ただひたすら走って逃げ回るお話

残念無念

プロローグ

 腕の上を一匹の小さな蜘蛛が這っていた。学生服の上を我が物顔で這い回る小指の先ほどの小さな蜘蛛。以前なら悲鳴こそ上げないものの、舌打ちして振り払っていたはずなのに、今では何も感じない。蜘蛛よりも不快で嫌悪感を催すものなら、道路の端にいくらでも転がっている。


 僕は隠れていた藪の中から、少し顔を出した。道路を挟んだ場所には住宅が並んでいたが、休日の昼間だというのに道を行き交う人影はない。僕が今いるこの公園にも、遊んでいる子供は一人もいない。街全体がしんと静まりかえっていた。

 あらかじめ拾っておいた掌に収まるほどのサイズの石をポケットから取り出し、僕はしゃがんだ姿勢のまま身構えた。狙いは目の前に並ぶ住宅の一つ、二階建ての一般的な民家だ。


 ブロック塀の向こう、モルタルの壁を狙って思い切り石を投擲する。石は空中に綺麗な弧を描き、ガッ! という音と共に壁にぶつかった。静まりかえった街に衝突音が鳴り響き、その瞬間僕は藪の中に伏せる。手入れされる事のなくなった公園の藪は伸び放題になっており、僕一人くらいなら余裕で隠れられるほどだった。

 今の時代不用意に音を出すのは自殺行為だったが、これは仕方がない事だ。まだいくらか余裕があるとはいえ、物資も乏しくなってきている。ここらへんで家の一つでも漁らないと、後々困る事になるだろう。多少の危険はやむを得ない。


 地面に伏せてから五分が経った。近くに感染者・・・がいるのならばとっくにワラワラと集まってきている頃合いだが、やはり道路上には人っ子一人見えない。石を投げた家の中に生存者がいたのなら突発的な音に怯え、閉じこもってしまっているかもしれない。あるいは感染者に見つかったと思って外へ逃げ出すか。

 家の中に誰もいない事を祈りつつ藪から出る。さっきまで腕を這っていた蜘蛛は、いつの間にかどこかへ行っていた。



 石を投げた家の敷地内に、表から堂々と入っていく。感染者がいたのならこうやって見晴らしのいい通りを歩き回る事は自殺行為に等しいが、付近にいないのなら大きな音を立てない限りいくらでも動き回っても構わない。

 庭は手入れされなくなって久しいらしく、びっしり生えた雑草が膝の辺りまで伸びていた。通りに面した窓の雨戸は閉じられていない、家の中に人がいるのならば絶対に雨戸が閉められているはずだ。だからたぶん、この家には誰もいない。


 窓からそっと室内を覗き込む。畳が敷かれた部屋の中には誰もいない。ちゃぶ台といくらかの雑誌、それと開封された缶詰が転がっている。動きはない。

 それを確認すると、背負っていたリュックの中からガムテープを取り出す。窓ガラスの鍵の周りにまず十時にテープを貼り、クロスした部分を中心にもう二枚ほどテープを重ね合わせる。四枚の重なったテープは、ケーキを八等分したような形に貼られていた。


 そして腰のベルトにぶら下げていたバールを手にすると、窓ガラスに貼られたテープを軽く叩く。二、三度小突いてから、少し力を加えてバールのLの字になった先端部分を窓に叩きつけた。

 ビシッという音と共に窓に蜘蛛の巣状のヒビが入ったが、それらが粉々に砕ける事はなかった。あらかじめガムテープを貼っておいたので、ガラスが割れる時もあまり音が立たないし破片が床に落ちて騒音をまき散らす事もない。


 ガラスが割れた時は思わず周囲を見回してしまったが、当然の事ながら誰かが近づいてくる気配もない。僕は粛々と作業を進める事にした。

 ガムテープを剥がすと割れたガラスの破片がくっついてくる。それを地面に置き、革製のグローブをした手の上に、さらにリュックから取り出したタオルを巻いた。腕が完全にカバーされている事を確かめてから、そっと窓ガラスの穴から手を突っ込み、内側の鍵を手探りで捜し当てて捻る。ロックが解除され、僕は窓を開けて土足のまま室内に上がり込んだ。


 まるで泥棒のような手口だが、実際僕もこれから泥棒をするのである。オブラートに包んで言えば、「生き延びるために必要な行動」だろうか。まあやっている事は泥棒そのものだが、もし誰かが僕の行為を見ていても非難する事はあるまい。だってその誰かも、きっと僕と同じ事をしているに違いないのだから。


 部屋の中には何かが腐る臭いが漂っていた。散々嗅ぎ慣れた肉の腐臭ではない、食べ物が腐る臭いだ。部屋の片隅に空き缶がいくつか転がっているので、異臭の元はそれだろう。

 室内をざっと見回し、誰も何もいない事を改めて確認する。もっとも安全が確保されたのはこの部屋だけなので、家中回って他の部屋も調べなければ安心して物資を漁る事も出来ない。

 床に転がる空き缶の中に未開封の物はないかと期待したが、やはりそうそう都合よくはいかないらしい。少なくともこの部屋には食べられそうな物は何一つない。ちゃぶ台の上に使えそうな懐中電灯が置いてあったので、それだけはリュックの中に突っ込んでおく。


 障子を開けて廊下に出た途端、異臭が鼻についた。まるで公衆トイレにいるようだ。イヤな予感がするので、僕は音を立てないようにして異臭が強くなる方向へと進んでいく。


 廊下をしばらく進んだ先には二階へ通じる階段があり、視線を上げた僕の目に異臭の源が映った。


「ああ……」


 先ほどから漂う異臭の源、その正体を僕は目にしてしまった。

 階段の途中で何かがぶら下がっていた。眼球が飛び出そうなほど目は見開かれ、口からは膨張した舌が突き出した三〇代と見られる男の首にはビニール紐が巻き付いている。紐の先端は二階の手摺りに結ばれておりーーーーーー。


