下
×××
空がだんだんと暗くなっていく。
僕は森の出口へと走る。
オルドヌングはひとりでさっさと飛んで行ってしまったけれど、今回は僕一人でも迷わずに出口へと向かうことができた。
この前のように、心配しきったミルト姉さんが森の外で待っているということはなく、星がちらほらと見え始めた空の下、見た目よりもずっと軽いフルーフの本を持って家まで一目散に走る。
グリュックに本を預かってほしいと頼んだけれど、意味がないからと言って断られてしまった。私が預かったとしても、この本は必ず持ち主のところへ戻ってしまうだろうから、意味がない、と。
グリュックの言っていることが、一体どういうことなのかよくはわからなかったけれど、とにかく断られてしまったからには持ち帰る他ない。
できればミルト姉さんには返したくないけれど、どうやって本を捨てるように説得すればいいのか、途方にくれてしまう。
いい考えが浮かばないまま家まで帰り着いてしまった。
真っ暗な家の中に向かって、ただいまを言う。
でもミルト姉さんから、お帰りなさいの返事はない。
家中の明かりをつけ、全ての部屋を見てまわったけれど、ミルト姉さんの姿はなかった。
買い物にでも行っているのかな? それとも、もしかしたら僕のこと捜しに行っているのかも。
ここでミルト姉さんの帰りを待つか、それとも捜しに行くか、悩んでいると呼び鈴が鳴る。
ミルト姉さんかもしれないと思って大急ぎでドアを開けると、そこに立っていたのは近所の世話好きなおばさんだった。
おばさんは僕を見るなり大げさに胸を撫で下ろしてから怒った顔になり、こんなに長い間どこで何をしていたのかと問い詰めてくる。
僕は面食らって、なんのことかと尋ねた。
おばさんはますます怒った顔になり、一週間も家に帰らないで、村中があんたを捜していたんだ、今までどこほっつき歩いてたんだい、と声を荒げる。
……一週間?
僕は驚いて、再度なんのことかと尋ねるけれど、おばさんはもう聞いていない。顔を真っ赤にして叩きつけるように言葉を連ねる。
あんたのお姉さんも随分と心配していたんだよ、ケンカしたそうじゃないかい、私のせいだと言って思い詰めた様子で、あんたを必死になって捜していたのに、森へ捜しに入ってそれっきり消えちまった! あんたがようやく帰って来たっていうのに、こんなタイミングで魔女が出たんだ!
魔女、という単語とグリュックの顔が僕の中で重り、カッと頭に血がのぼった。
僕はフルーフの本を両腕できつく抱いて、おばさんを押し退け駆け出す。
暗い夜道を、フルーフの森へ向かって。
フルーフの森にある、グリュックの家へ向かって。
視界の悪い中、ろくに足元も見ずに走ったものだから、僕は何度も転んだ。身体のあちこちに擦り傷をつくりながら、気ばかりが焦る。
来たばかりの道のりのはずなのに、僕は早々に方角を見失った。真っ暗な森は行けども行けども、見知らぬ不気味な所にしか思えず、サンザシの木のある場所にはなかなかたどり着けない。
それでも僕はがむしゃらに走った。
走って走って、そしてなにかに足をとられて転んだ。
立ち上がろうとすると、今度はなにかに強く押されて地面に倒れてしまう。驚いて半身だけを起こし、周囲を見渡すけれど、誰かがいるのかいないのか、真っ暗過ぎてよくわからない。
「誰かいるの?」
グリュックかもしれない、と思った。
人の寄り付かない森に、しかもこんな時間にいるのは、森に住んでいるグリュックくらいだと思った。
でも同時に、グリュックじゃないような気もした。グリュックはたぶん、こんなことしない。
僕の問いかけに答えるように、シャンシャンと不思議な音が辺り一面に溢れる。
――ダレカイルノ? ダレカイルノ、だって!
――まぬけなニンゲンだわ。森にはワタシたちがいると決まってるのに!
――まぬけなニンゲンは連れて行こう!
――このまぬけなニンゲンも、さっきのニンゲンと一緒に連れて行こう!
リンリンと鈴を転がすような、かしましい声が闇から浮かび上がるようにして聞こえてくる。すごく嫌な感じだ。
僕はすがるように腕の中の本をきつく抱きしめた。
「さっきの人間……それって、ミルト姉さんのこと?」
闇に向かって、ぐっと腹に力を込め、声が震えないように注意しながら問いを投げかける。
でも、返ってきた言葉は全然別のことについてだった。
――あらあら、このニンゲン、フルーフの本を持ってる!
――あの本はグリュックにあげたはずなのに!
――まぬけなグリュック! またおっことしたんだ!
×××
どんなに目を凝らしても、真っ暗闇しか見えない。
でも、そこかしこにナニカがいる気配がする。
まるで、夜の森それ自体が意思を持っているかのように、辺り一面からじわりと敵意がにじんだ。
――グリュックの本を勝手に持ってるなんて、悪い奴に決まってる。
――ワタシたちがグリュックにあげた本を勝手に持ってるなんて、嫌な奴に決まってる。
――悪い奴! 嫌な奴!
