Ⅴ-b・天使と悪魔・後

 心ここに在らずの状態で帰宅したコウスケに飛んできたのは、マラックスの怒声だった。

 「何考えているんですか!!グレモリーには後でちゃんと謝ってくださいよ!!」

 あまり彼から怒られたことがないけれど怒る時には起こるのだな、とぼんやり思う。

 既にグレモリーの姿はない。マラックスが話をつけて帰ってもらったのだろうか。何にせよ、こちらの都合で呼び出した上、召喚を終わらせずに場を離れてしまったのはコウスが悪い。

 「……ごめん、悪かった」

 自らの非を認めるが、謝罪する声に覇気はない。

 怒り心頭、そのまま茹で肉になってしまいそうな勢いで憤怒を顕(あらわ)にしていたマラックスも、勝手に飛び出した挙句、意気消沈して帰ってきたコウスケを見て、怒りを収めた。

 「顔色、ひどいですよ。何かあったんですか?」

 「……」

 言うべきだろうか、マラックスに。

 彼は自分の使い魔だ。一緒に生活した時間も決して短くないし、今までどんなことだって話してきた間柄ではないか。

 けれど、トヨツヅラヒメの依頼を受けた日、意気込んでいたのはコウスケよりもマラックスの方だった。イェルミエルにサヤを人質に取られた今、コウスケはこれ以上続けられないとも思っている。マラックスの意気込みを挫くことになるだろう。

 どうすればいいのか。ここに帰り着くまで、散々考えた問いをもう一度自分に投げかける。魔法使いとして、同時にサヤの兄としてどうするべきなのか。

 「ごめん……」

 「え?コウスケさん!?」

 結局、コウスケはマラックスに何も言えず、来た道を引き返した。

 既に日が暮れ、薄暗闇の路地を走り抜ける。どうすればいいのか分からない。でも、薬局に帰るつもり気にもなれない。

 意識せず、何となく見覚えのある道をひたすら走り抜け、コウスケが辿り着いたのは葛姫稲荷神社だった。

 「はっ、はぁ……」

 人気が無くなった暗い境内に荒い息が響く。

 「どうした、そんなに息せき切って」

 傍らに姿を現したのは、いつかと同じ少女の姿をしたトヨツヅラヒメだった。早咲きの桜がこぼす花びらを、手の平で受け止める。

 「こんなに散って……。まだ春の盛りは遠いというのに」

 「……お久しぶりです」

 「ああ。して、どうした。成果報告と言うには、何も変わっていないようなのだが」

 「あの依頼、もう俺には手に負えません!すみませんでした!」

 コウスケは、自ら選んだ結論と共に頭を深く下げた。もうこれ以上は、何もできないと思ったのだ。

 少なくとも、今ここで身を引けばイェルミエルの手からサヤを守ることができる。事件が起こるまで猶予があると言うならば、まだこのままでいいではないか。

 「はは、そうかそうか」

 トヨツヅラヒメが笑う。控えめに弧を描いた目は冷たい。

 「なるほどな。断るにしても、私に逆らえない悪魔のマラックスをおいて、一人でやって来たというわけか……?」

 「や、約束を反故(ほご)にした罰ならば俺が……」

 「大馬鹿者っ!!」

 皆まで言わせずトヨツヅラヒメが吼える。

 震える空気が、舞い落ちる花びらの動きさえも止めるようだった。カッと見開いた目は、まるで獣のそれだ。

 「お前が!お前が頭を下げて事態が変わるのか!?しかも、使い魔には責任が無いと言うつもりとは笑わせる!よいか?お前が依頼を遂行できない程度の魔法使いだということには、魔術を教授する悪魔にも責任があるのだ!!どうせ、お前が良かれと思っただけで、あやつには何も言わずに来たのだろう?」