 当然、男は死んでいた。


 適当な場所が無かったのだろう、二階の手摺りに紐を結んで一階へと飛び降りたらしい。首を吊って死んでいる男の身体からは排泄物の異臭が漂ってきている。以前誰かから「首吊り自殺をすると、全ての穴から色々なものを垂れ流す事になる」と聞いた事があるが、どうやらその話は本当だったようだ。

 だがその死体を見ても、僕は何の感慨も沸かなかった。ああまたか、そんな感じでさっさと片づけられる光景。数ヶ月前なら考えられない事だったが、もはや死体は見慣れたものの一つでしかない。それにもっと凄惨な状態の死体も何度も見たし、それに比べれば五体満足で残っている分この死体は綺麗な部類だと言える。


 「何故死んだ?」とは思わない。理由は考えなくてもすぐにわかる。この男は夢も希望もありゃしないこの世界から、一足先におさらばしたのだろう。自分が生きたまま身体を喰われるか、食料が無くなり飢えて死ぬかのどちらかの未来しかないのなら、男の判断は賢明だと言える。事実多くの人々がこの世界に絶望して自殺したのを僕は目撃していたし、男も死者の仲間入りをした、それだけの事だ。


 この家を見るに男が一人暮らしだったとは考えられない。おそらく家族と一緒に暮らしていたのだろうが、死体の腐臭は漂ってこない。男の死体がここにあるので一家心中したとも考えられないから、家族は男を残して死んだか感染者になってしまったようだ。


 葬式は出してもらえそうにないな、と僕は男の死体へ心の中で言った。この数ヶ月坊さんと葬儀社が大忙しになりそうなほどの死者が出ているが、最後に葬式を見かけたのは一ヶ月前だ。それも単に穴を掘って死体を投げ込み、少しばかりお別れの言葉を述べてガソリンをかけて燃やす。そんな粗末な物でしかない。お坊さんも葬儀社の社員もとっくにいなくなってしまっている。


 ……と、いかんいかん。さっさと家の安全を確保して、物資を調達しないと。死人の事なんか考えている暇はない。

 悪趣味な照る照る坊主といった感じの首吊り死体を放置し、僕は一階をくまなく調べた。この家に住んでいたのは男だけのようで、他に住民は見あたらなかった。


 台所を探してみたものの、食料は一切合切残っていなかった。それこそ調味料に至るまで、である。きっと死んだ男が全て食べ尽くしてしまったのだろう。それも自殺の一因なのだろうか。

 一階では未使用の乾電池数本といくつかの工具しか見つけられなかった。これでは労力に対価が見合っていない、まあいつもの事だけど。

 仕方なく二階へ向かう。台所のある一階に食料が無かった以上二階に行っても意味はなさそうだが、一応確かめておかねばなるまい。今はほんの僅かな物資でも貴重なのだ。


「うぉわっ」


 階段を半ば塞ぐような状態でぶら下がる男の死体の脇を通ろうとした瞬間、突然ビニール紐が切れて死体が床に落下した。男の死体は頭から階段を滑り降りていき、そして止まる。人間なら病院送りになっているところだが、死体なので無問題だ。おそらくビニール紐が重さに耐えきれず、徐々に切れていたのだろう。まったく驚かせやがって。


 死亡し全身の筋肉が弛緩した際に垂れ流されたと思われる汚物を踏まないように気をつけ、二階に上がる。片っ端から部屋を見て回ったが、やはり人はいない。死体も下で転がっている一つだけだ。


 最後の部屋の襖を開くと、線香の臭いが漂っていた。天井付近の壁には先祖のものらしき遺影がいくつか掲げられ、仏壇がある。

 お供え物は何かないかと罰当たりな事を考えてしまったが、当然ながら何もなかった。仏壇に置かれていたライターや蝋燭を頂いて下に戻ろうとしたが、何だか気まずくなって、一本だけ線香をここの家の人々に備える事にした。ライターで火をつけて台に差し、とりあえず手を合わせる。

 そしてお供え用の皿ともう一本の線香を手に、僕は階段を降りた。そして床に転がっていた男の死体の側に皿を置き、そこへ火をつけた線香を置く。これで火事にはならないだろう。


「成仏してくださいよ」


 そう言って手を合わせた。今頃天国も地獄も死者で溢れかえっていそうだが、そこのところは考えないようにする。

 死者の事を考えるのは無駄だと思っていたのに、やはり僕は数ヶ月前までの平和なあの日々を忘れられないようだ。死者を大切に扱う習慣、今じゃそんな事何の意味もないのに。



 結局得られた物は少なかった。僕は先ほどとは違って玄関から堂々と外へ出ていく。通りにはやはり人影は見あたらない。

 さっさと別の場所と今夜の宿を探さなければ。昨日まで隠れていた場所は既に感染者達のテリトリーのど真ん中に飲み込まれてしまったし、かといってそこら辺の家に隠れるわけにもいかない。感染者に発見されにくい安全な場所、それが今一番必要なものだった。


 空も灰色の雲に覆われ始めている。じきに雨が降るだろう。片手が塞がるし動きが鈍るから傘は使えないし、かといって雨に打たれっぱなしでは風邪を引いてしまう。医者達はとっくの昔にあの世に行ってしまったし、薬だって薬局が略奪されてからは入手しづらくなっている。少しの病気でも大事になりかねないので、不健康には常に気を配らなければならない。病気や怪我をして動けなくなっても、誰かが助けてくれるわけではないのだ。

 僕はリュックを担ぎ直し、誰もいない街を走り始めた。

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