一節 維摩 一日目 五 森虞と覚羅
維摩が帝宮に入ると、後ろから怖気た声で話しかけられた。
「あ、あのう」
維摩は声のした方へ振り向いて見ると、そこには同い歳ぐらいで見覚えがある女が一人、叱られるのを待っているような不安顔で立っていた。確か彼女、マヤ姫に付けられた女官の一人で、呼ばれていた名を『カクラ』いった。維摩は失礼があってはならないと思い、カクラに恭しく一礼した。
「これはカクラ様。如何されましたか」
高貴な気風を漂わせる維摩に、随分と気の抜けた声が返って来た。
「あ、えっ。あれぇ」
「如何致しましたか」
後で知ったのだが、どうやら彼女は維摩のことを雲の上のような身分と思っていたのだ。だが、維摩が馬鹿に丁寧な礼をしてくるので、抱いていた畏怖が困惑へと変化してしまったのである。
「あ、いえ……。と、とりあえず寝室は綺麗にしておい……おきましたので」
「御対応、感謝致します」
「いえ、それ程でも……えっと、これから私達の部屋に案内するので一緒に来て下さいませんか」
「失礼ですが、斎宮様の部屋に側付き用の一室が設けられていたと記憶しているのですが」
「姫殿下のお達しで、その部屋に触れること一切罷り成らない。と、こう仰ってまして……」
成程。あの部屋にはライナの床が敷いてある。これ以上、ライナの何も汚されたくないという理由から、女官にそう申し付けたのであろう。
「解りました。では斎宮様が御就寝なされる前に一度お目通りしてからで宜しいでしょうか」
「あ、あの、斎宮様は……今日はもう誰とも会いたくないと、そう……」
一瞬、その言葉を無視して差し上げようか、とも思った。しかし、それをやるとマヤ姫の意固地が悪化してしまいそうだったので、ここは素直に引いておくのが賢明であると思い直した。
「これはお恥ずかしい。左様な次第であれば仕方ありません。ご案内願います」
「はい。こちら……あ、違、こちらです」
維摩を自室に案内するつもりが、マヤ姫の客室へ足を運ぼうとしていたカクラ。彼女は維摩を自分の部屋に案内しようとした筈であったが、マヤのことについて少し会話をしただけで、頭の中で固まっていた筈の事柄が、何時の間にか溶融して他事と混ざってしまったのである。どうやら彼女、こういってはなんだが、要領の良くない人のようだ。
拙い彼女の背中に付いて行くと、ある一室の前に到着し、その中へと維摩を誘った。
そこに足を踏み入れた維摩は、おお、と感嘆した。
マヤ姫の賓室には劣るものの、親那様式の豪華で重厚な装飾が惜しみなくあしらわれていた。重厚なる親那様式と聞くと、その色調に親那三色を想起させるが、それは親那様式であっても王侯のそれである。維摩の目を惹いたこれは、〇〇の時代に親那の中層が豊かになった時代に隆盛した、謂わば中層発出の装飾様式である。これは全体的に木材や土、深緑などの自然的な色彩ではあるが、装飾は細微に渡っていて、後で具に観察したところ四方の太い柱には親那の自然、主に草原と駒を彫り出していて、壁も落ち着いた色の石を重ね、中央に据えられた木の彫刻も、漆を塗っただけで彩色は無く、自然の色を保っている。それらを観察するに、驕気や軽薄の類は無く、重厚といってもそれは権力を現すものではなく、自然の威を示すものであった。しかし、石は半永久であるが、木材は流石に劣化を免れない。そのため、持ち込まれた一部の家具からは、時代ずれした近代の世俗的空気が放たれていて、それが自然に唾しているように思えて仕方なかった。
維摩は部屋の中央の、五、六人程が囲めそうな、円卓に座っている者と目が合った。すかさず維摩は一礼すると、その者は楚々と立ち上がって微笑むと丁寧な礼で維摩に応えた。名玉を散りばめたような濃厚な翡翠色の髪が印象に残る。彼女はカクラと同じくマヤ姫に付けられたもう一人の女官で『シング』と呼ばれていた者だ。
「随分と立派なお部屋ですが、ここは客室でしょうか」
維摩が問うと、なんとも大人びた声が返ってくる。
「いいえ。ここは奥御殿の女官に与えられた部屋の一つです」
女官。
維摩は家臣であって、雑用を主務とする女官とは違うのだが……私のことを召使いと勘違いしていないか。今すぐ伺候府に抗議してやりたい気に掛かられたが、ここで我儘を言って揉め事を生む程、物分りの悪い維摩ではなかった。それに相部屋とはいえこんな豪華な部屋に泊めて貰うのだ。相応の待遇であろう。ただ、枢侍というアグリの歴史を支えた存在を、少しばかり否定された、と感じただけだ。ただそれは、維摩の主観から生じたものに過ぎないのだから邪推である。後ほど事情を話す機会もあるだろう。その時に改めて貰えば良い。維摩はシングに微笑み、謙遜して言った。
