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「そこまで言わなくてもいいじゃないですかー!」
井坂は悔しさのあまりか、小川をポカスカ殴り始めた。止めをさしたのは僕だった気がするけど、怒りの矛先は小川に向いた。まあこの際いいか。
予想していなかった攻撃に「こら、やめろっ」と小川もたじたじになり、いよいよ井坂・小川劇場の第二幕が始まりそうだ。それだけは勘弁していただきたいので僕は仲裁に入る。
「井坂、もうやめておくんだ」
「だって小川さんが、おがわさんがっ」目に涙をたたえ、その涙をこぼすまいと必死に目元を拭いながら、彼女はまだ拳の乱打を止めそうにない。
なんだこれはいったい。君ら周りを見てみろ。視線の冷やかさを感じてよ、早く感じて。この視線で僕はもう凍えそうなんだよ。男女三人が集まって、女の子が泣きじゃくっていれば、園児が見ても修羅場と認識するから。頼むから。
「ほら小川、君も謝って」僕は毅然とした姿勢を続ける。
「ぐう。なんだか釈然としないのは気のせいか……井坂、悪かったよ言い過ぎた」
小川のしぶしぶの謝罪に理性を取り戻したのか、井坂はぴたりと静止し、と思えば、数十秒前の痴態がいきなり照れくさくなったのか、それを隠すようにスカートの裾を直したりしていた。
「…こちらこそ。取り乱してすみません」居どころが悪いのか、顔を見られないようにして前髪をいじくっている。涙が出るほど悔しかったのか、かゆみを止めるように目を押さえている。
これがいつものパターン。子供か、お前らは。と、つくづく思う。こと、小川との喧嘩になると井坂の精神年齢は著しく低くなる。まあだいたいは小川のせいだから、それはそれで不憫だけど。
何かの折にまたしても劇場が開幕しないよう、僕はとりあえず井坂に水を向けた。
「ところで井坂、君は【己の眼を疑うとき】って、どんなときだと思う?」
「えっと、えっと。そうですねえ、“私の眼は何を見ているの!?”ってときじゃないですか」
真面目にそう答えた彼女に、僕は不覚にも笑みがこぼれた。なんだよそれは……確かに自分の眼を疑っているけど。謎解きに気を取り直したのか、とりあえず機嫌は良くなったようだ。小川にも聞こう。
「小川はどうだ?」
「うーん、おれは視力が悪いから眼鏡をかけるけど、黒板の板書が見えにくくなったら“また眼が悪くなったか?”って自分を疑うけどな」
「なるほどね。確かに自分の眼を疑うときって、そういうことが多いかもしれない」
「小川さん、最後に視力検査に行ったのはいつですか?」
「眼鏡を新調した日だから……二年前だな」
「けっこう昔ですね。視力検査って視力が悪くなったかな、と思ったら行くものなんですか?」
「いや、そういう人は珍しいんじゃないか。おれみたいに眼鏡を買うときとか、あとは健康診断の一部に組まれてたりとか」
「そうなんですね。私幼い頃から視力が良いんで、あまりやったことないんですよ」
いま僕は、この二人の会話をぼうっと、ただ聞いていた。
なんだ、この、引っかかるものは。なにかがおかしいと、自分の中に確信になりかけていることがあった。
この二人は放っておくと雑談になるから困る。もはや暗号のことも忘れているんじゃないか?
しかし、井坂は視力が良かったのか……何度か眼鏡をかけた姿を見た記憶があるけど、あれは伊達だったのか?
【己の眼を疑うとき その欠けたものの意味を知るだろう】、この一文が解ければ答えは出る。二人の会話を思い出すんだ。
小川は眼鏡を新調した――視力が悪くなった――視力検査に行く――
――視力検査!?