 図星である。行動どころか思考まで完全に把握されていたのだ。

 カッと頬が熱くなった。単純に、行き詰まった思考だけで行動し、マラックスに意見を仰ぐことさえしなかった自分が恥ずかしくなってくる。

 「で、でも!あなただって肝心なところを教えてくれなかったじゃないか!サヤが事件の被害者になるなんて、聞いてない!黙ってたくせに、そんな、俺ばっかり……!」

 「教えていたら、もっと上手く立ち回れていたのか?もう解決していたのか?」

 「そ、れは……」

 解決していた、とは胸を張って言えない。

 知っていれば何かが変わっていたか、コウスケには分からない。想像する余裕さえ無いのだから。

 「ふん、もうよい!マラックスを呼ぶぞ!何があったのか、それから詳しく聞いてやる!」

 顔を上げようとしないコウスケを放って、トヨツヅラヒメはぶつぶつと何事か唱え始める。すると、間もなく慌てた様子のマラックスが道の向こうから現れた。

 「こ……コウスケ、さん。ここにいたんですか」

 「……マラックス」

 ああ、彼には自分のこんな姿を見られたくなかったな。

 色々と理由をこねくり回していたけれど、存外見栄っ張りに、相方に情けない姿を見せたくないという気持ちが大きい。

 「マラックス、この魔法使いは私の依頼を断ると言っているが、どういうことだ?ん?」

 「す、すみません……あの……」

 マラックスも、コウスケがされたのと同じように言葉で詰られる。

 マラックスは、コウスケが勝手に依頼を断ると言い出したことを察し、一瞬だけ恨みがましい視線を向けた。

 「私、詳しい話は何も聞いていないのです。グレモリーの占術で、妹さんが事件の被害者になるということを知った後、コウスケさん、勝手に飛び出して行ってしまったものですから……」

 「なんと、マラックスには相談せずにここに来たのか?一心同体、二人三脚であるべき魔法使いと使い魔が、情けないことだ」

 「……私は、コウスケさんを信じてますよ。何か、考えがあったんだと思いたいです」

 「!」

 「一人で飛び出して、勝手に依頼を断ろうとしたことに、苛立ちを感じないわけではありませんからね?でも、何の理由もなく、コウスケさんがそんなことをする人だとは、思っていません」

 「で、でも俺……」

 「ですから、今ちゃんと話してください」

 ようやく顔を上げたコウスケの目と、マラックスの目が合う。

 彼の目を直視するのが久しぶりであるかのような錯覚を受けた。けれど、記憶にある通りの穏やかなそれには、コウスケへの信頼が確かにあるのだ。

 そうだ。コウスケだって彼のことを信じていた――信じている。約八年もの間、彼はコウスケを欺くことなく、常に対等な立場として傍にいてくれた。そんなマラックスを、コウスケこそ信じないで、どうするのだ。

 「ごめん、マラックス。……俺、ちゃんと話すよ」

 きっと、いや絶対、このどうしようもない状況でも、マラックスは隣で一緒に悩み考えてくれる。そう信じながら、コウスケはさっき妹に起こった異変を話し始めた。

 「……なんと卑劣な!」

 イェルミエルがサヤから体を奪い、コウスケを脅したことを知ると、マラックスは拳を震わせて険しい顔つきになった。

 「天使たちは何も変わっていませんね。今も昔も……自らの優位のためには手段を選ばない!慈愛を説きながら、意にそぐわない者へは平気で脅迫し服従を求めるなんて……時代遅れ過ぎます!悪魔だってやりませんよ!」

 反対に、トヨツヅラヒメは冷静な様子を崩さない。天使イェルミエルの名が出ても、どこ吹く風という調子だ。

 「しかし、実際そのやり方にお前たちが翻弄されているのも確かだろう。古典的な手段が無くならないのも頷ける。もっとも、崇(あが)めなければ祟(たた)るというのは、私たちにとっても古臭い手段ではあるが」

