少女オトギは記憶を辿る
「端的に言ってムボウだと思うよ、クロちゃん」
「俺もそう思う」
神妙な顔で久路人は頷く。
屋敷の中は広い。曰く、最初のホールだけで久路人の棲家と同じ広さがあるのだ。残り一時間足らずの時間で、屋敷内全てを隈なく探索するのはどう考えても不可能だった。
ホールを奥に進み廊下に出れば、そこは館の中心部にあたる吹き抜けの空間が広がっている。正面には二階へと続く広い階段があり、おおよその部屋が見渡せたが、二階の方が部屋数が多いようだ。視界に映るだけでも十近いドアが並んでいるのを認め、探索が無謀な試みなのではとの疑念は確信に変わった。
腰に手を当てながら久路人はシャンデリアのかかる天井を見上げて息を漏らしたが、気を取り直して彼は篠宮を振り返った。
「とりあえず、一階から見ていきたいなーって思うんですけど。……応接間って、今なら入っても大丈夫です?」
「駄目です」
進言は篠宮にあえなく却下される。
「既に夜会の準備を済ませてありますから立ち入りはご遠慮願います。
それに元より、応接間は貴重品が多く保管してあるので、普段から施錠してあります。お嬢様はほとんど出入りしませんから何も得るものはないと思いますよ」
そう言われてしまっては、無理に頼んでいる身としては引き下がるしかない。
仕方なしに彼らは、応接間を除いた別の部屋を見ていくことにした。久路人と乙木だけでなく、案内役と目付役を兼ねて篠宮も同行する。乙木は先程より固さは取れたが、やはり警戒を解ききれないのか、久路人にべったりのままだ。
「……言うのは簡単だけどさあ」
「どうしたの?」
「いや、……こりゃ、なかなか手強そうだなと思って。さっすがに広いだけあって、モノも多いわ」
乙木にそうぼやき、久路人は辺りを見回しながら廊下の途中で立ち止まる。
部屋と部屋とを繋ぐ廊下には、ところどころ小さな棚が備え付けられ、上には調度品が飾られていた。家の主人が好きなのだろうか、とりわけ花瓶が置かれているのが目立つ。シンプルな色形から、観賞用ではなく実用的なもののように見えるが、どの瓶にも花は刺さっていない。
物珍しそうに久路人は近寄り、しげしげとそれを眺める。
「クロちゃん、置いてくよー」
「ごめんごめん。今、行くよ」
余所見をしながら慌てて歩き出そうとした久路人は、棚の足元へ思い切り自分の爪先を引っ掛けてしまった。
「うわっ!?」
久路人は棚を巻き込み、盛大に音を立てて倒れこむ。上に乗っていた細長いガラスの花瓶も地面に落ちるところだったが、危ういところで篠宮が受け止め、事なきを得た。
口を引きつらせながら久路人は慄く。
「思ったより派手にやっちまった……」
「気を付けてくださいね」
厳しい口調で篠宮が諭す。
「今は割れずに済みましたが、この屋敷には高価なものが山とあります。流石に物を壊されてしまったとなれば、こちらも相応の手段をとらせていただきますよ」
「本当すみません! ……さっきの時計も高そうだったし、アンティークかなんかですか」
「はい。あの時計も、壊れかけとはいえかなり貴重なもの。決して触らないでください」
「肝に命じます……」
ぶるりと身震いし、久路人は大人しく篠宮の後に続いた。
+++++
「ええっと。リビングにキッチンや諸々の部屋は見て回ったけど、オッケイ、特に異常ありませーん。
玄関ホールの探索はしてないけど、最初に通ったからまあよしとして。
階段の左手にあるっていう応接間と、一番突き当りの奥にある篠宮さんの私室以外は全部チェック済み、っと。一階はこんなもんかな」
再び階段の前に戻ってきた久路人は、指折りこれまでの状況を確認した。
館の見学は滞り無く進んでいたが、特に得られたものはない。乙木の記憶も戻る気配はなかった。
「駄目だったねえ」
「駄目だったねー」
乙木の残念そうな声へ暢気に答える。だが腕時計を見れば、時刻は既に四時四十分を過ぎている。のんびりしている暇はなかった。
二階フロアを仰ぎ見ながら、久路人は篠宮に尋ねる。
「二階は何が?」
「ほとんどが客間です。現在は使われていない部屋も多いですが、奥様の私室や書斎、それと乙木お嬢様のお部屋がございます。何か記憶に繋がるものがあるとすれば、そこでしょう」
「私の部屋!」
嬉しそうに乙木は顔を綻ばせた。
「行こう! そこに何かある気がする!」
久路人の手を引いて、乙木は勇んで階段に足を掛けた。掴んだ乙木の手は、まるで氷のように冷たい。
後ろから、静かに篠宮が釘を刺す。
「くれぐれも静かになさってください。どうか奥様に悟られぬよう。お嬢様はいいですが、久路人さんは見つからないようにしてくださいね」
「了解っす」
頷いてから、久路人は乙木に引っ張られるようにして階段を上がる。浮足立った乙木は、軽快に段を登りながら言った。
「ねえ、クロちゃん。私のママって、魔女だと思う?」
「……だったらどうする?」
「格好いい!」
即答し、乙木は目を輝かせる。
が、その後で、にわかに彼女は頬を膨らませた。
「でも、なんで教えてくれなかったのって言う! あとね、私にも魔法教えてもらう!」
「そっかぁ。……教えてもらえるといいねぇ」
曖昧に笑って、久路人は二階の床を静かに踏みしめた。
乙木の部屋は、これまでに見た部屋と比べるとだいぶ慎ましいものであった。
