トワコ奥様は笑顔を弄す
「ママ!」
廊下に飛び出した乙木を追い、久路人も後に続こうとする。
が、入れ違いに戻ってきた篠宮が部屋に滑り込み、久路人を押し留めた。
「ここでお待ちください。……あなたは招かれざる客です。いることが知れれば奥様に私が怒られます」
後ろ手でドアを閉めながら篠宮は抑えた声で告げた。彼の圧力に、久路人は無言で頷く。
ドア越しに耳だけはそばだてて、久路人はじっと息を潜めた。
「ママ、ただいま!」
満面の笑みでもって、乙木は彼女の前に躍り出る。
支度を終え私室から出てきたらしい乙木の母――十和子は、黄色の明るいサマードレスに身を包んでいた。
「あら、乙木。お帰りなさい、今日も楽しかった?」
「うん!」
元気に返事をした乙木を見つめ、十和子はふわりと優しく笑うと、乙木の肩を優しく撫でた。
乙木は、ぱちりと目を瞬かせる。
「今日はママの友達が沢山来るの。先にママは下で友達とお話ししてるけど、お腹が空いたら乙木もいらっしゃい」
「はぁい」
「それからね」
十和子は身を屈め、乙木の肩口で内緒話のように囁いた。
「今日は、こっそり乙木のお兄ちゃんも来ることになっているのよ。秘密だけど、後で会わせてあげる」
「本当?」
母からの意外な申し出に、乙木は更に明るい声を挙げる。
だが。
どこか、彼女は不思議そうな表情を浮かべたままだった。
十和子が立ち去ったのを見計らい、篠宮が部屋のドアを開ける。気付いた乙木は、しの、とぼんやり呟いた。
乙木を部屋に迎え入れてから、篠宮は久路人を振り返る。
「もうよろしいでしょうか。お嬢様の記憶も戻ったところですし、久路人様は裏口から外へご案内します。
乙木お嬢様も、いいですね?」
「……うん。ごめんなさい、しの」
どこか上の空で、しかし乙木は素直に頷いた。
一方で久路人は、篠宮の言葉には返事をせず、じっと乙木を見つめたままだ。左手を耳に当てながら、何事かを思案しているようだった。
やがて、彼は顔を上げてまっすぐ篠宮へ向き直る。
「すみません、篠宮さん。無茶を言っているのは十分承知ですが、……ちょこーっとだけ、応接間を見せてもらうことって、できます?」
篠宮は不服そうに口を開きかけるが、その前に久路人は畳みかけるように言った。
「勿論、ばれないように影からひっそり見ます。一応は、乙木ちゃんのお母さんの顔を確認して帰らないと、……今度は俺じゃなく、別の者が噂の真相を後日確かめに来ることになってしまうので。いいですかね」
丁寧な物腰だが、しかし有無を言わせぬ含みを持たせて久路人は言い募る。
やがて根負けした篠宮は、不精不精、彼の頼みを承諾した。
+++++
音を立てぬよう、そろそろと一階に降りる。彼らが二階にいる間に集まったのだろうか、応接間の方からは何人もの人の話し声が聞こえていた。クラシックと覚しき優美な音楽も流れている。廊下にも、いつの間にか色とりどりの花々が活けられていた。
彼らは直接は応接間に向かわず、キッチンへ赴いた。料理を給仕する都合上、キッチンには応接間の様子を窺えるのぞき窓がある。そこから応接間を見ることが許されたのだ。
ただし今回の場合、既に料理は用意されているようで、キッチンに人気はない。よく考えれば執事は篠宮一人なのである、それは当たり前だった。
「どの人が、乙木ちゃんのお母さん?」
「えっとね……あの、黄色のドレスを着てる人」
窓からこっそり覗きながら、ひそひそ声で二人は話す。
応接間には、実に十数人のめかし込んだ人が集まっていた。大人に混じって少年の姿もある。テーブルの上にはサンドイッチや果物等の軽食とワインやビールのボトルが並び、来客者は思い思いにお酒と会話を楽しんでいた。
十和子はその輪の中心に立ち、堂に入った様子で来客へ応対している。
「綺麗な人だね」
「うん……うん、ママは綺麗なの」
記憶を取り戻して以来、何かが引っかかった様子で乙木の言葉は歯切れが悪い。そんな乙木を、久路人は気遣わしげに見つめる。
そして、まるでそんな彼女の背中を押そうとでもするかのように。
彼は、口を開いた。
「『よく、見て』」
ぼそりと、彼は乙木にだけ聞こえる音量で囁く。
今までとは違うトーンの声音に乙木ははっと顔を上げ、久路人の横顔を見つめた。彼は篠宮に悟られぬよう視線を窓に戻すと、やはり低く抑えた声で彼女に告げる。
「『違和感に気付けたら、君の勝ちだ』」
謎めいた言葉だった。彼が言わんとすることは、にわかには乙木に分からなかった。
けれど彼の言葉を受けて。
じっと。
じっと、乙木は窓の向こうにいる母を見つめた。
応接間にも玄関ホールと同じく暖炉があり、その上にはアンティークの時計が置かれている。
時計が示す時間は、五時二十分。
「ママ……?」
乙木は無言で踵を返して駆けだし、キッチンを後にする。一瞬、あっけにとられながら、慌てて久路人も後を追った。
乙木が転がるように駆け込んだのは、二階にある自分の部屋だ。
先ほど見ていた日記帳を再び引っ張り出すと、裏表紙を開く。よくよく見ればそこにはポケットが付いており、外から簡単には存在が分からないようになっていた。
彼女は、その隠しポケットから一枚の写真を取り出す。
「『8月23日。今日はママの友だちが遊びに来て、パーティーをしました』」
先ほどの日記に書いてあった文言を彼は反芻する。
「乙木ちゃん。……さっき、引っかかったけど、言わなかったことがあるんだ」
久路人の言葉に、乙木は答えない。
震える手で写真を握りしめ、それを凝視している。
「俺が寒くないのか聞いたとき、君はさっき『だって夏だし』って言ったよね。
けどさ。今はまだ、5月上旬、なんだよねぇ。
初夏って言えばそうかもしれないけど。女の子が山の中で半袖でいるのは、ちょーっとまだ早い時期だ」
久路人の服装は、長袖のシャツにスラックス。山に入ると考えれば長袖は適当なのかもしれないが、それにしても夏場だとしたらタイまでは締めない。ここは学校ではないのだ。
「……そん、な」
写真に写っていたのは、乙木と、ベッドに横たわる十和子だった。
ただし、乙木の姿は今よりも幾分幼く、小学校高学年に見え。
乙木の母・十和子は、今よりも老け、頬骨が出るほどに痩せこけていた。
「ママ……!」
「乙木ちゃん。……君は、過ぎ去った時間の中に、今なお閉じこめられているのかい?」
悲鳴にも似た声を上げた乙木に、久路人は問いかける。
その、背後から。
「まだ処分していない写真があったんですね。私の手落ちでございました」
部屋の入り口に立っていたのは、執事の篠宮だった。真顔で部屋に入ると、つかつかと乙木の元へ歩み寄る。
「そのような忌まわしい記録は処分しましょうとお伝えしたはずです、お嬢様」
「……しの」
「私達に在るのは、奥様が一際輝いていらしたこの夏の記憶だけでいい」
篠宮は乙木が手にした写真を奪い取ろうとする。
しかし。彼女は、それを手離そうとはしない。
「茶番は、ここまでだよ」
そして『誰か』は、口を開いた。
「さあ。
――答え合わせと、いこうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます