グリュックとフルーフの本
洞貝 渉
グリュック
上
グリュック、森に行ってはいけないよ、と言われていた。
でも、行かずにはいられなかった。
いつだって空腹で目が回っていたし、のどもカラカラだったから。森にならたくさんの食べ物や水がある。それに、けがによく効く薬草だってある。
なにより、私、グリュックには森にしか話し相手がいないから。
話し相手はともだち、ではない。人でも獣でもなくて、もっと、こう……気のいいお隣さん、といった感じ。
お隣さんは私に、いろんなことを教えてくれる。
人間が食べることのできるキノコとか、おいしい水の湧き出る場所とか、けがや病気によく効く薬草とか、そういったものを、いろいろと。
そのお返し、というわけでもないのだけれど、私もお隣さんに、私の暮らす村についていろいろと教えてあげた。
フィーの家の牛がよく乳を出すから、少しくらいならこっそりもらってしまっても平気だと思う、とか、ナルの家のせがれは遊びほうけて夜遅くまで出歩いているから、少しの間ならさらってしまっても誰も気がつかないはず、とか。
……その結果、フィーの家の牛から乳が出なくなって騒ぎになったり、ナルの家のせがれがお隣さんの食事を口にしてしまい、二度と人の世に戻れなくなったりしたものだから、軽々しく話してしまわないよう、注意して話題を選ぶようにはなったけれど。
×××
――またなの?
しゃがみこみ、湧き水で口の中をすすいでいると、お隣さんの声が頭の上から降ってきた。 私は苦笑いで返事をする。声を出す元気もなかった。
身体中が熱を持っていて、ぐらぐらする。あざに効く薬草は、どこに生えていただろう?
――ねえねえ、そんなつらい思いばかりするくらいなら、ワタシたちのところへいらっしゃいよ。みんなグリュックのこと、歓迎するわ。
リンリンと鈴をころがすような涼しい声で、いつものように誘ってくるお隣さん。
それに対して、私もいつものように首を横に振って断る。
――あら残念。
ちっとも残念ではなさそうな言い方だ。
お隣さんはひらりと私の目の前におどり出て、たまった湧き水の表面に降り立った。ふうわりと、水面にやさしく波紋が広がり、水が静かに光を帯びる。
――かわいそうなグリュック。
かわいそうと言いながら、お隣さんは全然かわいそうだとは思っていないのがわかる。
なぜなら、楽しそうに、歌うように、そしてイタズラを思い付いたこどものように喋るから。
――フルーフの本はいかが?
フルーフの本、と呟いてみる。でも、呟いてみたところでそれがいったい何のことなのか、さっぱりわからない。身体も頭も、熱に浮かされていて、まともに何かを考えることなんかできなかった。
――こっちにあるの。ついてらっしゃいな、グリュック。
ぴょこんぴょこんと跳ね、お隣さんは手招きをする。
――グリュックはこっちへ! グリュックはこっちへ!
私はぼんやりする頭を軽く振ってから、呼ばれるままにお隣さんの後について行く。
こうなってしまったら、もうなにを言ってもお隣さんは聞いてくれない。お隣さんの気がすむまで、言う通りにしてあげるのが一番だった。
×××
お隣さんが案内してくれたのは、森の中でも西よりの、私がまだ足をふみ入れたことのない場所だった。
小高く土の盛り上がったところに、サンザシの木が生えている。サンザシをちらりと見上げ、木々の間から夕闇のせまる空が覗いていることに気がついた。
――ワタシたちは別にかまわなかったのにね、フルーフったら酷いことするの。
前を行くお隣さんの声が、少し低くなる。
――ワタシたちの道の真ん中に家をたてちゃったのは、まあ、おおめに見てあげたんだよ? 邪魔だけど、ワタシたちは道を行き来することができれば、うんうん、行き来さえできれば、それでいいからね。なのにフルーフったら、ワタシたちが通り抜けできないように、家のドアというドア、マドというマドを閉めきっちゃったの。酷いでしょ?
あいもかわらず身体は熱を持っているのに、背中ばかりがゾクゾクとしていた。めまいと吐き気で、もうこれ以上は歩けないと思って立ち止まると、ちょうどその時、行く手に一軒のこぢんまりした家があらわれる。
ドアというドア、マドというマドが壊れ、そこからうかがえる家の中も滅茶苦茶に荒らされていた。
――だから少し、こらしめてやったの。
シャンシャンと不思議な音をたてて、お隣さんが笑った。
私はふらふらと家に近寄り、壊れたドアから中に入る。途端にヘンテコな匂いがした。たくさんの花の匂いと草の匂い、それから土の匂いが少し混ざったような、ヘンテコな、むずむずするような匂い。背中のゾクゾクがうすれて、少しだけ楽になる。
こじんまりした部屋に、様々な植物が吊るされていた。それに、小さなテーブルと壊れたイス、ベッドと作り付けの棚があり、床にはドアとマドの破片や、棚に片付けてあったのだろう木のコップや茶碗、分厚い本などが散乱していた。
分厚い本を一冊拾い、床に散らばる他のものはよけて、私はベッドに向かう。少しでいい、ほんの少し、横になって休みたかった。
ベッドの上に乗っていたドアかマドの破片を床に落とし、本を枕に素早くベッドに寝ころがる。あっという間にお隣さんの声も遠のき、すとんと眠った。
×××
あたたかい風がほおを撫でる。
なにか、なじみの深いさわり心地のものに触れたような気がして、私はそっと目を覚ました。
日が高くのぼっている。それを壊れたマドから眺めて、私はがく然とした。少しだけのつもりだったのに一晩も眠り込んでしまった。今ごろ両親はカンカンに怒っていることだろう。
それだけじゃない。見れば、荒れた部屋のどこにも、お隣さんの姿がなかった。
両親とお隣さん。どちらも、絶対に機嫌を損ねてはいけないのに。
私は頭を抱えて泣き出してしまいたいのを必死でこらえ、ベッドから身体を起こす。
指先につと、何かあたたかいものが触れた気がした。見るともなしにちらとだけ目をやると、昨日枕にした分厚い本がある。
瞬間、私は本から目が離せなくなってしまう。
咲き乱れるクローバーは、朝露に濡れたかのようにみずみずしく表紙を囲い、その中心にはのびのびと天を仰ぐ白いチューリップと、凛とした気品を漂わせる黒いユリが彫り込まれている。
吸い寄せられるように手をのばし、本の表紙に指を這わせた。どこかなじみの深い、あたたかいさわり心地がして、さっきまでの泣きそうな気持ちはどこかへ行ってしまった。
ぎゅっと胸に抱き寄せると、心の底からふつふつと元気が湧いてくる。
うれしくなって、私は本を抱えたままドアもマドも壊れた家を飛び出し、森を駆け抜けた。
身体がとても軽い。どこにも痛いところがないし、熱っぽくも、悪寒もしない。
私はますますうれしくなって、一目散に両親の待つ家へと戻る。
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