下層の人々

「まずは服だな。ああ、手錠は片方つけたままにしておきな。その方が何かと役に立つ」

 助言通り右手に手錠を残したまま、クリフ改めノッポは、明かりを持ったククが先導する道を歩く。ノッポの後ろではVとチビがワイワイと騒いでいた。

 こんな状況でさえなければ平和な光景なのにな。振り向きながら場違いな感想を抱いていると、前方に張り出たパイプに頭を思い切りぶつけてしまった。

「何やってんだノッポ」

「そうだぞノッポ。緊張感が足りないな」

「……ノッポ」

 三者三様の反応を返され、ノッポは頭を押さえて赤面した。

 曲がり角を抜けるごとに通路は徐々に広くなっていく。緩やかな傾斜は徐々に厳しくなり、ついには階段になっていった。一人通れるのがやっとだった道幅も段々と広がり、ちらほらとすれ違う人も出始めた。

 そうして進んでいくと、大きく開けた場所へと出た。

 軍警の詰所のあった空洞と同じように天井は無く、しかしそれ以上の規模でその場所は広がっていた。

 まずむせ返るような人の匂いを感じた。汗や、土、何かが腐敗する匂い。細い水路に汚水が流れる音。人々が行き交う通りにはバラックが所狭しと並び立ち、店主たちが声を張り上げて呼び込みをしている。少し裏道に目を向ければ、足を投げ出したまま動かない人間が何人もおり、ゴミ捨て場と思しき場所には子供たちが群がり、食べ物を探している。

 叩きつけるような人のあり方に、ノッポは圧倒され立ち止まっていた。

「こんなところに街が……」

「どんなところにも人が流れてくれば街はできるさ。おら行くぞ!」

 掃き溜めの街、イーストエンド。

 街の人々はノッポたち闖入者をじろじろと見つめ、声をかけようと近づこうものなら露骨に避けられ、道を譲られた。そうかと思えば、ボロ布一枚を身に着けたような老人に声をかけられる。

「旦那、旦那。お恵みを」

「お恵みを」

 数人の老人に囲まれているノッポを、ククは無理矢理に助け出した。

「無視しな。どうせスリの連中だ」

「そんな」

「身ぐるみ全部剥がされたいなら止めやしないがな」

 バラックのはるか向こう側には、場違いなほど巨大な建造物が建っていた。剥き出しの鉄骨、巨大な歯車、太いワイヤー。

「ああ。あれが例のエレベーターだ。あれに乗って下層の奴らは上に脱出するんだ」

「ど、どうやってだ!?」

「決まってるだろ。金さ」

 ククは片手でコインの形を作った。

「いくら厳重な警備だといっても、しょせん守ってるのは人間だ。金を積まれりゃ通しもするさ」

 あの先に中層がある。つい昨日まで住んでいたはずの場所なのに、今のノッポにはひどく遠い場所に思えた。

「おい、ノッポ」

 ぼんやりとエレベーターを見上げるノッポの背中を、ククは乱暴に叩いた。

「嫌でもその内戻れるさ。上の、層にな」

 振り返らないままククは上を指さす。

 ノッポは少し恥ずかしくなって俯いた。

 自分はそんなに悲壮な顔をしていただろうか。こんな子供に心配されるぐらいに。

「クク。その、ありがとう」

「……ハッ」

 そうして案内された先はみっしりと服の詰め込まれたバラック小屋だった。店員がいるところを見ると、どうやら古着屋のようだ。

 店の前で服を運ぶ青年に、ククは片手をあげて声をかけた。

「よお、アシル」

「あっ。姐さん! 姐さんじゃないっすか!」

「うるせえぞアシル。何騒いで――なんだククか!」

 店の奥から姿を現したがたいのいい店主の男も、ククの姿を見た途端、破顔した。

「はっはっは、聞いたぞ。また軍の奴らとやりあったんだってな。まったく元気なこった」

「ドニのおっさんも元気そうでなによりだよ」

 陽気に笑いながら二人は抱きしめあう。

「で、頼みなんだが」

 店主の男はノッポたちを上から下までじろじろと見つめた。

「……上の層の人間か?」

「訳ありだよ、ほら」

 ククはノッポの右手を掲げてみせた。かけられたままの手錠がじゃらじゃら音を立てる。

「そうか。若いのに難儀なこったな。ま、ここも悪かねえ土地だ。住めば都ってやつさ。ガッハッハ!」

「そういう訳だ。下層らしい服を見立ててやってくれ」

「任せな。一等みずぼらしい襤褸を見立ててやるよ!」

 今まで着ていた服ははぎ取られ、労働者然とした古着を着せられる。上着は見た目通りごわごわで肌が痛かったし、木の板のように固い靴も叩いて変形させてやっと履けるような代物だった。