頭の血流が全速力で走る。頭上に出ているような感覚でいた閃きの芽が花開いた 。
「分かったあああ!!」
瞬間、周囲の注目を浴びるくらいの大声が出てしまっていた。無意識に立ち上がり、拳を天に突き付けて「そのまま空へと向かうのですか?」と聞かれたら「いえ、違うんですよ。そういうのじゃないんです」という受け答えになりそうなポーズをとっていた。こんなぐだぐだと雑念を思い起こしているのは、とかく恥ずかしいからです。席についている唖然とする二人を見ると、なおのこと。
「小川、井坂――“双子の木”に行くよ!」僕は半ば強引に食堂から二人を連れだしたのだった。
キャラに似合わないことをして気まずい空気を作ってしまった食堂からそそくさと退場し、僕たちは5分程歩いた先にある“双子の木”に向かっていた。その道中、「もったいぶらずに教えろよ」と小川に急かされるが、僕はもう一つ確認しなければならないことがあった。
僕は井坂に何気なく話しかける。
「最近眼が痛くて、たまらないよ」
「ん、大丈夫ですか先輩? なぜ痛いんです?」
「あれかな、最近ワンデイを使って二週間ぐらい経ってるからかな」
「せせせせ先輩、それは無謀すぎますよ! それならツーウィークを付けたらいいじゃないですか」
「だよねえ」と僕は目をこすりながら笑った。
取り留めもない会話をしているうちに“双子の木”の目の前に到着した。4月にもなればずいぶんと日も長くなっていて、黄昏時を迎えそうだけど外はまだ明るい。構内はまだ学生の活気が残るが、ちょうど木の下には人がいなくて、僕たち三人だけだった。
木の下に着いた僕たちは、誰からするでもなく三人とも大木を仰ぎ見た。
「ご立派」と評せざるを得ない貫禄を、二本並び生える杉の木は持っていた。このキャンパスで三年間学生をやっていたけど、ちゃんと意識を向けてみたことはなかった。屋内にこもっているだけじゃあ損をしてしまうこともあるのかもしれないな、などと思ってしまった、そんな珍しい自分の感情にも驚いた。
――それもこれも、井坂が持ち込んだ「暗号」がきっかけなことは明白だった。
「さあ着いた! もう教えてくれてもいいよな。なんで“双子の木”で、それでいて“左の木”なのか!」
僕は食堂から出て、あのとき閃いた考えを二人には話していなかった。天高くそびえる木の幹に手を付き、僕はゆっくりとした動作で推理をもったいぶる。「早くしろ」と急かす小川を一瞥し、僕は推論を述べた。
「最後の文の解読は、君たち二人の会話で閃いたんだ」
「私達の会話ですか?」
「会話なんてたくさんしてきたぞ?」
「閃いたのは、あの視力検査の話。あそこで花が咲いた」
「花?」小川が苦虫を噛んだような顔をする。いかん、これは関係がなかった。
「ごめん、花は関係ない。まず最初の暗号解読は小川の推理で合ってると思う。【それらより 過去と未来を見よ】っていうのは、最初の二行からカコとミライを見つけること。だから“彰”の字もあえて間違えていた。そして唯一無かった【コ】の文字、これは【欠けたもの】を示している。問題だったのが【己の眼を疑うとき】っていう文、これがまさに――視力検査のことだよ」
「視力検査って、もちろん、あの右とか上とか言うやつだよな?」小川は人差し指を立てながら、右、上と指を向ける。
「そうそうそれそれ。最近は機械に目を当てながらやったりするけど、昔は壁に貼ってある検査表を使ってやってたよね。なあ小川、この【コ】の字、視力検査でよく見る記号に似てない?」
「え、【コ】の字がか?」
「そう、もっと角を丸くして見てみて」
「角をまあるく……あ! まさか視力検査で使う“左”の意味の!」
「気付いたな! あの英語の“C”を逆にしたような記号。つまり【己の眼を疑うとき その欠けたものの意味を知るだろう】の文は、視力検査のときになれば分かる記号だってことだ。そしてこのキャンパスで“左”をさす場所と言えば“左の木”ってわけさ」
「凄いぞお前!!」小川が惜しみない拍手をくれる。
「こんな木の上にお宝を隠すなんてことは無理だと思うから。きっと木の下にでもあると思うよ。じゃあ井坂、悪いけど用具室からスコップを持ってきてくれない?」
井坂は「あいあいさー!」と敬礼の真似事をして颯爽と用具室に向かった。
――数分後、井坂は小さな三角スコップを持ってやってきた。
礼を言い、それを小川に渡して彼女は固唾を見守る。
