアフリカ全土を騒がせている謎の暴動は、ついに欧州と南米にも飛び火しました。既に数万人以上の死者を出しているこの暴動は……』


 数日後にこんなニュースが報じられた時も、大多数の人々はまだまだ自分とは無縁の出来事だと思いこんでいたに違いない。事実僕もそうだった。顔も知らない人々が数万人死んでいる事よりも、暴動で株価が大幅に下落している事を心配する、そんな人ばかりだった。心のどこかではきな臭い物を感じつつも、どうせすぐに終わると言い聞かせていたあの頃は、今に比べればまだまだ平和だと言えた。




『アフリカ諸国と南米、欧州を騒がせている暴動ですが、原因は新種のウイルスだという事がアメリカの研究機関の発表により判明しました……』

『このウイルスに感染した人間は理性を失って凶暴になり、他人を襲うというもので……』

『アメリカ大統領は南米で蔓延するこのウイルスの被害を食い止めるため、メキシコ国境の封鎖を指示し……』

『政府も緊急閣議を開き、ウイルスの日本上陸を阻止するための方法を検討に入るとの発表が……』


 さらに数日経って事態がにわかに動き出した時も、まだまだ僕は平然としていられた。勘のいい人間は既に過疎地への避難を始めようとしていたが、両親を含む社会人の多くはいつものように会社に行き、いつものように働いていた。誰もが目の前に迫りつつある危機から目を逸らし、目の前の仕事を片づける事でいつも通りの日常を保とうとしていたのだ。


 空港を発着する便が極端に減少し、経済も大ダメージを受けていたが、僕はその時になっても事態を真面目に捉えていなかった。政府が多くの学校を休校にしようとしたが、入試や期末試験の日程と被っていたせいで教職員達の抗議を受け、結局学校が休みにならなかった時も、友人とその事を残念がる余裕すらあったのだ。


 結局多くの人々がいつも通りの日常を続けようとしていたが、当然それは長くは続かなかった。



 そしてあの日ーーーーーー。



「……!」


 そこで目が覚めた。とっくにプレーヤーは全ての曲を流し終えて沈黙しており、遮光カーテンの隙間からは陽光が射し込んできている。腕時計を見ると既に朝になっていた。目を擦りながら立ち上がり、窓際まで近寄って外を見ると、昨日の雨が嘘のように雲一つない青空が広がっていた。

 イヤな事を思い出していたせいで、下着が汗でじっとりと湿っている。あのまま夢を見続けていたと思うと、僕は少し恐ろしくなった。受け入れたつもりだとはいえ、未だにあの日の出来事は心に傷を残している。その傷が癒える事は、多分当面ないだろう。


 気を抜くと思い出しそうになる過去の出来事を無理矢理意識の外に押し出し、僕は頬を叩いて気合いを入れた。今日も一日、やらなければならない事がたくさんある。

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