――グリュックの本をかえせ!
――カエセ!
――カエセ!!
突き刺さるような敵意に囲まれて、気が遠くなりそうだった。
でもここで逃げ腰になれば二度とミルト姉さんに会えなくなるような気がした。
「お前たちこそ、ミルト姉さんを返してよ!」
闇を睨み付けながら声を張り上げる。
――まぬけなニンゲンのくせに、ワタシたちの言うことが聞けないの? ナマイキだわ!
――悪い奴! 嫌な奴! ナマイキな奴!
――こいつもフルーフと同じ目にあわせてやる!
――フクロウに変えてやる!
――違う、フルーフはカエルにしてやったわ。
――違う違う、フルーフは野ウサギにしたんでしょう?
――コウモリでしょう?
頭がくらくらとしてくる。
てっきり僕は、グリュックが魔女なんだと思いかけていた。だからきっと、話せばわかるはずだと、ミルト姉さんを返してほしいと一生懸命お願いすれば、グリュックならきっと返してくれるはずだと、そう思っていたのに。
こいつらが魔女の正体だったんだ。
おとぎ話に出てくる魔女は、フルーフでも、ましてグリュックでもない。
姿の見えないこいつらのやったことが、いつの間にかおとぎ話の中でフルーフという魔女のせいにされていたんだ。
ミルト姉さんは無事だろうか?
どうすればこいつらからミルト姉さんを取り返せるのだろう?
僕は、どうすればいい?
不意に、なにかが足首に触れて情けない声が出る。
ちぢれた葉っぱが不自然にわさわさと揺れて、僕の足首を撫でていた。
――キャア、気味の悪い小人が来たわ!
――ああなんて気味が悪い!
――ああなんて不快な奴!
膨れ上がっていた敵意が気の抜けた炭酸みたいにゆるんでいって、周囲にあったナニカたちの気配が一つ、また一つと消えていく。
すっかり気配が消え去ると、ちぢれた葉っぱは揺れるのを止めてしまった。
僕は立ち上がり、周囲を観察してみる。
静まり返った夜の森は不気味だけど、落ち着いてじっくりと見回せば、全く知らない場所というわけでもないのがわかる。いくつかの目印を見つけて、ここが森のどの辺りか確認すると、少し冷静になれた。
「助けてくれて、ありが……あれ?」
足元のちぢれた葉っぱにお礼を言いたかったのだけれど、目を離した隙にいなくなっている。
木々の間から、大きな月がやわらかい光を投げかけてきて、僕とフルーフの本を照らし出した。月光に答えるみたいにフルーフの本が淡く発光して、表紙の真ん中に咲くにわかに赤い色のチューリップが、闇の中にぼんやりと浮かび上がる。枯れた植物も、アジサイの花も、表紙から消えてなくなっていた。
「行かなきゃ」
フルーフの本をしっかりと抱え直し、僕は走った。サンザシの木の近くにあるグリュックの家へ向かって。
グリュックなら、きっとなにか知っているに違いない。
グリュックの家に近づくにつれ、背中がざわざわと粟立った。
それでも走り続けてサンザシの木の所まで来ると、リンリンと鈴を転がすようなかしましい声が聞こえてくる。さっきの奴らだ。
僕はあわてて側にあった木の幹に身体を押し付け、息を殺す。
――グリュック、何をしているの!
――ここはワタシ たちの通り道だよ!
――グリュック?
――ねえ、グリュックったら!
木の陰に隠れるようにしてそっとグリュックの家に近づくと、グリュックの家の回りに、ナニカがたくさんいた。あれがさっきの奴らの正体らしい。
獣、ではなさそうだけど、人でもない。でも、見ようによっては人っぽくも見えなくもないし、人の言葉を喋っている。
たくさんのナニカたちに混じって、はっきり人の形をしている者もいた。
人、だとは思うんだけど、どことなく雰囲気が変で、なのにどこがどう変なのか、上手く説明ができない。僕はよくよく様子を見ようと、木の陰からそろりと身を乗り出した。
人の姿に見える人の一人が振り向いて、身を乗り出した僕を見る。そして、困った顔をする。実際、頬に手を当てて、困ったわと言う。言ったんだと思う。声は聞こえなかったけれど、口がそう動いたから。
それは僕が森から拾ってきたヘンテコなものを見た時の仕草とおんなじで、いつものあのミルト姉さんに違いなかった。
そのミルト姉さんの身体が、透けている。ミルト姉さんの向こう側にある木々が、ミルト姉さんの身体を透かして見えている。
僕は声を上げて、ミルト姉さんに駆け寄りたかった。
でも、ミルト姉さんは首を横に振って、唇に指を当てる。
今ここで飛び出して行ったら、ミルト姉さんを助けるどころか僕もあのナニカたちに捕まってしまうだろう。でも、じゃあ、どうすればいいの?
