フルーフの本

「お願いノイギーア、あまり森へは行かないで」

 ミルト姉さんからは再三言われていた。

 でも、行かずにはいられなかった。

 蛍光色のキノコだとか、奇妙に入り組んだ形の根っこだとか、強い香りのする葉っぱだとか、ヘンテコで面白いものがいっぱいあるんだもの!

 ミルト姉さんは僕が森から拾ってきたヘンテコなものを見ると、いつも困った顔をする。実際、頬に手を当てて、困ったわと言う。

「あの森のよくない噂は、ノイギーアだって知っているでしょう?」

 僕は冷蔵庫からコーラを取り出して、ぐいっとあおる。

 ミルト姉さんは本当に心配性だ。

「もちろん知っているよ。呪われた魔女が住んでるっていう、あのおとぎ話でしょ?」

 村のこどもならみんな知っている話だ。


 もう何百年も前のこと。

 僕らの村にある小さな森に、フルーフという名の魔女が住み着いた。フルーフはとても悪い魔女で、例えば赤子をさらって得たいの知れない薬の材料にしたり、悪魔を呼び出しては夜通し大騒ぎしたり、少しでも気にくわない人間がいると、そいつをカエルに変えてしまったり、それはそれは酷いことをしたらしい。

 やりたい放題の魔女に、ほとほと困り果てた村人たちは、教会に助けを求めた。

 教会の神父様は村人の期待に応え、神のご加護で悪しき魔女をやっつけてくださったそうだ。

 でも小賢しい魔女フルーフは、次の魔女を用意していた。その魔女は村に直接悪さはしなかったものの、森に入った村人を、時折さらってしまう。さすがの神父様も、この魔女には手が出せなかった。だってちらりとも姿を見せないし、さがしても見つからないから。

 何百年も経った今でも、フルーフの森にはその魔女が住み着いていて、時折森に立ち入る村人をさらってしまうらしい。


 こどもを森へ近づけないための、大人が創った幼稚なおとぎ話だ。知ってはいても、誰も信じちゃいない。

 困り顔でミルト姉さんは、でもね、と言葉を続ける。

「でもね、ノイギーア。おとぎ話が本当ではなくても、行方不明になる人がいるのは本当なのよ?」

 もちろん、それも知ってはいる。

 そう広くもないはずの森で、何年かに一度、忘れた頃に人が消えてしまうのだ。大人でもこどもでも、森に詳しいはずの人でさえも。意図的に失踪した人も中にはいたのかもしれない。でも、どう考えてもそんなことしそうにない人も、いなくなっている。事故にでもあったのではないかと森中を捜しても、屍さえ見つからない。

 そんな時、村では『魔女が出た』と噂された。そんな非科学的なこと、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、それ以外には説明がつかなかった。



×××



 オルドヌングはミルト姉さんのことが好きだ。

 フルーフの森で、怪我をして動けなくなっていたのを見つけたのも、その怪我の手当てをしているのも、エサになる小動物を捕まえて捌いているのも、みーんな僕なのに、フクロウのオルドヌングは僕には全然なつかない。

 そんなことないとミルト姉さんは言うけれど、四六時中べったりと側について離れないオルドヌングを撫でながら言うものだから、全く説得力がなかった。


 本当は森にかえしたかったのだけど、怪我が治ってからも、オルドヌングはあい変わらずミルト姉さんにべったりだった。窓が開いていても、狩りの時にしか出ていかない。そして食事が終わるとお土産を持ってミルト姉さんのところへ戻ってきてしまう。

 もちろん、ネズミや小鳥の死骸をミルト姉さんが喜ぶはずもなく、テーブルの上や玄関の前に置かれたお土産を見つけては、ミルト姉さんは悲鳴を上げて涙目になった。


 僕はオルドヌングの目を盗み、ミルト姉さんが発見する前に、こっそりと死骸を森に捨てに行くようになった。ミルト姉さんもたぶんその事に気づいていたんだと思う。

 よっぽどオルドヌングのお土産に参っていたらしく、前ほど口うるさく森へ行くなとは言わなくなった。


 ミルト姉さんが森へ行くことを黙認してくれるようになり、僕は少し気がゆるんだのかもしれない。

 その日、珍しく僕はフルーフの森で迷った。小さな森だから、そのうちに知っている所へ出るさと、のんきにかまえていたけれど、じきにその考えが間違っていたことに気が付く。行けども行けども、知らない風景ばかりで、自分が今、森の出口に近づいているのか、遠ざかっているのかもわからない。

 しばらく歩くと、小高く土の盛り上がったところに、サンザシの木が生えているのを見つけた。

 来たことのない場所だ。

 ここが森のどの辺りなのか全く見当もつかない。

 途方に暮れてサンザシを見上げていると、何か、土や石ではないものを踏んづけた。


 あわてて足を退かすと、そこにあるのは一冊の本だった。

 そこそこ値の張りそうな、革で装丁された大型の本。しおしおに枯れ果てたクローバーが表紙を囲うようにして彫り込まれ、その中心にはのびのびと天を仰ぐ白いチューリップと、何かの花だったのだろう枯れた植物が彫り込まれている。

