シツジ篠宮は懸念を示す

 延々と続くかに思えた小道も、抜けてしまえばほんの数分のことであった。陰鬱とした緑のトンネルの先は、手入れの行き届いていない伸び放題の芝生の広場になっている。右手にはかつての庭園らしきものがあったが、野生化してしまった花園は見る影もない。庭園の側に置かれていたベンチも、今や風化を待つばかりとなっている。


 そして、彼らの真正面に鎮座していたのが、ひときわ異彩放つ『幽月邸』であった。


 炭のように黒い壁に、今なお褪せぬ赤い屋根。ぱっと見の雰囲気からは煉瓦造りかと思えたが、近くでよく見れば木造である。ところどころ塗装が禿げた外壁は、否応なしに年月の経過を感じさせる。

 二階建ての洋館は高さこそ普通であったが、驚くのはその広さだ。シンメトリーの外観はさながら学校の校舎のようで、玄関の脇にある部屋はそこだけで教室ほどの広さが悠にある。何も知らずに来たのであれば、山村の小洒落た廃校だと言われても信じてしまったかもしれない。


 日本の山の中にはおよそ似つかわしくない巨大な寂れた洋館。しかも庭はご覧の有様で、確かに幽霊が出ると噂されてもおかしくない佇まいであった。


「よく燃えそうな建物だなぁ……」


 額に手をあてて久路人は幽月邸を仰ぎ見る。真似して同じように館を眺める乙木に、久路人は聞いた。


「見覚え、ある?」

「ない!」


 やはり元気よく答えた少女は、跳ねるようにしてエントランスへ続く数段の階段を駆け上がる。最初に話を聞いた時は幽霊と聞いて少々怖気づいていたが、『魔女』というフレーズへの好奇心が勝ったのか。

 それとも、


「『他に彼女を惹きつける要因があるのか』、ってとこ? ……いずれにせよ、まだ分かんないねぇ」


 ぼやいて、久路人は乙木を追った。



 律儀に久路人を待っていた乙木は、彼が到着するや否や、躊躇なく扉に手をかける。が、扉には鍵がかかっているようで、がちゃりと鈍い音に阻まれた。

 出鼻を挫かれ不服そうな表情を浮かべた乙木に、久路人は胸元の鍵を指差す。乙木ははっとして手を叩くと、少しばかり緊張しながらゆっくりと鍵穴にそれを差し込んだ。

 かちゃりと、錠の外れる小気味いい音が耳に届く。


「……こりゃまー都合よく開いたねぇ乙木ちゃん」

「開いたね! じゃあ、ここ私の家?」

「さぁて、どうですかねー」


 呟きながら、久路人は乙木に手を貸し扉を押し開く。乙木には少し重かったらしいその扉は、ぎい、と古めかしい音を立てながら開いた。




 外から見れば非常に近寄り難い幽月邸だが、館内は存外に綺麗だった。板張りの床にはモップを掛けた形跡があり、棚の上や手すりにも埃はみられない。幽霊屋敷という噂が馬鹿馬鹿しくなるほどに、内部は手入れが行き届いていた。

 明らかに、人が住んでいる。


 玄関を入ってすぐのホールは、日本のそれとは比べ物にならないほど広い。ちょうど正面にあたる壁には暖炉が備え付けてあり、上の棚にはアンティークの時計が飾られている。暖炉の側には二組のソファーが置かれており、ホールというよりはもはやリビングのような空間であった。