 「ですが、この場合は……!」

 悠長な口ぶりのトヨツヅラヒメに、マラックスはささやかながら食ってかかる。本来、決して逆えないはずの相手であるにも係わらず、マラックスはコウスケと同じようにサヤの身を案じているが故に、焦っているのだ。

 まさか悪魔に口答えされるとは思わなかったのだろう。マラックスの反応には、コウスケだけではなくトヨツヅラヒメも驚いた様子を見せる。

 「そうだな。イェルミエルとやらのやり方が汚いのは確かだ。だが、相手は天使だろう?日本の神々は門外漢もいいところだ。一戦交えたお前たち悪魔の方が詳しいのではないか?」

 「さすがに、こういう事例は初めてですよ」

 いくら古い因縁の相手だとしても、人間の体に入り込んだ天使を取り除く方法なんて、知っているはずがない。そもそも、体を乗っ取ることができるなんて、コウスケも知らなかった。

 「幽霊みたいなもんなら、除霊で何とかならないかな?」

 「幽霊って……まあ、似たようなものですけど。西洋では『悪魔祓い』と言われるやつが近いでしょうか」

 「天使に『悪魔祓い』って効果あるのか?」

 「……ない、と思います」

 予想していた答えだった。

 「でも、専門家に聞いてみるのはいいかもしれませんね」

 「どんな専門家だよ」

 「いるでしょう?コウスケさんの……」

 「……あ」

 今日会ってきたばかりだというのに、イェルミエルのせいですっかり忘れていた。

 コウスケの実父は、教会を預かる神父ではないか。恐らくはマラックスよりも天使に詳しく、もしかしたら、『悪魔祓い』ならぬ『天使祓い』をするための助言を貰えるかもしれない。

 「なんだ、あてがあるのか?」

 突然、顔つきを明るくしたコウスケにトヨツヅラヒメが尋ねる。

 「ええ、まあ。実は、俺の父が教会で神父をしているんです」

 全て話すと込み入った話になってしまう。しかし、簡潔な説明にトヨツヅラヒメは疑問の表情を浮かべた。

 「お前の父は、営業職だか何かではなかったか?」

 「そっちは母が再婚した相手ですね。俺がまだ小学生の頃に離婚した、実の父の方が神父をしていて。あ……」

 昼、マサヤが言っていたことを思い出す。彼は、何かあったらこの神社の神に――トヨツヅラヒメに自分の名前を出すように言っていたではないか。

 「あの、『稲川マサヤ』って知っていますか?」

 「!!……その名前、どこで知った!?」

 マサヤの名を聞いたトヨツヅラヒメは、掴みかからんばかりの勢いでコウスケに詰め寄る。それどころか、実際にコウスケの胸ぐらを掴んでさえいた。白く細い腕からは想像もできない力で、成人男性を引きずるように近付ける。

