中
×××
ミルト姉さんの様子が変だった。
フルーフの森で拾った本をしきりに気にしている。
そんなに気に入ったのならあげると言うと、嬉しくもなさそうに、それでも一応はありがとうと言って受け取ってくれた。
本当はいらなかったのかなと思ったけれど、そうでもないようで、暇さえあればぎこちない手つきで本を撫でたり、ページをめくったりしている。
気に入ったというよりも気になって仕方がない、といった様子だ。
あの本の何がそんなに気になっているのか、僕にはよくわからない。本に触れている時のミルト姉さんの戸惑った顔を見ながら、もしかするとミルト姉さん自身もあの本の何が気になっているのかよくわかっていないのかもしれない、と思った。
あの日以来、森へは近づいていない。
オルドヌングのお土産は庭の片隅に埋めることにして、当分の間はおとなしくしているつもりだ。
もっとも、仮に僕が森へ行ったとしても今のミルト姉さんは気が付かないような気もするけど。
何をするにも上の空で、声をかけても生返事。オルドヌングが近くにいても、前のように微笑みかけたり撫でたりすることはなくなった。
日に日にミルト姉さんが本を眺めている時間は増えていく。真夜中にふと目が覚めてトイレに行くとミルト姉さんの部屋の明かりがついていて、こっそり覗くとあの本を眺めていた、なんてこともしょっちゅうだ。
「その本、森に戻した方がいいんじゃないかな?」
思いきって、僕はミルト姉さんに言ってみる。
ミルト姉さんはいつものように本を開き白紙のページを撫でていて、ちらりとも僕の方を見てくれない。
「必要ないわ」
「でもさ、ミルト姉さん……」
食い下がろうとすると、ミルト姉さんは本から顔を上げた。冷たい眼差しで僕を睨み、温度の感じない声音でつまらなさそうに言った。
「あなたはただ、また森へ行く口実がほしいだけでしょう?」
何を言われたのかすぐにはわからなかった。
ミルト姉さんは本を置き、僕の肩を乱暴に掴む。
「必要ないの。あなたが本のことを気にする必要も、森へ行く必要も、全くないの。それともあなたは、私のこと、困らせたいの?」
違う、と言おうとした。
困らせたいのではなく、ただ心配しているのだと。
最近のミルト姉さんはなんか変だから。
こんなふうに肩を掴んだり、冷たい眼差しをしたり、決めつけるようなものの言い方をしたり、今までのミルト姉さんからは想像もつかないことをする。
どうしちゃったの?
僕は、どうすればいい?
何か言わなくちゃとは思うものの、何を言えばいいのか、うまくまとまらない。
ミルト姉さんの冷たい目を見ていると、だんだん怖くなってきた。ミルト姉さんはミルト姉さんのはずなのに、目の前にいるのが全く知らない人間だとしか思えなくなって、混乱する。
×××
部屋の隅で無関心にくつろいでいたオルドヌングが動いた。羽を広げふわりと滑空して、ミルト姉さんに軽く体当たりする。
ミルト姉さんは驚いて僕の肩から手を離し、忌々しげに腕を振った。手加減なしに大きく振られた腕をオルドヌングは危なげなしに避け、置きっぱなしになっていた本を足で掴み、窓からさっと飛び立っていく。
僕はとっさにオルドヌングを追いかけて外へ走り出た。
ミルト姉さんが背後で何か言っていたけれど、振り返らない。振り返らない、というより怖くて振り返れなかった。
あんなにミルト姉さんになついていたオルドヌングが、あんなにやさしかったミルト姉さんが、どうしてこんなふうになってしまったのか。
その答えが、オルドヌングの持ち去ったあの本にあるはずだ。
大きな本をぶら下げたオルドヌングは、それでも地面を走る僕よりも速く移動していく。
見失わないように必死で追いかけていると、オルドヌングはまっすぐにフルーフの森へと入って行った。
森に入ってすぐ、僕はとうとうオルドヌングを見失ってしまった。それでも、オルドヌングが飛んでいった方角にひたすら走る。また迷子になるかもしれないとも思わなくはなかったが、オルドヌングとあの本を見つけられず、ミルト姉さんが元に戻らなくなることの方がずっと恐ろしかった。
どれくらい走ったのか、見覚えのある場所にたどり着き、立ち止まる。小高く土の盛り上がったところにサンザシの木が生えている、あの本を拾った場所だ。
弾む息を整えながら、僕はオルドヌングと本を求めて周囲に視線をさ迷わせる。
ふと、いい匂いがするのに気が付いた。
こんな森の中で、香ばしい、食欲をそそるような、いい匂い。誰か人がいるのかもしれない。
そんな場合ではないのに、お腹がなってしまう。そろそろお昼の時間だった。
匂いに誘われるように少し進むと、行く手に一軒のこぢんまりした家があらわれる。
こんな森の中に、家?
てっきり森に遊びにきた人がキャンプでもしているのかと思ったけれど、匂いはその家から漂っている。
フルーフの森に人が住んでいるなんて聞いたこともない。じわじわとふくらみはじめた好奇心をなだめて、今はそんな場合ではないと呟く。……でも、もしかしたらこの家の人がオルドヌングのことを見かけたかもしれない。もしくは、あの本の本当の持ち主はこの家の人で、なにか知っているかも……。
僕はこっそりゆっくりと家に近づき、中を覗いてみようと思った。この家にいる人が怖そうな人だったら、またこっそりゆっくりこの場を離れよう。
でも家の壁に張り付いて、マドから中を覗こうとしたその時、家の近くに生えた木の枝にとまるオルドヌングと目があった。
「オルドヌング!」
家の中にいる人に聞こえないよう、小声で呼びかける。
オルドヌングは、来るのが遅いと文句でも言うかのように一声鳴くと、足で掴んでいた本をポイと離した。
木から放られた本がけっこう大きな音を立てて地面に落ちる。
僕はあわてて本を拾うと、家の中の音に耳をすましてみた。もともと中から物音がしていたわけでもないけれど、やっぱり何の物音も気配もしない。
たぶんしない、と思う。僕自身の心臓の音がうるさ過ぎて、正直なところよくわからない。
「……にんげん、ですか?」
掠れた女の人の声だった。
壁に張り付いてい聞き耳を立てていた僕のすぐ隣に、音も気配もなく、困った顔をした女の人が立っていた。
×××
「人間……ですよね。あなたは」
ミルト姉さんよりも年上だけど、学校の先生よりもずっと若い。こんな女の人が、森で何をしているんだろう? それに、なぜそんなわかりきったことをわざわざ聞くのかな?
「僕が人間以外に見える?」
好奇心がむくりと湧いた。
突然隣から話しかけられたから驚いたし、家の中をこっそり覗き見しようとしていたのはばつが悪かったけれど、それよりも目の前にいる女の人のことが気になってしかたない。
怒ったわけでも責めてるわけでもないのに、女の人はなぜか怒られたこどものような、おろおろとした態度になる。でも僕は気にせず、思い付くままに言葉を重ねた。
「僕が人間以外のなんだと思ったの?」
「ここに住んでるの?」
「一人で? それとも他の人もいるの?」
「住んでいるなら、いつから? 僕、何度もこの森に入ってるけど、全然気づかなかった」
「それに、どうして森に住もうと思ったの?」
勢いよくまくしたてると、女の人は気圧された様子でじりじりと後退する。
「ねえ! それから、それからね……」
ぐう、と変なタイミングで僕のお腹がなって、僕と女の人はちょっとの間顔を見合わせた。困った表情ばかりだった女の人が、ようやくちょっと笑ってくれる。
「お腹が減っているのですか?」
囁くような小さな声で女の人が言った。
僕は急に恥ずかしくなって、赤くなりながらも首を縦に振る。
「……あなたの話を聞かせてください。その、出来ればあなたの、その本……フルーフの本、について」
女の人が僕の持つ本を指差した。
「フルーフの本? これが?」
女の人は静かにうなずく。
フルーフって、あのおとぎ話のフルーフのことだろうか?
それとも全く関係ないフルーフさんが作った本ってこと?
それともそれとも、フルーフの本、っていう題名の本なのかな?
……確実なのは、女の人がこの本についてなにか知っているってことだ。
くるくると僕が考え込んでいると、女の人は困った表情で、でもきっぱりと言った。
「私はその対価に、あなたに食事を振る舞いましょう」
僕の現金なお腹がさっきよりも大きくなって、女の人が今度は小さく声を出して笑う。
女の人はグリュックという名前で、森に一人で住んでいるそうだ。
「そうするのが一番いいことだと思ったから」
不思議な香りのするお茶に口をつけてから、グリュックは言う。
「森にいればつらいことや怖いことは起こらない。食べ物も薬草もたくさんあるし、話し相手もいる。外にいるよりも、ずっと、いい」
なんとなく、自分で自分に言い聞かせているような言い方だった。
僕は口いっぱいに頬張った、ほのかに甘い香りのするペラペラしたパンみたいな料理と魚料理を飲み込むと、とても素直な感想を言ってしまった。
「ホントにそう思ってる?」
きょとんとしたグリュックの反応に、僕は内心怒らせてしまったかと思ってあわてたけれど、言ってしまったからにはもう引っ込められない。
「グリュックが森のこと好きなのはわかるけどさ、森にある材料で作った料理もすっごくおいしいし、植物のこともすっごく詳しいし。でも、こんなとこで一人なの、寂しくない? 話し相手が誰なのか知らないけど、たぶん森の外へ出た方がいっぱいいるよ?」
グリュックは首を傾げてめずらしいものでも見るようにして僕を見つめたけれど、すぐに話題を変えてしまった。
「フルーフの本のことを、話してもらえますか?」
×××