木製のベッドに机、タンスなど最低限の家具があるのみで、調度品のたぐいはほとんどない。ベッドの上に数個のぬいぐるみが転がっているだけである。ピンクのカーテンに淡いイエローの枕カバー等と、パステルカラーがちりばめられた室内は決して質素ではないが、客を迎える下の階と違い実用性を重視しているようだった。
柔らかい色合いでまとめられた部屋の中で、唯一異彩を放っていたのが、ベッド脇にあるサイドボードの上に置かれた銀色のアタッシュケースである。さほど大きくないそのケースは、無造作に開かれたままになっていた。
「ああ。申し訳ありません、置き忘れておりました」
視線に気付いた篠宮は、そそくさとアタッシュケースを回収する。
「それは?」
「お嬢様の注射です」
蓋を開いて篠宮は一瞬、その中身を見せた。ちらりと見えた注射針は、久路人が想像していたものよりだいぶ太い。
注射と聞いて再び久路人の後ろに隠れた乙木を一瞥し、篠宮はすぐに蓋を閉じる。
「ご安心を。今はしませんよ。後で、またする必要はありますが」
「やだ! 近寄らないで!」
「嫌われたものですね」
苦笑いして、篠宮はアタッシュケースのロックをしっかりと閉めた。
「危ないですので、一旦下の階に戻してきます。部屋の中を探す分には問題ありませんが、迂闊に外に出て奥様とはち合わせないようにしてください」
「それ、普段はどの部屋に保管してあるんです?」
「私の部屋ですよ。お嬢様の手に触れるところは危ないでしょう」
言い残して、篠宮は足早に部屋を出た。
残された久路人と乙木は、部屋の中を探索し始める。幸いにして、さほど広い部屋ではなく物も少ない。あまり時間はかからないだろう。
タンスの中を開けた久路人は、ハンガーに掛かっている洋服を眺めた。掛かっているのはほとんどが夏物の半袖ワンピースだ。
「ねぇ。乙木ちゃんて、暑がり?」
「なんで?」
「半袖ばっかりだからさ。ここ山だし、冷えない?」
「昼間は大丈夫だよ、だって夏だし……あ、何かあった!」
机を探していた乙木が高い声を上げる。手にしていたのは、厚い布張りで装丁されたB6サイズのノートだ。頁をめくれば、たどたどしい文字で上部に日付と、毎日の記録が簡単に綴られている。どうやら日記帳のようだった。
『7月3日
たんじょうびプレゼントに、ママからぬいぐるみをもらいました。それから、パパからこの日記をもらった。毎日いろいろ書いてってパパのおねがいみたいなので、毎日がんばって日記を書きます。』
『7月30日
今年もいつもと同じように、山のおうちにきました。山のおうちは涼しくて好きです。しゅくだいをやって、いっぱい遊びたいです。』
『8月23日
今日はママの友だちが遊びに来て、パーティーをしました。いろんな人と会えて、とても楽しかったです。夜おそいから、私はねちゃったけど、早く大きくなって最後まで起きられるようになりたい。
もうすぐ帰らないとだけど、このままずっと夏休みだったらいいな』
途中で夏休みの記録は終わり、新学期の学校での出来事が綴られていく。書かれているのは些細な物事ばかりだが、乙木を思わせる天真爛漫な日記だった。
乙木は、少し睨むようにして久路人の手を掴む。やはりひんやりとした手の感触に、思わず彼は動きを止めた。
「クロちゃん、恥ずかしいから読み上げないでよ」
「え、思い出したの?」
「思い出してはいないけどー。だって、私のなんでしょ。覚えてないけど、ちょっとやだよ」
「えっと次は9月30日ぃ」
「やめてよー!」
しかし乙木の制止は別の意味で無駄となった。ある時点から、ぱたりと日記の記載はなくなっていたからだ。
めくれどめくれど、ノートには空白のページが続く。書くのに飽きてしまったのだろうか、と頁をぱらぱら繰っていくと、やがてノートの真ん中あたりで再び文章を発見できた。
今まで書かれていたような大きい丸文字ではなく、小さく整った几帳面な字だ。日付は、記載されていない。
『パパとお兄ちゃんのところに行くことになった。
いきなりだから不安だけど、今よりはいい。
だけど。自由がなくなるその前に、最後に楽しかったあの家の思い出をもう一度だけ噛みしめたい。
時間は元に戻せない。けれど、止まってしまった時間なら、私は動かすことが出来るだろうか。
これは単なる逃避なのかもしれない。だけど私達が前に進むためには、一度きちんと向き合ってけじめをつけないといけないのだ。
これがよくないことだとは分かっているけれど。
最後に少しの夢を見るくらいなら、許されるだろう。』
書かれていたのは、それだけだ。
今度こそ日記はそこで終わっていた。
読み上げた後でしばらく黙り込んでから、久路人は隣の乙木を横目で窺った。
「パパとお兄ちゃんって、知ってる?」
乙木はぶんぶんと勢い良く首を振る。やはり日記を読んでも、そう簡単に記憶は戻らないらしい。
続けて久路人が乙木に何かを問おうとした時。
ボーン、と、階下から時計の音が響いた。
慌てて久路人は手元の腕時計をのぞき込む。タイムリミット、五時だ。時間切れを知らせる鐘の音は、五つの間延びした音を鳴らしてから沈黙した。
タイミングを見計らったかのように、廊下からはドアの開閉する音、そして誰かの足音が聞こえる。篠宮が戻ってきたか、と久路人は渋面を浮かべるが、不意に乙木は目を見開き立ち上がった。
「思い出した!」
「え?」
ぱっとドアの前まで駆けだし、乙木は部屋のドアを開けた。
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