×××
鈴を転がすようなかしましい声に、一層熱がこもった。
グリュックが家から出てきたからだ。
――グリュック、ひどいじゃない!
――ここはワタシたちの道なのに!
――今すぐ道を開けてよ!
――さあ今すぐに! 今すぐに!
グリュックはここから見てもわかるくらいに青ざめた顔をしている。
「村の人を返してほしいの。返してくれたら、ここを開けますよ」
掠れたグリュックの声は、大きくもないのによく通って、僕の耳にも届いた。
人でも獣でもないナニカたちが、困惑したような、カラコロという声を出す。
――ムリだよ。
――ムリムリ。
――だってこのニンゲンたちはみんなみんな、もうワタシたちのものだわ。
――だってこのニンゲンたちは、ニンゲンの住む場所にはもう戻れないもの。
「まだお隣さんのものでも、戻れなくなってもいない人が、いますよね?」
グリュックがちらりと、ミルト姉さんを見た。
――ムリムリ!
――ムリだわ!
――だってここにいるニンゲンたちは、ワタシたちが連れて行くんだもの!
――だってここにいるニンゲンたちは、誰も取り返しになんて来ないんだもの!
「取り返そうとすれば、大丈夫なんですよね?」
――グリュックにはムリだわ!
――資格がないんだもの!
――他のニンゲンじゃなきゃムリムリ!
――さあ、グリュック。今すぐ道を開けてちょうだい!
グリュックは動かない。
青ざめた顔をして、ミルト姉さんを、そして僕を見た。
「ミルト姉さんを返して!」
ここぞとばかりに、僕は木の陰から飛び出して、ミルト姉さんにすがり付く。
なにかたちの驚いた気配が伝わってきて、僕はますます声を張り上げた。
「ミルト姉さんを返して!」
――ニンゲンだわ。
――取り返しに来たニンゲンだわ。
――まだ食べ物を口にしていないニンゲンを取り返しに来たニンゲンだわ。
――しかも、ワタシたちからニンゲンを取り返す資格があるニンゲンだわ。
「ミルト姉さんを返して!」
離すものか渡すものかと、ミルト姉さんに強く強くすがり付く。あたたかい手のひらが僕の頭をそっと撫でてくれて、僕はこどものように泣いてしまいたい気持ちになった。
――仕方ない。
――連れて行きたかったけれど、仕方ない。
――仕方ないから、そのニンゲンだけ返してあげる。
――さあグリュック、道を開けてちょうだい!
ミルト姉さんの透けていた姿が、元通りの色彩と存在感を取り戻すのを見て取ると、グリュックは家のドアとマドを全開に開け放した。
ナニカたちの気配が嬉々としてそちらの方へとぞろぞろ移動していく。
僕はミルト姉さんにすがり付いたまま、その様子を見ていた。ナニカたちの移動がすっかり終わった後も、しばらくはただただ必死にすがり付き続けた。
頭の上に本が落ちてきて、僕は痛みにしゃがみこむ。
見上げれば、オルドヌングがミルト姉さんの肩に乗り、甘えていた。本を僕の頭の上に落としてきたのもきっとオルドヌングの仕業だろう。
「ノイギーア、助けてくれてありがとう」
ミルト姉さんが僕にほほえみかけてくるけれど、オルドヌングを優しく撫でながらだったから、なんだか釈然としない。
「グリュックさんも、助けてくださり、本当にありがとうございました」
ミルト姉さんの言葉にはっとして、あわてて僕もグリュックにお礼を言う。
グリュックは戸惑ったように視線を下げて、掠れた声で、小さく言った。
「……対価ですから、これは」
対価? なんの対価なの?
僕が口を開くより先に、グリュックは地面に落ちたフルーフの本を拾い上げ、ミルト姉さんに目を向け、強ばっていた表情をわずかにゆるめる。
「でも、こちらこそ、ありがとうございました」
オルドヌングがミルト姉さんの肩から降りて、僕の目の前にふわりと降り立つ。グリュックとミルト姉さんの視線が一瞬、オルドヌングと僕に注がれた。
「私はなにもしていませんよ」
ミルト姉さんの言葉に、グリュックは首を横に振って答える。
「お隣さんに、ちゃんと、立ち向かえたから」
だから、ありがとうございました。
グリュックが頭を下げる。
ミルト姉さんは何か言いたそうにしていたけれど、結局何も言わず、少し悲しそうな顔をしていた。
オルドヌングが鳴いて、僕の方へとにじり寄り、足で僕の指を握る。ぎりりと、かなり強い力で。
あまりの痛みに声を上げると、グリュックとミルト姉さんが驚いたけれど、オルドヌングだけはきょとんとした様子だ。
一度僕の指を離し、もう一度握ろうとする。
僕はあわててオルドヌングから距離を取り、ミルト姉さんの後ろに隠れた。
きょとんとした顔でじーっと僕を見ていたオルドヌングだけど、ふいに羽ばたいて、今度はグリュックの肩にとまる。
グリュックが不思議そうにオルドヌングを見つめ、それからこどもみたいな顔で笑った。
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