 Vも同様に労働者風の服装に着替えさせられ、古ぼけたハンチングを被らされていた。Vはしばらくそのまま物珍しげに帽子をいじったりしていたが、急に何を思ったのか店の外に出ていってしまった。

「待て馬鹿、チビ、V!」

 ふらふらと歩いていくVたちを追って、ノッポもは雑踏の中に消えていく。

 会計を済ませ、店の奥からククたちが出てきたのはその後だった。

「すすんで厄介者を背負い込むなんざ、お前も大概お人よしだな」

「……フン」

「ところで肝心のあいつらはどこだ?」

 ククはきょとんとした後、辺りを見回した。どこにも三人の姿はない。

「ああ? あいつらどこいきやがった!」



「な、なんてすばしっこいんだ……」

 Vとチビの背中は、あっと言う間に人込みに紛れ見えなくなってしまっていた。

 ノッポは息を整えながら、改めて辺りを見渡した。

 相変わらず労働者や鉱夫たちが行き交う雑踏。だけど襤褸をまとっているだけでまるで世界が変わったようだった。不審なものを見るような目は消え失せ、どうした親友、調子はどうだ親友、と馴れ馴れしく声をかけてくる者までいる。

 ここの住人は服装で人を判断しているのだ。下層の仲間か、それ以外かを。

 ノッポは苦々しい気分になって顔を顰めた。上にいる頃はこんな場所があるだなんて考えたこともなかった。身なりの少しでもいい男性を目ざとく見つけてはすり寄っていく女性がいる。物乞いの老婆が道端に座り込んでいる。あるいは死んでいるのかもしれない。中層にも労働者はいた。だけどこんな劣悪な環境ではなかったはずだ。

 下層はただ下層があるだけで、こんな中層では考えられないほどの貧困が広がっているだなんて知らなかった。

 いや、知らなかっただけでは済まされないだろう。自分たち上の層の人間は、きっと彼らの貧困を土台にして暮らしていたのだから。

「何やってんだ! 使えない奴だな!」

「ご、ごめんなさいっ」

 何かをひっくり返す音。続いて怒声、打擲音。物思いにふけっていた思考は現実に引き戻される。

 見ると、まだ十歳ほどの幼い少年が店主と思しき男に頬を張られたところだった。道行く大人たちは一瞬何事かと立ち止まったが、すぐに目をそらし、そそくさと立ち去っていく。少年は涙をこらえ、何度も謝罪の言葉を口にする。一発、二発。そうしている間にも店主の男の暴力は続いていく。

