ベルベッソンの挑戦状 ー東文探偵倶楽部の緊急事態―

七色最中

 それは冬の寒さも峠を越えた、4月のことである。


「やられた。もう一回」


「もちろん、受けて立とう」

 

 大学三年生の僕は、午後の講義までの時間を潰すべく学生食堂の片隅でオセロをしていた。

 学生食堂というと料理は五〇〇円以内で購入できて、味については可もなく不可もなく、古けた校舎に横長のテーブルと椅子が並べられている簡素なものを想像するのではないか。

 ところが僕が通うこのキャンパスは、講義棟の地下ワンフロアすべてが学食となっている。見渡してみれば和食・中華・パスタ・カレーなど、異国情緒溢れる店舗が営業されていて、一番適切な例えを挙げるとすれば、郊外のショッピングモールに併設されるフードコートだ。むしろそこに引けをとらない規模で、各々がしのぎを削っている。

 毎日終業ぎりぎりまで活気に溢れているけど、朝一の講義が終わったすぐであればさほど混んでいない。なにより料理を受け取るカウンターから一番離れたこの席は、高確率で空いていた。

 断続的に食器がふれ合う硬質な音がしている。時おり沸き立つ男子のはしゃいだ声や、時間割を一緒に決めている新入生の微笑、サークルで行っている打ち合わせなど、せわしなく活動をする学生たちの動きの中に、僕と小川は身を置いていた。


 また、学食といってもそこは食事をするスペースだけでなく、良識のある範囲で学生の自由が許されていた。お昼のピーク時は満席に近い状態になるが、その規模と席数の多さゆえ回転率も良く、学食でオセロなどたわけたことをしていても立ち退きを命じられたことはまだ、ない。

 そんな自由を育てる校風に甘えて僕はボードゲーム――今日はオセロをしているのだけど、先ほどの第一ゲームですでに白旗を上げてしまっていた。


 目の前ですまして笑うこの男、同じ東文大学に通う友人の「小川」。せっかくの青春をボードゲームばかりに費やしている、もはや不遇と呼んでもいい時間を過ごしている男。

 そして彼は、僕が入学して初めてできた友人でもある。


 友人となるきっかけとなった日については、記憶に薄っすらとした靄がかかっているみたいで、あまり思い出せない。

唯一かすかに覚えていることは、小川が僕に向けた一言。

 入学して二か月以上も一人でいる僕に、「同じにおいがする」と声をかけたきたことだ。そのときの小川の目元は、どんよりと影をさしていたような気がする。

 後から聞いた話だが、「もう友達がいない学生生活になるんじゃないかと落ち込んでいたんだ」と、彼もまた当時の友達づくりについては苦労していたようである。


 そのときの僕の気持ちは、もう思い返すこともできないけれど、多分嬉しさ半分怖さ半分だったに違いない。僕も慣れない大学生活に狼狽していた頃だ。

 小川はぴんと皺ひとつない白シャツをいつも着こなしている。大きな二重の目を隠すように黒縁眼鏡をかけていて、たくわえた顎髭は清潔感を損なわぬように手入れされていた。見た目はほど良く爽やかな男だった。

 そんな男に脈絡もなく話しかけられたのだから、なにやらよからぬ思想を説かれるのかと警戒していたとも思う。


 結局、付き合いは一年以上になるのだけど、交友関係についてはお互い依然として広がりはないようで、小川が持ち込んでいるボードゲームの対戦相手は必然的にこの僕になる。

 男二人がぶつぶつと食堂の隅でにらみ合う様は、不遇さも倍々になって目も当てられない。


 とにもかくにも、僕は一戦目の負けを返上すべく意気込んでいた。そんな時である。だだっ広い食堂に快活な女性の声が聞こえた。


「せんぱーい! 緊急事態でーす!」


 声の方を見てみると井坂千波が小走りでこちらに向かってくる。腕をあげて勢いよく左右に振っている、その手には大きさA4ほどの紙が握られていた。


「井坂か、久しぶりに見たな」小川は彼女を一瞥するとオセロの駒を並べはじめた。


 井坂千波は僕と小川の後輩だ。正確には「元」後輩かもしれない。


 彼女とは二年生の頃に小川と二人で試しに入った、写真研究会というサークルで知り合った。

 だが二年生の中途半端な時期に入ったこともあり、すでに出来上がっているグループと打ち解けることも難しく、なんとなく自分らの居場所に気まずさがあったことを覚えている。さらにはことあるごとに集会をかける面倒さが追い打ちをかけて、僕と小川は半年も経たず写真研究会を辞めていた。それが元という理由。


 僕たちはサークルを辞めてはいるが、しかし未だに井坂とだけはなぜか懇意にしている。


 サークルに入会していた期間、一度だけ参加した写真展の打ち上げのときに、僕と小川は自らが九州出身ということを話題にした。井坂は身を乗り出すほどに興味を示し、そのまま九州の楽天的で自由奔放なノリが彼女自身しっくりきたように見えた。


 長い黒髪には軽くパーマがかかっていて、特徴的な二重は九州出身の僕より九州っぽい。丸い輪郭がおだやかそうな印象を与えるが実際はその反対で、歯に衣着せぬ物言いで天真爛漫おてんば娘の彼女を見ると、初対面の人は必ず驚くのである。僕も驚いた。


 井坂から来てくれるのであれば、僕たちも無下にする理由はない。

 写真研究会とのいきさつも彼女自身気にしていないようなので、気を遣わず先輩をやっている。


「やっぱりここにいましたか。緊急事態なんです先輩方!」駆け寄ってきた井坂は腰に手をあて、なぜか偉そうである。「ここで会ったが百年目ですよー」と泣きまねをして、目をこすっている。


「いや、使い方が違うし、しかもお前から来ただろうが」さっそく国文科の小川が洗礼を浴びせた。


「そうだね、しかも井坂の緊急事態はいつもだし。また、レポートの締め切りが~とかだろうね」僕は小川の白を二枚ひっくり返す。そう、彼女の緊急事態は日常茶飯事だ。


「違います違います! とにかくこれを見てください!」彼女は手に持っていた紙をお構いなしに盤面に押し付けた。駒は入り乱れて、ゲームもあったものじゃない。なんてことをするんだ、井坂千波。僕のリベンジマッチはどうするのだ。


「なんてことするんだ井坂!」小川が僕の心を代弁してくれた。しかし悲鳴のような叫びにも、井坂はそれさえお構いなしだ。


「小川さん、オセロばっかりやってないで私の話を聞いてくださいよ」


「うるさいうるさい、ちゃんとマネージャーを通してからにしてくれないと!」


「マネージャーなんていないじゃないですか! いいですか、この紙に書いていることは——暗号なんです!」


 その言葉が出た瞬間、小川は沈黙し、訝しそうに彼女を睨む。いつもの井坂小川劇場を見ていた僕も「暗号」という常識外れな単語が気になった。


「暗号ってなに、井坂?」僕はそそくさとオセロを片付けながら言う。


 珍しく彼女は声のトーンを落として「実は……」と、いきさつを話し始めた。

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