 変なの、と僕は呟いていた。

 白いチューリップはいいとして、わざわざこんな薄気味の悪い枯れた植物なんか、彫り込まなくてもよかっただろうに。

 拾い上げてみると、その本は思いの外軽かった。

 ペラペラと本文をめくってみたけれど、中は白紙で、奥付もない。


 本に気を取られていた僕は、背後から音もなく接近してきた何者かにいきなり後頭部を打たれて、思いっきり地面に倒される。

 痛みを堪えて顔を上げると、一匹のフクロウがじっと僕を見下ろしていた。どうやら彼の翼で打たれたらしい。

「オ、オルドヌング?」

 確かにあのフクロウは、オルドヌングだ。でも、こんな時間に外に出ているのは珍しい。

 オルドヌングはふいと僕に背を向け、音もなく空中を滑空すると、少し先にある木の枝にとまり、ちらりと僕の方に視線を寄越す。

「……もしかして、道案内してくれるの?」

 驚いてい固まっている僕に再び背を向け、枝から離れるオルドヌング。僕は大急ぎで立ち上がると、オルドヌングの後を追いかけた。



×××



 ミルト姉さんが今にも泣き出しそうな顔をして、森の入り口にたたずんでいる。

 オルドヌングのおかげで森から出られたのはよかったけれど、いつの間にそんなに時間がたったのか、空には大きな月とたくさんの星が輝いていた。

 僕はとても気まずくて、なんとかこの場を切り抜けなければと言い訳をさがしたが、何も思い付かない。今まで、森で迷子になったこともなければ、こんなに遅くまで帰らなかったこともなかった。

 助けを求めてオルドヌングを見れば、役目は終えたとばかりに森の入り口にある木の枝にとまって、羽の手入れを始めている。


「……心配した」

 ポツリと、ミルト姉さんが言う。

 胸がずんと重くなった。今まで、いたずらをして怒られたことはたくさんあったけれど、こんなに悪いことをしたという気持ちになったことはない。

「ごめ」

 謝ろうとした次の瞬間には、ミルト姉さんにぎゅっと抱きしめられている。そして耳元でそっと囁かれた。無事で、本当によかった。

 ミルト姉さんの言葉は魔法のようにじわじわと心に染みて、僕は泣き出したいような気持ちになった。

「ごめんなさい」

 ふんわりと甘い匂いのするミルト姉さんの腕の中で、僕は小さなこどもみたいに素直に謝る。

「心配かけて、ごめんなさい」

 ミルト姉さんは僕を放して、にっこりと笑った。

「帰りましょうか?」

「うん!」


 帰りの道は、ミルト姉さんと並んで歩いた。

 くすぐったいような、気恥ずかしいような、落ち着かない気分になる。

「ところで、ノイギーア。その本、どうしたの?」

 サンザシの木の下で見つけたヘンテコな本を、僕はちゃっかり持ってきていた。

「うん、森で拾った」

 例の困った顔をするミルト姉さん。

 ミルト姉さんのお小言が始まると、長い。僕は誤魔化すようにあわてて言った。

「ねぇ、この本、なんかヘンテコなんだ。表紙も変だし、中身は真っ白だし」

 言って、白いチューリップと枯れた植物の表紙をミルト姉さんに向ける。

「ほら、変だよね? わざわざこんな枯れた植物、表紙になんてしなくてもいいのにって思わない?」

「……」

 ミルト姉さんは本を見て、はっとしたように立ち止まる。並んで歩いていた僕も一緒に立ち止まり、キョトンとしてしまった。

「……ミルト姉さん?」

 本を凝視するミルト姉さんの様子が、なんだか変だ。

 まるで本にとり憑かれてしまったかのように、食い入るように見つめている。


「ミルト姉さん、この本、知ってるの?」

「え?」

 ミルト姉さんが驚いたように僕を見た。やっぱり、なんか変だ。

「この本、知ってるの?」

 もう一度、僕が少し強い口調で言うと、どこか気の抜けたような様子で首を振る。

「いいえ。知らないわ」

「どうしたの? なんか変だよ?」

「なんでもないの。さぁ、帰りましょ?」

 再び並んで歩き出すけれど、もうさっきまでのくすぐったいような、気恥ずかしいような気持ちにはならなかった。

 そんなにこの本が気になったのかな、と思ってまじまじと表紙を見つめ、おやと首をかしげる。

 白いチューリップの隣には、確か、枯れた花が彫り込まれていたはずだ。


 なのに、今、白いチューリップの隣には滲むような鮮やかな色の青いアジサイがあった。

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