 ノッポは思わず、二人の間に割って入っていた。

「お、おい、やめろ!」

「ああ? なんだ兄ちゃん。何か文句でもあんのか?」

 男は指を鳴らして威圧する。ノッポは後ずさった。

「こっ、子供相手だぞ。そこまで殴らなくたっていいだろう」

「ああ? こいつが使えねえのが悪いんじゃねえか、なあ?」

 男の問いかけに答える者はいない。周囲の人間は皆一様に顔をそらし、何も答えなかった。

「だからって……」

「ったく、うるっせえ野郎だな! だったらテメエが代わりに殴られてみるか!?」

 男が大きく拳を振り上げる。

 ノッポは咄嗟に少年を抱きしめ庇っていた。


  *


 雑踏。白い肌。整いすぎた顔。粗末な服。帽子の下からのぞく透き通るような金髪。肩に乗せた竜。賑やかな会話。軽やかな歩調。奇異の目。

 Vは立ち止まり、必要もないのに深呼吸する。

「人間」

「はいはい。オマエは本当に人間が好きだな」

 チビは帽子の上によじ登り、大あくびをした。Vはそんなチビを両手で掴んで、抱き上げる。

「V」

「ん?」

「Vって、呼んで」

「なんだなんだオマエ、名前貰えたのがそんなに嬉しかったのかようアハハ」

「V」

「ああ、悪い悪い。Vだな。ちゃんとVって呼ぶさ」

「チビ」

「そうだぜ。オレはチビでオマエはVだ」

 下層の住民たちが二人を避けて歩いていく。遠く上方にぼんやりと見える陽光よりも、すぐ近くに吊るされた白熱電球のほうがずっと眩しい。

「ここがオレたちの新天地だぜV。どこへ行くのも何をするのも自由だ。あの狭苦しい研究所からは考えられないよなあ」

 Vは黙って頷いた。

 通りの向こうがにわかに騒がしくなったのはその時だった。

「なんだノッポじゃないか。何やってんだアイツ」

 帽子の上で背伸びをした竜がVに伝える。Vは人混みを縫って駆け出した。

「だったらテメエが代わりに殴られてみるか!?」

 ノッポが少年を庇う。男の拳が勢いよく振り下ろされ――拳が二人に当たる寸前、Vは片手でそれを受け止めた。

「あ? なんだテメ……」

「暴力、よくない」

 Vは右腕を大きく引くと、男の腹に抉りこむようなボディーブローを叩きこんだ。


  *


「この馬っ鹿野郎が!」

 あなぐらに戻って早々、ノッポはおもいっきりククに頬を張られた。

「お前はアイツを助けて満足だろうがな! あれでアイツは仕事を失ったんだ! お前が、アイツから、食っていくための仕事を奪ったんだぞ!」

「……あんなところで働かないほうが正解だ」

「何ぃ?」

「あんな、子供に手を上げるような奴のところで働かない方がいいって言ったんだ! だっておかしいだろう! どんな労働者だって子供は大人に、親に守られるべき存在で、あんな、あんな風に虐げられるものじゃないはずだ!」

「その親がいねえんだよ俺たちには!」

 ククの叫びに、あなぐら中がしんと静まり返った。

「いいか、ノッポ」

 ククはノッポの胸倉を掴んだ。自然とノッポは屈む姿勢になる。

「どんなに辛くても苦しくても、生きてさえいればいつか上の層にいける。そう信じて俺たちは生きてんだ」

 二人は視線を合わせ、睨みあう。

「アイツらの、夢を、奪ってやるな」

「……」

「テメエらを街に出すのはまだ早かったな」

 突き飛ばされ、ノッポは尻餅をついた。彼を見下ろして、ククは冷たく言い放つ。

「明日からテメエらはゴミ拾いだ」


「なあそんなにへこむなよ。こっちまでみじめになるだろお」

「……ああ」

 頭の上に陣取ったチビが、ノッポの頭をぺしぺしと叩く。

「初日から大失敗したってよ、次の日から取り返せばいいじゃねえか」

「……ああ」

「なあおいオレの話聞いてるか?」

「……ああ」

 チビの小さな腕だけでなく尻尾でもぺしぺしと叩かれながら、ノッポは机に突っ伏していた。

 ククは正しい。ちゃんと兄弟たちの先々のことまで考えて、行動しようとしている。あの街で子供が仕事を得るのは容易ではないはずだ。仕事をさせてもらえて、しかもちゃんと給金を払ってくれるようなところなら尚更だ。それを一時の正義に酔った俺がぶち壊してしまった。

 ククは正しい。間違っているのは俺の方だった。

「ノッポは、まちがって、ない」

 顔を上げると、すぐ横に同じように顔を机につけてこちらを見るVの姿があった。

「ぼくは、そう思う」

「……ありがとな、V」

 そのままの姿勢で手を伸ばしてVの頭を撫でてやる。Vは目を閉じてされるがままになっていた。

「あ、あの……」

 三人にあてがわれた部屋の戸口から声がかけられる。声の主の姿を見た瞬間、チビは彼の目の前まで飛んでいった。

「おー、あの時の少年じゃないか! その怪我大丈夫か?」

「は、はい。ちゃんと手当もしたので……」

「そうかー。ごめんな、大事になっちまってよ。どうしたんだ? 何か用があって来たんじゃないのか?」

 あの時の少年、店主に殴られていたあの少年は、いまだ半ば机に突っ伏したままのノッポに向き直った。

「えっと、あの、助けてくれて、ありがとうございました!」

 深く頭を下げる少年。きょとんとしたままのノッポを置き去りにして、少年は話し続ける。

「ククさんの言いたいことも分かるんです。きっともっといい手段があったんだって。……でも、ありがとうございます。助けてもらえて、僕は嬉しかった」

 少年は嬉しそうにはにかみながら俯く。ノッポは泣き出してしまいそうになるのをこらえた。

 そんな彼らをよそに、Vは少年に歩み寄って、彼の手を取った。

「V」

「え?」

「ああ、コイツの名前、Vっていうんだ。んでオレがチビ。でかいのがノッポだ」

「ノッポじゃない」

「なんでだよノッポじゃねえか」

 チビの視線が少年に注がれる、少年は慌てて自己紹介をした。

「えっと、僕はシリルです」

「シリルか! なあシリル、今度またああいう大人にいじめられたらな、遠慮なくこのノッポを頼るといいぜ! コイツ多分馬鹿だから何度だって助けてくれるだろうよ」

「言い方は気に食わないが……、約束する。せめて俺がいるときは、俺を頼ってくれ」

 無責任な言葉だとはノッポも自覚していた。だけど不思議と、これで間違っていないという気分にもなった。後先考えない一時の感情であろうと、正しいことには違いはないはずだ。

 シリルは戸惑って視線を泳がせた後、まだ傷の癒えない顔でくしゃりと笑った。

「はい、ありがとうございます。ノッポさん」

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