フルーフの本は、表紙に白いチューリップと青いアジサイが彫り込まれていて、革で装丁されている大型の本だ。本文は白紙で奥付もない。
「サンザシの木の下で拾ったんだ。それで、そのまま持って帰ったんだけど……」
拾った時は、しおしおに枯れ果てたクローバーが表紙を囲うようにして彫り込まれていて、その中心にのびのびと天を仰ぐ白いチューリップと枯れた植物が彫り込まれていたはずだった。
「ミルト姉さんにこの本を見せたら、いつの間にか表紙にアジサイがあって……」
変化があったのは本の表紙だけではない。
ミルト姉さんにこの本をあげたら、やさしかったミルト姉さんが別人のようになってしまった。
「本を持ち出したフクロウのオルドヌングを追いかけてここまで来たんだけど、」
僕はグリュックに本を差し出す。
「これ、本当はグリュックの本なんじゃない?」
グリュックは僕の目を見て、差し出された本を見て、それからきっぱりと首を横に振った。
「……違うの?」
グリュックの家からこの本を拾った場所はすごく近いし、何より題名も本文もないこの本をフルーフの本と呼んだから、てっきりグリュックの本だと思ったのに。
グリュックは木のコップを口に持っていきかけて、不思議そうにコップの中を覗き込む。そして口はつけずに、コトリと置いた。コップの中身は空っぽだった。
「あなたがその本を拾い、ミルトさんにあげたのでしょう? だったら、今、その本はミルトさんの物です。私の物でも、ノイギーアさん、あなたの物でもない」
責める口調ではなかった。
ただ事実をありのまま、淡々と語っているだけで。
でも、僕はなぜだかグリュックに咎められている気がした。
「……ミルト姉さんが、変なんだ」
嫌な汗が出る。
なにかが間違っているように感じる。そのくせ、なにがダメなのか、なにが正解なのか、まるでわからない。
グリュックは静かに首を傾げて、無言でまっすぐ僕を見る。話を促されているのか、たんに興味がないのか、僕にはわからない。わからない、けれど。
「たぶん、この本のせいだと思うんだ。ねえ、グリュック? グリュックはこの本のこと、なにか知らない? ミルト姉さんを元に戻す方法とか、知っていたら教えてほしいんだ」
「知りません」
グリュックの口調は変わらない。
淡々と事実を述べている、ただそれだけの口調。
「……なんでもいいんだ。どんなちょっとしたことでも。例えば、この本のことをフルーフの本って言ってたけど、それってフルーフの森のおとぎ話となにか関係があるの?」
「……おとぎ話? フルーフの、森?」
怪訝そうに首を傾げて、今度は否定も肯定もしない。
僕はちょっとじれてきた。
「フルーフの森のおとぎ話、知らない? 呪われた魔女が住んでるっていう、あのおとぎ話だよ?」
村のこどもならみんな知っている話だ。でも、グリュックはもう、こどもとはいえないのかもしれない。
僕は、もう何百年も前のこと、から始まるフルーフのおとぎ話をグリュックに教えた。
最後までおとぎ話を聞いたグリュックは、呆然とした様子で一言、それは違う、と囁く。
「フルーフはいたはず、です。でも、フルーフがいなくなったのは教会があの村にできるよりも前のこと、だし、フルーフがそんな酷いことをしたなんて聞いたこともない。だいたい、フルーフを追い出したのは、シンプサマ、じゃなくて……」
僕はグリュックの言葉に驚いた。
だって、あれはただのおとぎ話じゃなかったの?
「グリュック、それホント? なんでそんな何百年も前のこと知ってるの? 調べたの? なんで?」
グリュックの口から、漏れ出すようにナンビャクネンという単語が出る。
「ねえ、グリュック。この本は一体なんなの? フルーフとどう関係があるの? フルーフって一体何者なの?」
「……知りません」
「嘘だ! なにか知ってるんでしょ? 教えてほしいんだ、ねえ、グリュック!」
勢いあまって、僕は立ち上がった。
そして音もなく窓から飛び込んできたオルドヌングに体当たりされて、盛大に床の上に倒れた。
驚いた様子で固まるグリュックと、何事もなかったかのようにテーブルの上に乗って羽の手入れをするオルドヌング。
窓から見える空がすっかり赤く染まっている。
「……大丈夫ですか?」
戸惑ったグリュックの声に、痛みをこらえて大丈夫ですと答え、僕はよろよろと立ち上がった。
「僕、もう帰らなきゃ」
きっとミルト姉さんが心配している。たぶん、心配しているはずだ。
「ねえ、グリュック。お願いがあるんだけど」
グリュックは戸惑った様子のまま、なんでしょうかと掠れた声を出す。
僕は一つ大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
そしてフルーフの本を、グリュックに差し出す。
「この本をグリュックに預かってほしいんだ」
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