 「言え!!マサヤと会ったのか!?どういう関係だ!?」

 「そ、その人が俺の実の父ですっ!さっき言った、教会の……隣の稲苗町にある教会の神父です!」

 このままでは絞め殺される。恐ろしい予感がしたコウスケは、慌ててマサヤの正体を明らかにした。途端、胸ぐらを掴んでいた手が放される。

 「……なんと……マサヤの息子であったか……」

 それどころか、激情から一転、悲しんでさえいるような表情に変わってしまう。しかし、その沈んだ声には、僅かな安堵の色があった。

 一体、この神様とマサヤの間に何があったのだろうか。推測するしかないマラックスとコウスケは、顔を見合わせ、お互いの顔面に書かれた疑問符を見た。

 「すまん、取り乱したな。ふむ、そうか……あいつ、長らく姿を見ないと思ったら、弟月を出ていたのか。しかし、お前がマサヤの子供だったとは……姓が変わっていたのだな」

 「……父と、何があったのか聞いてもいいですか?」

 また怒らせてしまうかもしれないという不安はあったが、どうして彼女がマサヤを気にしているのか知りたかった。

 「……そうだな。話しても、良いかもしれん」

 「教えてください」

 「……と言うより、お前の方こそ何も聞いていないのか?私が……」

 トヨツヅラヒメが言いかけた瞬間、コウスケのポケットから電子音が響いた。いつもより心なしかけたたましく聞こえるそれは、キリハからの着信だった。

 「……もしもし?」

 嫌な予感がした。

 「コウスケ!?そっちにサヤ行ってない?」

 「いや、いない……」

 元より、今は薬局にはいないので、サヤがそちらに行っていたら知りようもないのだけれど。だが、サヤは決して何の連絡もなく夜分に訪ねてくるようなことはしない。

 「サヤ、いないの?」

 電話口への問いかけを聞き、マラックスとトヨツヅラヒメは事態に気付く。コウスケたちの会話に耳をそばだてているのが分かった。

 「それが……突然ふらっと家を飛び出しちゃったようなの。夕飯の後、部屋にこもっていたから私も気付くのが遅くなっちゃって、電話も繋がらないし……!」

 どこに行ったのか、案ずる声は震えていた。それはそうだろう。年頃の娘が夜に突然出掛けてしまうなんて。

 「分かった、俺ちょっと探してみるから。母さんはサヤの友達のとことか、行ってそうな所に連絡してみて」

 「そうね、分かったわ。お願いね」

 コウスケから指示を受け、電話口のキリハの声は落ち着きを取り戻す。

 友達の家に言っているとはとても思えなかったが、それでも一縷の望みはある。むしろ、誰か知り合いの所に居てくれれば御の字だ。

 「ねえ、コウスケ……今日、急にあなたが帰ってきたのと、関係あるの?」

 「……ごめん、一段落したら全部話すから」

 キリハの返事を待たずに通話を切る。

 「サヤさん、いなくなっちゃったんですか?」

 「ああ。多分、イェルミエルやつが何かやってるんだ。早く探さないと」

 サヤの体を動かしているのは、疑う余地もなくイェルミエルだ。あの天使が何を考えて、どこに向かったのか、分かるはずもないが、このままにはしておけない。

 「待て、コウスケ」

 来たばかりの道を戻ろうとするコウスケたちをトヨツヅラヒメが呼び止める。

 「何ですか?ちょっと、今日の続きはまた今度に……」

 「ここでイェルミエルとやらを迎え撃つぞ!」

 「……え?」

 歩きにくそうな袴を摘まみ上げ、トヨツヅラヒメは拝殿の前に移動し、仁王立ちで宣言する。

 「このトヨツヅラヒメノカミは、かつて稲川マサヤの曾祖母、稲川綴(いながわ・つづり)の元に召喚された使い魔だ。つまり、悪魔だったのだ」

 「はあ!?」

 突然の告白だった。稲川マサヤの名前を出したとき、妙に動揺していると思ったが、そんな過去があることまでは想像していなかった。予想外の答えにコウスケは間抜けな一言を発することしかできない。

 どういうことか問うようにマラックスを見上げても、混乱した眼差しを向けられただけだった。

 「綴の手により、ウカノミタマに認められこの地の祭神となっていたが、今一度、使い魔としてお前に……矢幡コウスケのために働こう!稲川家の血がお前にあるのならば、私を使う力がお前にはある」

