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正方形のテーブルに三人で座り、井坂は自らが「暗号」と呼ぶものについて、手に入れたいきさつを話し始めた。
井坂はサークルの友人と来月の写真展覧会に向けて、学内の至る所を撮っていたようである。この暗号が書かれているという薄汚れた紙切れは、その時に発見したと言う。
僕らが通うこのキャンパスは都心から外れたやや田舎にあり、そのお陰あってか私立のわりに構内は広い。キャンパスには様々なスポットがあるけど、その一つがある“銅像”だ。キャンパスの北に位置するその銅像は、新校舎ができたせいもあって旧校舎の裏にひっそりと佇んでいる。
「で、その暗号は銅像の足元で見つけたんです」
井坂はその銅像の周りで撮影をしていたのだが、ふいに銅像が立つ台座の周辺が汚れていることに気が付いた。さすがは写真研究会ということか、観察眼は人並み以上のようだ。
気になった彼女らは辺りをよく観察し、どうやら台座の前の土が掘り起こされているのではないかと見当をつけ、遊び感覚で掘ってみると古びた缶が出てきて、中にはこの紙が入っていたという。
まとめるとこんなところだった。
「確かその銅像は、ベルベッソン・フローレンだったな」右手で顎のラインを確かめるようにして、小川はうなる。彼が長考するときの癖である。
「そうです。この大学が創立した当初、特別講師として外国から招かれた人です」
また裏を返すようだが、井坂はこう見えて、講義や課題などには比較的良い姿勢を取っている学生だった。僕も彼女と同じ講義をいくつか受けていたことがあるけど、今どきの学生には珍しく前方の席で熱心にノートを執っている姿を見かけていた。
「僕も知ってる。たしか全学分野の講義で出てきた」
講義で聞きかじったことを僕は思い出す。ベルベッソン像は直立しながら左手は斜めに空へ向けており、右手には辞書のような分厚い本を抱えている。
「この大学の教育理念に大きく関わった人で、あの銅像のポーズで左手の指す方は未来を、右手に持っている書物は過去を象徴しているとかなんとか……」
「そんなようなことが台座の説明文に書かれていた気がします」
「それで井坂、例の暗号とやらはこれか?」
先ほどまで夢中になっていたオセロのこともすっかり忘れているようで、小川は机に広げられた紙から目を離さない。
「はい。それに書かれているものだと思います」
机に広げられた紙面には、筆で書いたと思われる端正な字体でこう書かれていた。
今を信じる者
勲彰を集める者
それらより
過去と未来を見よ
己の眼を疑うとき
その欠けたものの意味を知るだろう
ベルベッソンの足元より
「おお。生きていて初めて暗号を読んだ気がする」小川はやや興奮気味だ。紙を持つ手を大げさに震わしている。
かくいう僕も何食わぬ顔で小川の後ろから覗き込んでいたのけど、読んでいる最中は息をのんでいたみたいで、深く空気を吸い込んで落ち着きを図った。
ふう。いったいなんだこれは?
