3
今を信じる者
勲彰を集める物
それらより
過去と未来を見よ
己の眼を疑うとき
その欠けたものの意味を知るだろう
ベルベッソンの足元より
小川と井坂は、すでに僕を差し置いてこの「暗号」と謳う文章の解読に着手していた。もっぱら井坂は小川の隣でふんふん、と鼻を鳴らしているだけだが、相槌を打つだけでも思考の整理には一役買っているのかもしれない。
致し方なくではあるけど、僕もとりあえず考えてみることにした。手始めに、手元の本書から自分のキャンパスノートに暗号を書き写す。さて、どこから手を付ければいいだろうか。
井坂がやって来てから、かれこれ30分は経過していた。まだまだ講義への時間には余裕を残してはいるが、時間だけ空費していくのは面白くない。なにか糸口が欲しい。僕は誰に向かって言うでもなく呟いた。
「やっぱりこの【過去と未来を見よ】っていう文が解く鍵だと思うんだけどなあ」
その直後のこと「あ」と言ったまま口を半開きにしているのは小川である。
「どうしたの?」
「なあ、この暗号、最初の二行にカタカナがいくつか入っていないか?」小川は紙面に指をさしながら言葉を続ける。
「“今”の中にカタカナの【ラ】が。同様に“信”の人偏は【イ】だ。それから“勲”には【カ】が入ってる」
小川の説明通り、僕も漢字に目を凝らせば確かに見えてきた。しかもその文字は【ラ】と【イ】と【カ】。
いきなり糸口が現れた。なるほど、この複数の文字が隠れていたとうことは、つまりあの文章がさらに際立ってくる。
そう聞いた井坂も暗号の紙を手に持ち、紙を近づけたり離したりピントを合わせる動作をしている。「本当だ! 小川さん凄いです!」その確認の仕方で分かるとも思えないのだけど、井坂はやや大げさなぐらい驚いていた。
「小川、そうすると“彰”の漢字はやっぱり?」
「ああ、この“彰”の漢字はわざと間違えている」
「どういうことです!?」井坂は首をずいと突き出し疑問をぶつけた。机に広げている紙類に被って非常に邪魔である。
井坂の顔面をずずいと押しのけながら僕は説明した。
「この“彰”の右側はカタカナの【ミ】として見るんだよ。向きは逆で無理があるかもしれないけど、これを【ミ】として読めば、今までのものと合わせると【ミ】【ラ】【イ】。それから【カ】だ。あと残るのは……分かるね井坂?」
彼女はすぐさま、「ミライとカ……未来と過去の【コ】ですね!」と清々しく答えた。
「だけどな、その【コ】だけが見つからない」
小川は眉間にしわを寄せ、そのしわをつまみながら言う。
確かに僕もさっきから【コ】の文字を探しているけど、どの漢字にも【コ】に見えるような部首や造りが見つからない。
「“己”の上半分とかは見えなくもないか? いや、でも今までの一致加減から、これは無理があるか」と、自分で自分を納得させるように小川は呟く。
どの漢字にも【コ】はない。そうするとどうなる? 解読の糸口がすぐそこまで来ている予感が、薄々だが僕にはあった。 【コ】は見つからない。とらわれるな、視野を広げるんだ、全体を把握するんだ。
僕はもう一度暗号を読み返す。
今を信じる者
勲彰を集める物
それらより
過去と未来を見よ
己の眼を疑うとき
その欠けたものの意味を知るだろう
その欠けたもの――
僕は頭頂部から植物の芽が生え出た感覚になる。閃きの種が、とてつもないスピードで脳内に根を張って、頭蓋骨を突き破ってぴょろんっと芽を出した。
やっぱり【コ】は文の中に無い、【コ】は欠けたものだ!
僕は一つの可能性を口にする。
「小川、【コ】はどこを探しても見つからない。【コ】は暗号の中の欠けたものじゃないかな?」
「ん……ああ、なるほど。うん、うん! 確かにそう考えれば、次の文に繋がる。よし、その線で考えてみるか!」
「おおー! 先輩方、勢いづいてきましたね!」井坂は机の端で「がんばれー」となにやら分からぬ小躍りをしている。彼女はもはや暗号解読の戦線を離脱しているようだ。
「そうなるとあとは【己の眼を疑うとき その欠けたものの意味を知るだろう】か、己の眼を疑うってどんなときだよ!」
小川は紙を勢いよく机に叩きつけた。
確かに小川が芸人よろしく突っ込みたくなる気持ちも分かる。「己の眼を疑う」とは、いったいどんな状態だ。
例えば、小説なんかでは驚天動地の現場に遭遇した主人公が、「己の眼を疑った」なんてセリフを使うかもしれない。
「事実は小説より奇なり」とはいうけど、そういう「奇なり」な場面が日常には少ないからこそ、使われる言葉ではないか。なんなら毎日飽きもせずボードゲームしかしていない僕たちにとって、己の眼を疑う瞬間なんてものは、そうそう訪れないではないか。
次のステージに入ったと思っていたが、さっそく行き詰まりを感じている。
しかし、こういうときに焦ってはいけない、ということは念頭に置いている。焦燥は勝てる試合を駄目にする。なにが悲しくて男二人で行われているのか、ほとんど刑務作業に近い小川とのボードゲームだけど、これだけは勉強になったかもしれない。焦りは禁物。
ふう、と息をついて小川を伺えば、地図の方を確認していたようだ。
「なあ、少し気になっているんだが、この地図に書かれているキャンパスの垣根、これ【コ】の字に見えないか?」小川は地図を僕にも見せてきたが、歯切れはそこまで良くなかった。
「確かにそう見えるけど、そんなまさか」
「まさかだよな。悪い、変なことを聞いた」
「わっかりましたよ先輩方!」
井坂は突然大声をあげ、僕と小川の肩をがしがし揺らす。興奮しているのか握力が女子とは思えないほど強い。ちぎれそうだ。
僕は彼女の腕を振りほどいて訊いた。「井坂、分かったの!?」
「はい! つまりこのキャンパスの垣根沿いにあるんですよ!」
「え?」と、僕と小川は同時に見事なハーモニーを奏でた。そんなまさか、と小川でシンパシーを取ったのは、まさにこのことだった。キャンパスをぐるりと囲う垣根沿いが正解だとしたら、あまりにお粗末。そこが正解だとしても、非力な僕と小川では、この郊外に広く立地したキャンパスを歩き回ることは、もはや
「で、す、か、ら~、【コ】の字は、もうお宝のありかを示していることは明白じゃないですか。そして地図には、どこをどうしても【コ】の字にしか見えない垣根が描かれていますよ!」
えっへん、と最後まで自らの主張に自信を付与させてきた井坂だった。が、ちらと横目で小川を確認すると――おや、わなわな身を震わしている。
これは井坂にいたずらをされすぎたときに、叱りつける前のやつだ。井坂もそれには気付いたようで、身をこわばらせている。別に今回はいたずらをした訳じゃないけれども。
あのな井坂、と前置きをして小川は口を開いた。
「こんなだだっ広いキャンパスの垣根沿いだったら、あまりにも答えの範囲が広すぎるし、何より【己の眼を疑うとき】って文はどうする? 暗号の答えだったらもっと指定された場所にするよな。違うか? ん? 違うのか?」
小川は身振りも大きく彼女を論破せんとしている。「な、違う?」と小川は笑顔で井坂に迫って、まるで小姑が嫁をいびる姿を見ているようだ。哀れな井坂、今にも泣きだしそうにしている。
よしそこらで止めをさそう。
「井坂、却下みたいだな」僕は慈悲なく告げた。
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