下
×××
明るい気持ちでいっぱいだった。
身体も軽く、なにもかもすべてうまくいく、そんな気がした。
同時に、頭の芯の部分がモヤに包まれているような、ぼんやりとした心地でもあった。痛いことも、つらいことも、怖いことも、みんなみんなモヤに包まれ、どこか遠くへ運ばれてしまったような、そんな感じ。
家に戻ってから起こったことを、だから私はよく覚えていない。
気がついたら床に転がっていた。身体中がひどく痛み熱を持っている。
母はいるのに、父がいなかった。それから、あの本もなくなっていた。
目を覚ました私に気がつくと、本ならとうさんが街へ売りに行ったよ、とギラつく目をした母が教えてくれる。どうせ拾ってくるなら、腹の足しにもならない本なんかじゃなくて、牛でも拾ってくればいいものを。憎々しげにそう言って、荒々しい足取りで部屋の奥へひっこんでしまう。
私も母も、字が読めなかった。
父は読むことができたけれど、聖書にあるごく少しの言葉だけだ。
読めない一冊の本よりも、一個のパンの方がずっと必要なもの。あんなに素敵な本なのだから、きっとたくさんのパンが買えるお金になるはずだと、私は私をなぐさめた。
ところが、何日経っても父は帰ってこない。
代わりに、本だけが私のところへ戻ってきた。
――まぬけなグリュック。せっかくあげたフルーフの本をおっことすなんて!
森で薬草を摘んでいたら、シャンシャンと呆れたような笑い声を上げて、本を持ったお隣さんが声をかけてきたのだ。
――ワタシがあげたフルーフの本、もうおっことしたらだめだよ? 大切にしなきゃ、絶対絶対だめだよ?
一体どこに落ちていたのか、本を持って街へ行ったはずの父はどうしたのか、疑問が一瞬だけ頭の中を駆け巡ったけれど、それよりも本が戻ってきたこと、それからお隣さんが機嫌を損ねてはいないことの方が私にはずっとずっと重要なことだった。
私は心の底から感謝を込めて、お隣さんにお礼を言い、フルーフの本を大切にすると約束した。
本が戻ってきてからしばらくして、今度は母が父をさがしに街へ行った。
そして、父も母も二度と戻らなかった。
家と少しばかりの財産は、すべて私のものになった。
×××
お隣さんから教えてもらった薬草の知識で、私は村の薬屋になった。困っている人の役に立てるのはうれしかったけれど、人々はありがたいと言いながら、どこか煙たがっているような、怖がっているような素振りも見せる。だから話し相手は、あいもかわらずお隣さんだけだった。
薬は必要だけどお金がない、という人もたくさんいて、私はそういった人からはお金をとらない。おかげで、薬はたくさん出ていくのに、お金がなく貧乏だという状態が長く続いた。森に出入りしていたため、食べ物には不自由しなかったけれど、薬を作るのにもなにかとお金がいる。調合するのに必要な物がすべて森で手に入るとは限らないのだ。
私は家財を少しずつ売り払ってなんとかお金を工面していたけれど、それにもとうとう限界がくる。困っている人の助けにはなりたいけれど、こればかりは私一人の力ではどうにもできなかった。
なんとか説明して、わかってもらいたかった。申し訳ないと思っていること。私も精一杯がんばったこと。
でも、ただで薬をもらえないとわかると、今まであれだけ感謝の言葉を述べていた人々が、手のひらを返したようになってしまうのには困惑してしまう。
ある夜、私は一つの夢を見て目を覚ました。
フルーフの本が森で、月の光を浴びてきらきらと輝いているという、ただそれだけの夢。
気になって枕元にあるはずの本に手をのばしてみるけれど、あるはずの場所にフルーフの本はなかった。私はベッドから起き上がり、あわてて部屋中を探し回る。でも、どこにもない。
まさかとは思ったけれど、他にあてもなく、森の中へ探しに行くことにする。夢で見た場所がどこなのかは見当がついていた。
はたして、森にフルーフの本はあった。
森の中でも西よりの、サンザシの木の下に。
夢で見たまま、月の光を浴びてきらきらと輝いている。しばらく見惚れていたけれど、ひょいと拾い上げ、胸に抱えた。フルーフの本は一瞬だけ強く輝いてから、私の胸の中で安心したように光るのを止める。