「そうでしょうそうでしょう! 私も暗号だと知ったときには驚きましたよ。でも先輩、缶の中にはもう一枚入っていたんですよ……」
井坂がもったいぶるようにショルダーバッグから取り出そうとするので、小川がこらえきれずに鞄に手を突っ込んだ。「わっ、乙女の神聖な道具入れになんてことするんです!」「うるさい。お前のドヤついた顔がイラつくからだ! それと乙女は鞄に茎わかめなんていれないんだよ」「なんで私のおやつを!」
暗号が書かれた物と似たような紙を鞄から取り出し、いつの間にか井坂のおやつという茎わかめをほおばっている小川。他にも手元には教科書、文庫本、眼鏡ケース、折り畳み傘……と彼女のプライバシー的な物たちを露わにしていく。すり師に弟子入りでもしてたのかな、こいつは。
わたしのくきわかめー、あーんせんぱーいどうにかしてくださいくださいくださいーおがわさんいじわるしてきますよーせんぱーい、隣で井坂が僕の肩を揺らす。うるさすぎる。
「返してやりなよ小川」
「仕方ない、ほら井坂。そんでもって、これは学校の見取り図だな。新校舎がないってことは昔のやつか」
「図はそうみたいです」井坂はそっけなく答え、人質のわが子が返ってきたように茎わかめを抱きしめている。「はあ良かったねえ、悪い人だねえ、あの人」
そんな愚痴をこぼす井坂に対して「おれはいま少しでも頭にエネルギィが欲しいんだ。それをぜんぶ費やしてもいいと思うんだよな……」と小川の目が怪しく井坂をとらえた。
「ひい、先輩!!!」と井坂は脱兎のごとく僕の後ろへ隠れた。うるさすぎる。
「分かったから分かったから、僕にも見せてくれ」
小川から受け取った紙は、最初の「暗号」と同じく所々土で汚れたような跡があった。汚れてはいるものの、描かれていることは難なく確認できる程度だ。
まず目に飛び込んだのは「コ」の字型の図である。
こちらも同様に筆と墨を使っているようで、テイストとしては水墨画に近い。
図の左端には波線が上から下に向かって引かれいた。「コ」の字は、紙の上辺・右辺・下辺をなぞるように描かれている。恐らくは大学を囲う塀を表していると思われた。そうすると左端の波線は、キャンパスに隣接する人工林ではないだろうか。
この東文大学には農業科学部という学部を設置しており、その林は学生が実習などで使用している。現在は小動物たちが入ってくることと、土砂崩れなどを防ぐ最低限の工事はされていて、それ以外は建設当初と変わっていないと聞いた。
「これはベルベッソン像か」
見取り図の中央を指さして小川が確かめる。筆で描かれているため、姿形は潰れてしまっているが、左手を空に指している人型はベルベッソン像と断定してしまっていいだろう。
また、それを挟むようにして二本の大木が荒々しく並んでいる。これは学生の通称・双子の木だと思う。大学創立時に植えられた杉の木で、現在は立派に成長し「左の木」「右の木」と呼ばれる待ち合わせ場所になっていた。
「私には絶対このキャンパスにベルベッソンが残した宝があると思います。先輩二人を見込んで、この暗号を解いてくださいっ!」
「お、お宝?」突拍子もない提案に僕は慌てた。なぜいきなりお宝に結び付けるのか、いろいろと段階を飛ばしている。
「お宝か……任せておけ!」
なんだか日常から外れた単語の登場で、皆気が急いているようだった。僕はささやかな反論をする。「いや、待て小川、まずこれが暗号なのかどうかも怪しいじゃないか」
「なに言ってるんですか先輩、暗号に決まってますよ」
「そうだぞお前、今回だけは井坂が正しい」と僕の肩に手を置き、なぜか僕が諭される側になっていた。
「いやいや、いっかい待っ」
「さっそく気になることがあるんだが、この暗号の“勲彰”って漢字、“彰”の字が間違ってないか? 正しくは“勲章”だと思うけどな」
こいつ、話を聞く耳さえ持たないようだ。加速度的に話が進んでいて、小川はすでに謎解きの態勢に突入してる。
しかもすでに違和感をキャッチしたみたいで、さすが国文科というべきか、日本人さえ間違いそうなところに良く気付く。でもベルベッソンは外国人だし、このぐらいならささいなミスのような気はするな。それとも意図的なものなのか……
この際、僕も腹をくくるしかないようだ。しばし一考してみようと思う。
しかしながら、僕が分かるベルベッソンのことは、教育理念の「過去と未来を見よ」っていう一文をベルベッソンが考えたということぐらいである。
暗号らしきものにも書かれているけど——ああ、こんなことなら講義を真面目に聞いておけばよかった。
果たしてこの「暗号」、いったいなに……?
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