塔とルカとウトと塔
ムノニアJ
塔とルカとウトと塔
結末を言ってしまえば、そこは紛れもなく、捜し求めていた塔だったのだ。
ドレンの断末魔はついに聞こえなかったが、追手の来る気配もなく、どうやら当座の危険を凌ぐことはできたようだ。
ルカは無我夢中で翔けた疲労の最中で、安堵を荒い吐息に混ぜた。
そこは、淀んだ生温い空気が満ちる空間だった。
薄闇に差す僅かな陽光は、窓からか、壁の亀裂からか。
砂埃の積もる石床の上に。
ルカとウトが、並び立っている。
ルカは、全身の疲弊から体を丸めて、呼吸を荒げて。
ウトは、まるで思うことなどないかのような、無感動な姿勢で。
全身の神経が熱い。脚が竦みそうだ。
一体、どうすればいい。
ルカの心中を満たすのは、焦りと恐怖と不甲斐なさと情けなさだった。
しかし。
ある確信も、存在していた。
「自分が、ついにこの物語の主人公になったのだ」
という、無根拠な確信が。
恐るべきほどに馬鹿馬鹿しいその自覚は、しかし奇妙かつ強固な膂力を持ってして、ルカの脳裏に渦巻いてやまなかった。
隣に黙念と佇む、託宣の少女――ウトを、見やる。
彼女は、やはり何も語らない。もともと、滅多に感情を表出させない娘だった。
そしてルカも黙っているために、必然的に、この空間は沈黙の世界と化してしまうのだ。
ルカは、屈めていた背を伸ばしながら、思う。
なんといっても。
もう、ふたりしか残っていない。
呼吸を、整える。
ふたりが逃げ込んだ、このちっぽけで古びた石造りの建築物は、煙っぽい匂いがした。闇が濃いために判断が難しいが、決して広い空間ではあるまい。
ここは一体、どこなんだろう。
最強の術者だったフィフスが激闘の末に死んだのが、もう一年も前のことに思える。クォルは大軍勢を前にして、いつもの皮肉交じりに散っていった。勇猛果敢のドレンも、一分ほど前に猛獣と相打ちとなり、その生命を神々に捧げたようだ。
深く息を吸う。
生意気なニスも、放浪癖のアートも、蠱惑的なマリーヤも、もちろんいない。
全員、死んだ。この旅の中で。
長く息を吐く。
一時は総勢二十七名にまで膨れ上がっていた旅の集団――『塔への集い』の中で、ついに生き残ったのが、ルカとウトのふたりだった。
確信はあった。
しかし、肝心の自信がない。
「自分が、ついにこの物語の主人公になったのだ」という。
『塔への集い』という集団において、ルカという人物は言わば『地味な内臓』のようなものだった、と自覚している。
器用な手でも、頑強な脚でも、柔と剛を併せる筋肉でも、隅々まで行き渡る血管でも、そこに血液を送り込む心臓でも、鋭い眼光で先を見通す眼でも、体の重量を支える強靭な骨格でも、すべてを包む皮膚でもない。もちろん顔などであるはずもない。
内部の隅で、とりあえず機能している、小さく、微弱で、なくてもいいような臓腑。
ルカは旅の連れでは最古参だったが、自分が能力的にも性格的にもそうした存在であることを理解し、納得もしていた。
ふと、隣に立つ、小柄な少女を再度見やる。
ウトは、相も変わらずの鉄面皮、まったくもって無言のまま。
洒落っ気など欠片もない粗雑なひとつなぎの衣を纏って、黒髪を肩の辺りでばっさりと刈っている。
冗談のように白い面の、嘘のように澄んだ黒瞳を、闇の中空へと向けているばかり。
こんな時に、とルカは呆れてしまう。一体、何を見ているのやら。
ウトは、『塔』への導き手だった。
彼女を巫女と呼ぶメンバーもいたが、ある種の予言者だとルカは認識している。
一体どこから情報を得ているのか、彼女は稀に謎めいた助言を仲間たちに告げる。その予言は驚愕の精度で的中し、命を助けたことも少なくない。
そして、旅の最終目的地――『塔』の、その位置も、ウトは奇怪な直感で認識し、『塔への集い』の人々を導くのだ。
ウトは、言わば助言役という存在であり、それ以外の何者でもなかった。魔物の軍勢と戦うこともなければ、越えるべき城壁を見張ることもない。個性派揃いの仲間たちの中でも、奇妙な立場を貫いているように思えた。
ルカは、少しだけ迷う。
――自分たちを人体に例えるなら、彼女は何者なのだろう。何者だったのだろう。
理屈はわかる。
この、果てしなき冒険の中で。
苦難と死に満ちた、『塔』への旅の中で。
ルカとウトだけが、生き残ってしまった。
すなわち、主人公はもう自分しかいない。
しかしどうしても、その理屈に共感を覚えられなかった。