「えっ……既にこの部屋だけで俺の家くらい広いんだけど、どゆこと?」

「それは流石に狭いよクロちゃん」

「ごめん、それは認める。でもうん、言わないで乙木ちゃん。切なくなる」


 扉の音と話し声から、彼らが館に来たのを察したのだろうか。ホールの奥の方、暖炉の右脇から伸びる廊下より足音が聞こえた。

 やがて姿を現したのは、執事服に身を包んだ壮年の男である。彼は乙木の姿を認めると、安堵したように声を漏らした。


「どちらへ行っていらしたのですか、お嬢様」

「だあれ?」


 怪訝に乙木は首を傾げ、一歩後ずさる。彼女の反応に久路人の方が焦り、乙木と男とを交互に見やるが、どうも慣れているらしき男はにこやかに笑みを浮かべて告げた。


「貴方のお屋敷にお仕えしている、執事の篠宮しのみやですよ。またお忘れですね、乙木お嬢様」

「だって知らないんだもの。私が誰かも知らないのに、知るわけないでしょ」

「そうでございましたね。これはこれは、失礼致しました」


 乙木の言葉に丁寧に受け応えてから、篠宮は久路人に向き直り礼をした。


「お嬢様を送り届けて頂きありがとうございます。どうお礼を申し上げればよいか」

「いえ。俺は、ちょっとそこで会っただけなので」


 途端に大人しくなった乙木をちらりと横目で見てから、久路人はおずおずと尋ねる。


「あの。部外者の俺が聞くのも、なんですけど。……彼女は、どういう」

「乙木お嬢様は、記憶の病気なのですよ」


 篠宮はさらりと答えた。


「お嬢様の記憶はほとんど保ちません。8歳の頃から乙木お嬢様の時間は止まったままなのです。

 昔から知っている筈の自分のことも家族のことも、その時によって思い出したり忘れたり。なので、時には今のように全てを忘れておしまいになるのです。

 治療のために、毎日注射を打たなければならないのですが……今日もそれが嫌で、私がふと目を離した隙に逃げ出してしまいまして。その後で、また記憶を失くされてしまったようですね」


 注射、と聞いてびくりと身を震わせた乙木は、久路人の後ろに隠れる。

 なるほど、確かに苦手なものではあるらしい。


 篠宮は乙木を覗き込むと、手を差し出して宥めるように言い聞かせる。


「さあ、戻りましょうお嬢様。この方にご迷惑ですよ」

「戻らない。行かないから」

「我侭はそのくらいにしてください。大丈夫ですから」

「やだ。知らないもん!」


 乙木は篠宮の手から逃れるように、尚も久路人の背に張り付いた。


「分からないのに行きたくない! だったら、クロちゃんが一緒じゃなきゃやだ!」

「……随分と、懐かれたようですね。人見知りの筈ですが、珍しいこともあるものです」


 困ったように篠宮はため息をついた。

 と、不意に久路人は目を見開く。


「……え」

「どうされました?」

「あ、いや、その。……ちょーっとお聞きしてもいいですか」

「何でございましょう?」


 一つ、深く息を吸い込んでから、久路人は至って真面目な口調になり告げた。


「俺は、からやって来た者です。この辺りに魔女が潜んでいるという情報があり、それを確認するために来ました」

「研究機関……ですか。それは、ご苦労さまです」


 淡々と篠宮は相槌を打つ。

 続けて久路人は矢継ぎ早に質問を重ねた。


「魔女が潜んでいるという噂に、心当たりは?」

「御座いませんね。しいて言うなら、この館自体が幽霊屋敷みたいな見てくれですからね。そういった噂に、尾ひれが付いたとしか」

「貴方以外の方にもお話を聞くことは出来ますか?」

「できません。使用人は私一人ですし、生憎と奥様は人嫌いなもので。申し訳ありませんが、旧来のご友人を除いた来客は全てお断りするよう申し付けられております」

「その乙木ちゃんのお母さんに、変わった様子はありませんか?」

「御座いません。変わったことがあれば、真っ先に気付きます。……何故です?」


 怪訝な篠宮の眼差しを受け、静かに久路人は言った。


「もしかしたら、乙木ちゃんの病気というのは魔女が関与している可能性があるからです」

「……まさか。いくら魔法とはいえ、ここまで記憶に介入することは出来ないと医師からも聞いておりますよ」

なら、あり得ます。普通は無理ですが、人に害為す強力な力を有するという魔女であれば、それが出来てもおかしくはない」

「……確かに。そう、かもしれませんが」


 久路人は、自分の背後に取り付いた乙木を振り返る。不安そうな眼差しを向ける彼女を落ち着かせるように微笑んでみせてから、久路人は提案した。


「こういうのはどうですか?

 俺は乙木ちゃんと一緒に館を捜索して、彼女の記憶が戻るのを手伝う。ついでに、魔女の痕跡がないか調べます。

 もし魔女の所為で彼女がこうなっているのだとすれば、身近なものに手が加えられている可能性が高い。痕跡があれば、それなりに分かりますから。

 何も怪しいものが見つからないようなら、大人しく帰ります。乙木ちゃんにもそう言い聞かせますんで」


 しばらく篠宮は黙りこんで思案していたが、やがて諦めたように頷いた。


「分かりました。お嬢様の気も済まないようですしね。

 ただし、探索するのは五時までにして頂けますか。本日は奥様がご友人を呼んで、応接間にてホームパーティを開くことになっております。それまでには終わらせてください」


 久路人は暖炉の上にあったアンティークの時計に目を留める。時計の文字盤が示しているのは、五時だ。


「あれ? もう五時?」


 慌てて久路人は自分の腕時計に目を落とした。だが時刻はまだ四時を少しまわったところだった。


「止まっているんです。

 この時計も。お嬢様と同じように、止まったり、動いたり」


 そう告げて、篠宮は微笑んだ。

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