 「いや、でも、俺……」

 「ぐだぐだ言うな!マサヤ譲りの魔力がお前にあるならば、可能なはずだ!」

 「待ってください!神格にまで栄達した悪魔を使うなんて、負担が大きすぎます!」

 消費する魔力はグレモリーを召喚した時の比ではない。それがどれだけコウスケの負担になるか想像は容易だ。マラックスが止めるのも、仕方がないことである。

 「いや、俺、やるよ!」

 だが、コウスケは使い魔の心配を退けた。

 「コウスケさん!?」

 「イェルミエルだって、マサヤさんの魔力で力を増強させてるんだろ?太刀打ちするには、数だけでも増やした方がいい。マラックスも、マルコシアスを呼んでくれ」

 「あなた……三人の使い魔を同時に使役するつもりですか!?しかも……」

 「よいではないか、マラックス」

 反対の姿勢を崩さないマラックスだが、あくまでコウスケだって折れるつもりはない。無理を承知のコウスケに、味方してくれたのはトヨツヅラヒメだった。

 「矢幡コウスケ、その心意気、気に入ったぞ!さすがはマサヤの息子だ」

 「……っもう、どうなっても知りませんからね!」

 「大丈夫だ!多分!」

 根拠のない自信で言い切った瞬間、スマートフォンから再び着信音が鳴った。ディスプレイには今度こそサヤの名前が映っている。

 「……」

 顔色を変えたコウスケを見て、他の二人も電話の相手が誰なのかを察する。目配せをした後、イェルミエルとしてではなく、妹としてのサヤが出ることを願いながら、コウスケは恐る恐る通話ボタンを押した。

 「ちょっと、あんた!なんで薬局にいないのよ?せぇっかくイェルミエルが遊びに来てあげたのに!」

 しかし、願いは虚しくスピーカーからは妹らしからぬ口調のサヤの声が聞こえた。

 「お前、ふざけるのもいい加減にしろよ!」

 「コウスケ、電話を代われ」

 コウスケの手からスマートフォンが消えた。あっと言う間もなく通話中のそれを奪ったトヨツヅラヒメは、コウスケを真似て耳元にスマートフォンをあてる。

 「お前が矢幡の娘に入っている天使だな?」

 「……誰?」

 「私は、弟月の葛姫稲荷神社の祭神、トヨツヅラヒメノカミと申す。イェルミエルとやら、悪いことは言わぬので、とっととその体から出て行って、もう係わらないではくれぬか」

 涼しい顔で要求するトヨツヅラヒメに、コウスケはぎょっとする。サヤが人質になっていることを忘れられては困るのだ。

 慌ててスマートフォンを奪い返そうとする手を、トヨツヅラヒメはするりとかわして通話を続ける。

 「あー、日本のヤオヨロズの神ってやつかー。イェエルミエルたちとは何の関係もないじゃない。口出ししないで、お兄ちゃんに代わってよ!イェルミエルのことバラしちゃったんでしょ?お仕置きしないとー」

 「いやいや、無関係などではない。弟月は私の管轄だ。住民を見守ることも役目であれば、その身に何かあっては困る」

 「だからー、それはあんたの都合でしょ?イェルミエルの仕事には関係ないじゃない」

 「ふむ……ならば、交換条件はどうだ?お前は天使として未熟であるが故に信仰を欲していると聞いた。ならば、私の分をやろう」

 「え!?それ、ホントに本気で言ってるの!?」

 大きくなったサヤの声が聞こえる。疑いながらも喜色を浮かべたそれは、トヨツヅラヒメの提案に飛びつきたがっているのが明らかだ。

 「うーん、でも、待って……あ、そうだ!あんたの神社をイェルミエルに頂戴よ!そうすれば、参拝客は自動的にイェルミエルにお祈りしてることになるから、分け前に預からなくても十割イェルミエルのものになるわ!」

 「なっ……!」

 過剰な要求に最も抵抗を示したのはマラックスだった。しかも、当のトヨツヅラヒメは至って穏やかな様子で、

 「よかろう。すぐに葛姫稲荷神社に来るがいい」

 と答え、通話を終わらせてしまったのだ。電話が切られてすぐ、マラックスは抗議の声を上げる。コウスケは、トヨツヅラヒメに身を切らせる提案をさせてしまったことに、顔色を悪くして震えていた。