薄闇。沈黙。淀んだ空気。砂と埃の匂い。
「……どうする?」
もはや唯一の旅の仲間となった少女に、ルカは訊ねた。
ここで、改めて気がついた――仲間でありながら、ルカはあまりウトに話しかけたことがない。この何を考えているのかまるでわからない少女に、どんな切り口で話せばいいものやら。
「とりあえず、外に出ようか? ドレンが、外で生きているかもしれないし、それにさ、こんなところにいてもしょうがないよ」
ウトは、まるで動じない。
正面の闇を、黒瞳でじっと見据えている。
まるで、ルカの声など、まったく聞こえないかのように。
「……えっと、ウト」
気まずい沈黙。
……五秒。十秒。二十秒。
少女は、まるで動じない。
……三十秒。四十秒。
――かと、思われた。
「やっと、ついた」
がらんどうの空間の中で。
ウトは、退魔の呪文を唱えるような、無感動な口調で、告げた。
ルカにではなく、目前の闇に向けて。
「ここが、『塔』。わたしたちの、旅の目的地」
最初、ウトが何を言ったのかさえ、わからなかった。
奇妙な言葉の羅列にしか聞こえなかった。それがルカの中で徐々に形を有しはじめて、そこで再び唖然としてしまう。
――ここが、『塔』?
駆け込んで入る前に、この建築物の外観は見ている。
円筒状ではあるが、細長いとはとても言えないずんぐりとした格好で、せいぜい三階程度の高さしかない、古い石造りのありふれた建物。
塔というよりは、大昔に放棄された要塞の、不格好な詰所といった具合だった。
「馬鹿馬鹿しい。ここが、と」
――ここが、『塔』であるはずがないよ。
その言葉を止めてしまったのは、突然、ウトが歩き始めたからだ。
「ちょ、ちょっと」
早足と表していい歩調でずんずん進んでいく。少女の背は瞬く間に薄闇へと隠されてしまい、突然の行動に驚いたルカは彼女を追うしか他になかった。更に言えば、この薄気味悪い場所で、ひとりでいるのが怖かったのだ。
歩みの先で少女が靴を載せたのは、フロアの隅にあった階段だった。周囲の闇から何か出やしないか、注意の視線を凝らしながら、ルカはなんとか少女の背に追いつく。
ルカが何を言っても、ウトの歩みは変わらなかった。長いスカートの中で華奢な脚を上げて、疲れの息ひとつなく階段を登っていく。
どうやら、この建物全体の内壁を回る螺旋階段のようだ。
ウトに引っ張られるようにして、ルカも階段をひたすら登っていく。
実にあっけなく、階段は終わった。
ルカが事前に見立てていた、三階構造ではなかった。
そこは、地階と、屋上だけの建物だった。
黄昏の風が、顔をついた。
視界に拡がる、夏の草原の蒼。
どこかから、鳥の鳴き声が聞こえる。
平坦な造りの、何の変哲もない屋上だった。
石造りの床には、風に吹かれた砂利が積もっているばかり。何かが置かれているわけでもない、ただの円形の場所。
申し訳程度の囲いも、老朽化で多くが剥がれ落ちている。
螺旋階段を登り、この屋上に辿り着いたルカとウト。
ふたりは、穏やかな風に吹かれている。
「やっと、やっと、着いた」
驚いた。
ここではじめて、ウトがルカに振り向いたからだ。
「『塔』に。わたしたちの、目的地に。ルカ」
つい、まじまじと見返してしまう。
彼女の黒瞳の視線は、明確にルカに注がれていた。
ある程度の意思疎通が可能なメンバーもいたが、この託宣の少女は、基本的にぼんやりとしているばかりなのだ。自分がこうして名を呼ばれ話されるのは、ほとんど記憶にない。
それにしても。
「違う、違うよ、ウト」
訂正するしか、他にないのだった。
ルカが、誰かから聞いたところによれば。
『塔』は、遥か古の種族が、叡智のすべてを結集して築き上げた、ひとつの魔境だ。
その威容は夜闇よりも暗く、高みは優に雲を突くという。
古代より伝説として語り継がれるその迷宮を、よしんば見つけられたとしても、内部の獰猛なる魑魅魍魎どもが、容赦のない抹殺を告げる仕掛けたちが、登る者を決して許しはしない。
それすら越えて。
すべての試練を勝ち抜き、『塔』の頂上への到達が叶ったならば。
旅人は、何もかもを手にするのだ。
文字通り、何もかもを。
それは、これまでに手に入らなかった宝たちに限った話ではない。
見つからなかった事実、解らなかった知識、導き出せなかった理論――神の真実、この宇宙の理さえも、『塔』の頂上には眠っている。
言わば。
旅人が、これまでの人生で、どうあがいても、満たされなかったもの。
それらが――望むものが、自由自在に手に入り、癒され、赦されるのだ。
『塔』とは、そういう場所だ。
ルカたち『塔への集い』の、最終目的地だった。
風に吹かれながら。
ウトが歩み、ルカの前に立った。
腕を背に回して、少女は告げる。
「かつて」
その言葉はいつになく、確固たるものだった。
「この地に生きていたデイル族が、天体の挙動を計測して、吉兆を占うために築いた、まじないの塔。もっとも古く残っているそれが、ここなんだよ。ルカ。あなたたちが、ずっと探求していた、『塔』。その頂上」
言い終えると、少女は足元に視線を向けた。
ルカは、奇妙なものをそこに認めた。
歳月に色褪せて判別は難しいが、矢印のような意匠が僅かに床に刻まれており、そこから細い直線が伸びて、屋上の縁へと繋がっている。
よく見れば、ひとつだけではない。いくつも床の矢印は見つかった。直線は時に重なり合い、それぞれが各々の方角を差しているように見える。
古い種族が、天体の挙動を計測していた塔。
もしかしたら、それは確かにこの建物なのかもしれない。
しかし、
「違うよ、わたしたちの捜す『塔』は、こんなところじゃない。もっと大きくて、高くて――」
「ルカ」
再び、意表を突かれた。
目前のウトが、大きく、憐れむような溜息を吐いたのだ。
「……忘れてしまったの? わたしは覚えてる。呪われたわたしを、クレムやパッシュと店から救い出してくれたあの日の夜に、あなたは話した。この地の、最も古い塔の話を。この場所の話を。……あなたなんだよ、ルカ」
「何を、言ってるの」
「あなたは、焚き火に手を当てながら、愉しそうに話した。ルカ。他ならぬ、あなたが」
あなたを助けた日の、夜――?
ふたりの間に、一陣の風が、吹き抜けた。
ルカの記憶の奥底で、何かが、指先に触れた。
旅路を共に歩む仲間、拡縮を繰り返した『塔への集い』、その集団がそう呼ばれるようになる前の、ずっと昔のこと。
ルカが旅を始めて、まだひよっこだった頃。
あの夏も、暑い夏だった。
ここから、遥か西の地の平原だったか。
夕陽が落ちて、夜の闇が辺りに満ち満ちた時分に。
輝く焚き火を囲んで、ルカとふたりの仲間は、いつものように語り合ったのだ。
これまでの、これからの旅のことを。
語り継がれる、謎めいた物語や伝承や噂を。
自分が、旅に託す夢たちを。
多くのことを、語り明かした。
その中で。
――もしさ、もしだよ、その『塔』の頂上に着いたら、どんなものでも手に入るってんだったら、クレムたちは、どうする――?
そうだ。
クレムたちが驚くほどその話題に食らいついたのを、覚えている。
――焚き火から離した木陰に、今よりもずっと小さかったひとりの哀れな少女を、寝かせていたことも。
何気ない、言葉のはずだった。
どうして、どうやって。こうなってしまったのだろう。
単純な欲求から始まったひとつの仮定が、物語という衣を纏い、実在の伝承と一体化して、ひたすらに肥大し、噂は噂を呼び、それを招く噂すら作り出し、ついには『旅の大目的』へと、変貌していた。
最初に言い放ったルカ自身すら、真実を知らぬままに。
ふと、思う。
『塔への集い』は、実に個性的な集団だった。
実のところ、ルカには、どうして彼らが徒党を組んで、『塔』なるあてもない伝説を目指し、その夢を抱き死にゆくのか、最後まで、よくわかっていなかった。
今なら、理解できる。
あの面々には、ひとつの共通点があった。
皆、どこかが、満たされていなかったのだ。
夏の空を満たす黄昏の色、遥か高みを過ぎ去ってゆく雲、穏やかな風に波打つ蒼い平原、遠い鳥の鳴き声。
古ぼけた、どこにでもあるような、ひとつの塔の。
色褪せた無意味な矢印どもが床に刻まれた、平坦な頂上で。
託宣の少女が、告げた。
「ルカ。あなたは、この物語の主人公だったんだよ。最初から、ずっと」
不思議と、気分は平静だった。
ルカは、仰向けに寝そべっていた。
石の床は硬いけれど冷たくて、肌を撫でる夏の風は心地よく、視界に映る空はあまりにも広大で、寝心地は決して悪くない。
無言で、微笑んだ。
今。
この世界のすべてが、ルカを包んでいる。
【完】
塔とルカとウトと塔 ムノニアJ @mnonyaj
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