月明かりのもとで、私はそっと本を開いた。個性的な文字たちが自由にページを埋めているのを丁寧に眺め、時折指でなぞってみる。
聖書で使われている字と、フルーフの本に使われている字は、似ても似つかない。
薬を求める人の中には字が読める人もちらほらといたけれど、きっとこの本を見せても、読み解くことなんてできないに違いない、と私は確信していた。
本を閉じてサンザシの木を見上げる。木々の間から大きな月がこちらを見返すのを感じてうれしくなった。
一人じゃない、と思う。腕の中にあるフルーフの本とこちらを見守る月の存在に、満ち足りた気持ちになる。
ところが、穏やかな心にさっと不穏なものが走った。なにかの視線を感じたのだ。辺りを見回してみるが、人も獣も、お隣さんの姿だって見えない。
首をかしげて、もう一度じっくり辺りを観察してみる。かすかになにかが動く気配がして、カサリと、ちぢれた葉っぱが足首に触れた。
驚いて足を引き、そのまま数歩後ろに下がる。
葉っぱは動かない。でも私が少し目を離すと、またカサリと、ちぢれた葉っぱが足首に触れる。
私はなんだか無性に愉快な気分になった。
この葉っぱはどこまで着いてくるのだろうかと、帰りの道のりは少しゆっくりと歩いてみることにする。時々立ち止まってじっとしていると、期待通りにカサリと足首に感触がする。
そしてとうとう、ちぢれた葉っぱは私の家まで着いてきてしまったのだ。
愉快な気分のままで、家の中に入る。
まだ夜が明けるまでに時間があるから、もう一眠りしてしまおうと思っていた。
けれど、ベッドの上に投げ出された、見るからに高価な宝石やかなりの額のお金に目を丸くしてしまい、眠るどころではなくなってしまった。
×××
私の生活は安定したものになった。
知らぬ間にベッドの上に置いてあった宝石やお金のおかげでもあるけれど、ただで薬を分け与えることをしなくなったのが大きいと思う。
お金がないなら物を。物がないなら知識を。知識もないなら労働を。
なんでもいい。なにかしら、必ず対価となるものを要求した。
不服そうにする人も少なくはなかったが、大抵の人はこれで納得してくれる。
森から来たちぢれた葉っぱは、そのまま家の庭に居着いていた。森の方がいい環境だっただろうにと思って見ていたけれど、あっという間に増殖して、庭を埋め尽くしてしまった。
なんの不満も不安もない生活が続く。
朝起きて、夜眠る。
薬草を摘み、フルーフの本を撫で、お隣さんとお喋りを楽しむ。
薬を求める人に薬を与え、対価をもらう。
祈りを捧げ、感謝を口にし、様々な恵みを受ける。
不満も不安も起こりようがない。
起こりようがないと思っていた。
でもそれは、人と関わることをしない私が、単純に人というものを知らなかったからこそ……ただひたすら世間知らずだったから、だからこそ、起こりようがないなどと思い込んでいられただけで。
薄々は勘づいてはいたはずだった。しかし私は、それを最後までしっかりと直視することはなかった。
×××
夢を見た。
また、フルーフの本の夢だ。
以前見たものと、少しも変わらない。
真夜中に目覚め、私は簡単に支度をした。
身の回りの品で特に気に入っているもの、森では手に入らないものをざっとかき集め、袋に詰める。
一つの予感があった。
中身のつまった袋を持って外に出る。
月の光を浴びて、庭いっぱいに自生するアルラウネたちが、私の気配を感じたのか一斉にわさわさと葉を揺らした。私はなんだか無性に愉快な気分になる。
森に入ると、真っ直ぐ西に向かった。
はたして、サンザシの木の下に本はなかった。
サンザシを見上げれば、木々の間から月が私を見下ろし、笑いかけている。
念のため、ドアとマドの壊れたフルーフの家の中も探してみる。でも、そう広くもない部屋だ。すぐにここにもないことがわかった。
私にはわかっていた。
フルーフの本は、もう二度と私の元には戻らない。
テーブルに持ってきた袋を置き、中身を出していく。
今日から、たった今から、私はこの家に住むのだ。
森の外には、もう出ない。
ずっと考えていた。
それが今日になるとは思ってもみなかったけれど。
壊れたマドから赤い月が覗いている。
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