「一時とはいえ、私にこのような豪華な部屋を使わせて頂けることに感謝致します」
「この部屋を使うよう取り計らったのは伺候府長様です。ですが、大いに歓迎致します」
華美と清楚を兼ね備えたその容姿は、まるで花蜜のように豊潤な花香を漂わせると思いきや、その挙は陽光を捉えた朝露のように澄んでいて、少し緩まった唇から出される完璧な抑揚は、高貴の産であることを維摩に示していた。凡その男子は、彼女が吐く言葉に含まれた虚飾を僅かでも浴びれば、きっと勘違いを起こすであろう。これは維摩とはまた違った女の美を現前させていた。
「申し遅れましたが、私の姓名は安無羅・森虞・籟。北域『琥崑』臣領の出です。どうか森虞と御呼び下さい」
「わ、私は」
後ろのカクラが続こうとするも吃ってしまい、その間隙を突いた森虞が彼女の言葉を遮った。
「後ろの紅髪の者は、姓名を覚羅祖素。正南、楚津の出身。覚羅で御呼び下さい。風変わりな容貌ですが、どうかよしなに」
維摩は後ろに目をやると覚羅は「ひどい」と言っていじけていた。彼女は炎の様な真紅の短髪に少し褐色がかった肌をしている珍しい容貌を持っていた。
だがそれ以上に維摩の関心を引いたのは、彼女を初めて見た時の印象とその性格が真逆であるということだ。覚羅は髪と肌が活発を思わせる色であるのに加え、切れ上がった大きな目をしていて、口元は締り、声は少し嗄れ、加えて、体つきは普通より小柄ではあるものの華奢ではなく、肩がしっかりとしていて、全体に無駄な肉が無い。要は心身共に壮健である風に見えるのだ。見立てるとしたら、苛烈な訓練を受けた女戦士が相応だろう。だが、ほんの数刻ではあるが、その仕事ぶりを見る限り、初見に抱いた印象を大きく裏切り、言ってしまえば要領が悪くて、落ち着きがない。そして、小心なのだ。
何故このような者が親那の帝宮に。しかもよりにもよってマヤ姫に。そう、疑問を持たざるを得ず、これもアグリが小国であるためか、と自虐的な感が維摩の心に湧く。
だが、幸いに森虞は覚羅の欠点を補うかのような仕事ぶりを見せてくれることとなり、彼女の存在がこの悲観的状況の数少ない希望となってくれる。
「イヅマ・グイ・維摩です。子細は伺候府長様から」
「勿論でございます」
「では、イヅマと御呼びください」
「畏まりました。イヅマ様」
森虞は再び礼をした後、維摩の後ろに居る覚羅に視線を送った。それを受けた覚羅はきょとんとして首を傾げる。
「何」
「早く支度を」
「支度」
はてな、と覚羅は首を傾げる。
「早く」
「え」
森虞は「失礼」と維摩の横を掠め、覚羅詰め寄るようして耳打ちした。
『貴女が空腹のあまり、土塊や石ころを口に突っ込まないようにするため、貴女が今何をすべきか、貴女が今さっきここを出て行く前、その耳にしっかと言葉を入れた筈よ。さぁ、今すぐその足りない頭を捻って、それを捻り出しなさい。それが出来ないのであれば二度とモノを食めないよう歯を全部引っこ抜くわよ』
覚羅は顔を青くして「直ぐにっ」と、疾く疾く部屋を出て行った。森虞が何を言ったのかが不明である維摩であったが、覚羅の青い顔を見て、どぎつい言葉を放ったことだけは理解できた。
「今すぐ夕餉の支度をさせます。それまでに湯浴みを楽しみ、長旅の疲れを御流しあれ」
成程。森虞は維摩のために色々と心を尽くしてくれていたようだ。ただ、覚羅に見せた態度と比較すると、彼女の様子は少し卑屈が過ぎるくらいに丁寧だと思えた。
『何か理由があるのか』
もしかして、ライナとマヤ姫のことで自責の念を抱き、それが維摩への気遣いとなって表れているのではないのか。少し彼女の善意を持ち上げ過ぎかかもしれないが、維摩にはそう思えた。彼女らは上京して間もない見ず知らずの姫御に献身し、伺候府長もそれを評価していた。故に、自身を呵責するに値する咎めは無いであろう。
それならば、ここは素直に彼女らのささやかなる歓待を受けようではないか。それで彼女らの良心が少しでも安らぐのであれば、それに越したことはない。実際、今日の維摩にはその細肢に軽く無い負担と、国家の難件を課せられたのだ。応えない理由がない。
維摩は勧められるがまま、湯船に浸かって身を温め、その後に覚羅と森虞と共に食卓を囲んで、互いの身の上話に花を咲かせたのであった。
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