 「どうしてあんな提案をしてしまったのですか!いくら何でも、卑怯者をのさばらせるなんて!」

 「俺が、……俺のせいだ。俺……ごめんなさい、本当に……!」

 怒りを再燃させるマラックスと、落ち込むコウスケ。その二人を見比べて、トヨツヅラヒメは腕組みをし、呆れたように溜息を吐く。

 「馬鹿なことを言うな。私とて、あんな奴にくれてやるものなど、何一つない!それよりも、コウスケはさっさと魔力を私に渡せ!マラックスはマルコシアスとやらを呼ぶ準備をしろ!迎え撃つ、と言っただろう?」

 彼女は、神社を明け渡すつもりも、自らの身を引くつもりもなかった。その上で、イェルミエルをおびき出すべく、さも人質のために大きな譲歩をするように見せて、誘いかけたのだ。

 「じゃあ、コウスケさん。マラックスを呼ぶための詠唱を先にしてしまいますが、『炎のつらら』が落ちるより先に魔力は消費され始めるので、気を付けてくださいね」

 「おっと、私の分の魔力はきちんと貰うからな。神格にのし上がった悪魔の力、試せる日がくるとは思っていなかったぞ!」

 早速、目の前の二人に魔力を奪われ始めたコウスケは、またあのひどい頭痛と吐き気が襲うのを感じた。量が増えたと言っても、やはり吸い出される量が増えるのは、体への負担が大きいようだ。

 「くっ……」

 「しっかりしろ!お前が私たちの動力源なのだからな。お前なしでは、最大限の力を引き出せぬ!」

 耐え切れず地面に座り込むコウスケに、トヨツヅラヒメの叱咤激励が飛んだ。同じ頃、マラックスの詠唱が終わる。

 「……グレモリーが上手いこと話を通してくれたみたいです。『炎のつらら』、いつでも撃てますよ」

 「まじか……じゃあ、あとは……」

 あとは、イェルミエルが来るのを待つだけだ、と続くはずの台詞は、境内の砂利を踏んで近付いてくる足音に掻き消された。

 「こんばんはー!イェルミエルが来たよー!」

 まるで躁病患者のような、異常に上機嫌な声でサヤがけらけら笑う。操り人形のように、大口を開けている妹の表情は、コウスケに吐き気を覚えた。

 「あんたがこの神社のカミサマね」

 「左様。よくぞのこのこ参られた」

 自ら譲歩を申し出たはずの相手から露骨に馬鹿にされ、イェルミエルは、サヤの顔を不機嫌なものに変える。

 「……今更惜しむ気持ちが出てきたのかしら?でも、イェルミエルが頂いちゃうからね!」

 「はは、取れるものなら取ってみよ」

 「虚勢は面白くないわよ!」

 サヤの背に輝く翼が見えた瞬と同時、サヤの体は崩れ、内側からイェルミエルが姿を現す。四枚だった翼は未だ治療中らしいが、二枚の翼が力強く羽ばたいて少女の体を持ち上げた。

 「二枚羽でも十分!」

 いつか見た空気を震わせる閃光が翼を覆う。

 「来る!」

 倒れたサヤを支え、コウスケは妹を守るように腕の中に抱えた。

 「来るなら、来い!!」

 トヨツヅラヒメが言い放った瞬間、コウスケは強い目眩と共にサヤの上に倒れた。マラックスが『炎のつらら』を使った時と同じだ。体温が急激に下がっていく。

 「うわ……」

 いや、これは『炎のつらら』を使ったときよりも、もっとひどい。

 薬局を訪れる患者の中に「死期が近い」と感じる顔つきの者を稀に見ることがあるが、同じ顔になっているのではないかと思ってしまうほどだ。

 「最初はあんたからね!」

 翼から稲妻が走った。空気をびりびり震わせながら迫るそれは、翼の数が減っても勢いはそのままだ。

 「そんなものっ!」

 トヨツヅラヒメは恐れることなく、雷(いかずち)に向かって手を伸ばす。白い腕の動きに合わせて巻き起こった春風が稲妻を散らした。舞い上がった桜の花びらが、コウスケたちを守る代わりに焼けて灰になる。

 「うえっ、ああ……!」

 吐き気が強くなる。胃の中が空なのは幸運だったが、上がってくる胃酸が気持ち悪くて堪らない。トヨツヅラヒメがイェルミエルの攻撃を防ぐ度、吐き気はひどくなっていった。トヨツヅラヒメの邪魔にならによう、境内の隅に身を丸めるのが精一杯だ。

 「マラックス……お前も、早く……!」

 「……分かりました!」

 マラックスが青い顔のコウスケを見て、自身の顔色までも悪くしている。それがなんだかおかしかったが、構わずトヨツヅラヒメを援護しろと言えば、マラックスはもうコウスケを振り向かなかった。

 「おえっ……げっ、うええっ!」

 強い酸が口から食道を焼く。自ら吐き出したものの上に倒れないよう、肘を突っ張ったコウスケはイェルミエルの雷が絶え間なく放たれるのを見た。

 「……意外と、頑丈ね!」

 「いつまでも下っ端の天使とはワケが違うぞ!」

 放った雷を全て防がれているイェルミエルには、僅かに焦りの表情が見える。しかし、決して彼女が競り負けている状況でもない。

 「うう……あっ」

 吐くものを吐いた胃が再び痛み出す。コウスケの頭が重く視界が揺らぎ、とうとう地面に倒れた時、彼は頭上から振りぞぞぐ火柱を目の当たりにした。

 「っこれ、は……!」

 以前見た『炎のつらら』とは、比較にならない火柱だった。ごうごうと音を立てる猛火が作るそれは、一度見たものよりもずっと大きい。今度は、翼を焼くのみならず、イェルミエルの体もろとも焼き尽くしてしまうだろう。

 「なんなの……これぇ!」

 まさか、マルコシアスの『炎のつらら』を更に威力を増して放ってくるとは思わなかったのだろう。イェルミエルの声から余裕が消えた。

 「コウスケさん、踏ん張ってください!」

 「っ、っ……」

 分かっていると返したかったが、声を出せばまた吐いてしまいそうで、結局口を閉じる。

 その間にも、巨大な炎が何本もイェルミエル目掛けて落ちてくるのだ。

 炎は美しくも、地獄のような景色である。だが、最早視界まで霞んできたコウスケには、はっきりと目の前のものを認識することもできない。

 それでも、マラックスに詠唱を止めさせるわけにはいかなかった。もう少しなのだ。

 「きゃあっ!」

 地面をえぐった火柱は、消えることなく天と地を繋ぎ、少しずつイェルミエルを取り囲んでいく。小さな悲鳴が聞こえ、とうとう炎が彼女の肌を焼いたことが分かった。

 「こんな……、イェルミエルのお肌が……!」

 「マラックス、あいつを完全に焼け!」

 「っ……!」

 脂汗を浮かべながら、マラックスはトヨツヅラヒメの言に従い、新たな炎を呼ぶ。一点を狙い定めたように熱が降り注いだ瞬間、イェルミエルが一段と大きな悲鳴を上げ、それはやがて聞こえなくなった。

 「終わった、のか……?」

 「……はい」

 「そっか、よかった……」

 安堵の溜息と共に、口の端から血が垂れる。拭った手の平に付いたそれを、コウスケはぼんやりと見つめた。それが誰のものなのか、理解するのにも時間がかかったのだ。

 それよりも、マラックスの息が随分荒く聞こえる。彼は、大丈夫なのだろうか。

 「マラックス、お前は……」

 「コウスケさん!」

 使い魔の無事を確認することは、コウスケには叶わなかった。あまりに多くの魔力を内なったために、視覚も聴覚も限界だった。

 霞んだ世界で、一匹の大きな獣が焼け爛れたイェルミエルを頭から貪るのを見る。甲高い鳴き声は、トヨツヅラヒメの勝利の咆哮だろうか。

 いずれにしても、死に際に立たされたコウスケには知る術のないことだ。

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