小川は木の周りをある程度の深さまで掘り進めた。
あと数十センチで木の周り一周を掘り終わってしまう、なにか目ぼしいものが出てくるわけでもなく、「お宝」は一向に現れない。
ついには周りすべてを掘りつくしてしまった。
「無いぞ!? お宝が無いぞ!」小川はわざとらしいほど狼狽する。
「そんな……僕の推理は間違っていたのか」
その時である。
「そんなはずありません!」突如、井坂が木の下まで寄ってきて辺り一面を確認する。さっきまで緊張した面持ちだったにも関わらず、この慌てふためきぶりは、もう「犯人」を表しているようなものだった。
「どうしたの井坂? なんで君がそこまで焦ってる?」
「え、いや、その……」俯きながら彼女は呟く。
「井坂、これは全部君が考えて仕組んだものだろう?」満を持してそう言うと、彼女は顔をあげてはっと目を見開いて、また俯いた。「どこで気付いてましたか」
「薄々変だなとは思っていたよ。暗号も地図も掘り出された割には状態がいいし。その疑惑を確信に変えたのは、僕たちが“左の木”に行くときに話した君との会話」
「え? あの先輩が目を痛めてるって話ですか?」
「そう。僕はあのとき目が痛いって話をして、ワンデイが二週間経ってるって言ったね。でも僕は“コンタクト”とは一言もいってなかったんだよ?」
「あ」と言いながら口に手を当てる。なかなかどうして愛嬌のある間抜け面だ。
「“ワンデイ”って聞いてコンタクトをすぐ連想できるのは、やっぱりコンタクト利用者だからだ。それにその後、君はツーウィークとも言ったね。幼い頃から視力がいいと君は言ったけど、最近は視力が落ちてきたんじゃない? 実際、小川と小競り合いをしていたときに眼鏡ケースも鞄にあった。やけに目をこすったりしていたのは、きっと君が最近コンタクトを付け始めたんだと思う。それで視力検査をして今回の暗号を思いついた。そしてそのお宝ってやつが」
「これだな」
そう言うと小川は着ていた厚手のパーカーから、ガチャガチャのカプセルのようなものを井坂に見せつけた。
「あれー! なんで小川さんが!」大きい目をさらに大きくして彼女は驚く。
「お前がスコップを取りに行っている間に大急ぎで見つけ出した。まあ明らかに土が掘り返されている跡があったから、そこまで時間はかからなかったけどな」
「さあ井坂、どういうことか説明してもらおうか」
別段、僕たちは怒っているわけではない。むしろこの探偵ごっこのような推理は面白かったし、ちょうどよい時間潰しにもなったわけで。
ただまあ、井坂がここまで計画して僕たちに何かをさせたことは知り合って初めてのことで、小川も僕も、ただならぬ予感は感じていたのだ。
しばしの沈黙のあと井坂は口を開いた。「何もかもお見通しですね。さすがです、先輩方。そのカプセルはまだ開けてないみたいですね。開けてみてください」
木の下から掘り出したカプセルは、彼女と一緒に中身を確認しようと思っていたのでそのままにしておいた。小川がカプセルに貼られていたテープを剥がし中身を取り出す、出てきたのは折りたたまれた紙で、僕も小川の顔に並んでその広げた紙を見る。
合格です!
さすが私の見込んだ先輩方。
これを持ちまして、私達三人は「東文探偵倶楽部」を発足します。
紙には井坂の字でこう書かれていた。「東文探偵倶楽部」……?
小川が「なんだこれは!?」と叫んだと同時に講義の始まりを告げるチャイムが鳴った。いつの間にかだいぶ時間が経っていたようである。
気付けば井坂はすでに走り出していた。相変わらず逃げ足の速さだけは随一である。「せんぱーい! 東文大の名誉にかけて、いろんな謎を解きますよー!」
後ろを見ながら走っているせいか危うく通行人にぶつかりそうになる。前を向いてくれ、前を!
さて、隣の小川を伺えば、疲れたように目を閉じ大きくため息を吐いたが、その顔はうっすら笑顔がにじみ楽しそうである。
実際、僕も今までにない充実感と高揚感に戸惑っているのだ。
「じゃあ僕らも行こうか?」
「そうだな」
春の訪れを感じさせる薫風が、さわさわと‟双子の木”の葉を揺らす。
それはまるで、僕たちの背中を押すように吹いていた。
ベルベッソンの挑戦状 ー東文探偵倶楽部の緊急事態― 七色最中 @nanairo_monaka
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