一節 維摩 一日目 三 後宮

 伺候府から廊下を歩いていくと、大きな門が口を開けている場所に出た。ここからが帝宮であると、蹄笳は説明する。


 この門、維摩の目には珍しい光景として映った。というのも、まるで都市の城門のような強固で巨大な扉を有していたからからだ。何の意図があってこのような代物を設けたのであろうか。維摩はこの存在の合理性を疑った。


 この門、両端に衛所のようなものが設けられており、剣と拳銃を携えた二人の軍服姿の女が屹立する。後で知ることとなるのだが、帝宮の衛兵は全て女性が務めているとのことで、彼女らがまさにそれであったのだ。女ばかりの皇宮に男が居ると何かと厄介の種となるための配慮であると思われた。


 故に、ここからは男子禁制……と思いきや、蹄笳は礼をして何事も無く門を潜った。伺候府の長は何事も無く通れるようである。維摩も礼をして、同じ様に門を潜ろうとするが、衛兵から一端立ち止まるよう維摩を制止した。目尻に朱を細く塗って、きりりとした顔を作った衛兵が近づいてくる。


 服を脱いで女であることを証明しろ、なんてことを言われるのか。と、思っていたが、体を見回したのと、鼻先で服を擦るように、やたらと顔を近づけてきたことぐらいで他は何も無く通ることができた。後で聞いたのだが、彼女達は相手の顔と臭いで性別が解るらしい。なんとも動物的である。


 こうして維摩は親那の帝宮へ足を踏み入れたのであるが、その外観、また規模については何の前準備もできなかったために全くの無知であった。しかし大帝国の帝宮である。小さい筈が無い。そう踏んでいたのであるが、その割には標識、表札の類が一切無い。深く歩み入ると、自分の位置の特定が著しく困難になるのではないかと、維摩は怪訝に思った。


 これも後で聞いた話であるが、そもそもこの帝宮、親那がその版図を広げるのと並行しながら、増改築を繰り返して肥大していったために、信じられない程巨大な空間を要しており、地上地下前後左右に渡って廊下が網目のように広がっていた。つまりは案内人無しにここを歩くとなれば、迷宮を探索するに等しいのだ。せめて、案内板のようなものでもぶら下がっていればいいのだが、そんなものは影も形も無い。初見殺しにも程があった。


「流石は神城の宮殿。二日、三日廻っただけでは道を覚えられそうに無いですね。なにか標のようなものは無いのですか」


 蹄笳は維摩を先導しながら答えた。


「ありませぬ。というのも、狼藉者が侵入した際、その目的を助けるような事があってはなりません。故、そういった類のものは付けておりませぬ」


 成程。だが、慣れるまでは実に難儀を伴うことであろう。


「斎王宮下はもう慣れた御様子でしょうか」


 彼は一寸の間を置いてから、僅かに言葉を引き攣らせる。


「い、いえ……斎王様は部屋からは、殆ど……御出でになりませぬ」


「それは一体、どういう事でしょう」


 彼は先程よりも随分と返答に躊躇を見せたが、捻りだした様な声で事情を語った。


「実を申しますと……白楼宮が銃殺に処された後、斎王様は前後不覚の状態に陥りまして……」


「……」


 ぴくりとも頬を震わさなかったが、内心は雷が落ちたような動揺が走った。


「今はもう落ち着きを取り戻しておりますが、一時は憤死するのではと思う程に取り乱しておりました。その姿を見た私共も少なからず……、否、甚だしく動揺しまして、アグリに連絡をして斎王様と縁のある維摩宮にお越しいただいたという次第なのです」


「そうだったのですか。先任の失態に続き、我が国の姫が見苦しい所をお見せしたこと、誠に申し訳ありません。お詫び申し上げます」


「謝罪など無用ですっ」


 思わず仰け反りそうになる、それくらいの大声だった。まさか姫は謝罪だけでは済まぬ程の不祥事を起こしたのか。いや、その逆か。


「あいや……失礼。兎も角、非は当方……いえ、私に在り申す。真に申し訳ない」


 ああ、わかった。彼は自分を苛んでいるのだ。維摩の直感がそう答えた。しかし、ライナの件について、その詳細を把握していない維摩にとってみれば、彼が何故自身を責めるのかの解がまだ見えていなかった。


 確か電報では『ジシャフショウジニヨリ』と打たれていた。ライナの失態であれば、彼が自責するのは道理に適っていない。維摩は蹄笳に端的な解を要求した。



「伺候府長様、先任の白楼は一体どのような咎により罰せられたのでしょうか」


「それは……」


 言って良いものか、悪いものか。そう窮しているのが手に取れるようで、皺を集めて懊悩している様子から、まるで維摩が彼を詰問しているようであった。


 しかし、子細はマヤ様に聞けば子細が判るであろうし、彼とはこれから長い付き合いになるのだから、此処は敢えて引いて、彼の心象を良くしようと謀った。


「失礼しました。余計な事をお聞きしたようです。斎王様と白楼宮の件、どうかお気に病まないでください。私としては斎王様が御無事であれば何も問題ありません」


「いえ、その……そうとも言えんのです」


 維摩は脳や内臓がきゅうと圧迫されるような、剥き出しの神経が空気に触れてじんじんとするのに似た痺れを覚えた。


「それは、どういうことでしょう」


 自傷にでも及んだか、と危惧したが意外な答えが返って来た。


「御膳を御召しにならんのです」


「それは、何かの病によるものでしょうか」


「いえ……あいや、心の病によるものかもしれませぬ」


「いつからそのようなことに」


「白楼宮が……帰らぬ人となったのをお耳にした時からです」


「すると六日半の間、物を口にしていないと」


「そうなります。理由は幾度もお伺いしたのですが、一切お言葉が無いので如何ともし難く……」


 稀ではるが、マヤ様はに感情的になって人を困らせることがある。アグリでも間接的にではあるが、その我儘に関わりを持ったことがあった。恐らくは今回もそういった類であろう。もう少し深刻な事態になっていたのかと恐懼していた維摩は、その分安堵した。


「解りました。力足らずではありますが、斎王様が御心を改めるよう努めます」


「心強い限りです」


 蹄笳の言葉は心からの声であったようで、渋面が緩んで表情が晴れやかになっていた。


 マヤの部屋へ到着したのはそれからすぐのことだった。蹄笳は部屋の横に設けられた丸い突起を押下すると、間もなく女官が戸を開けて維摩を迎えてくれた。


 彼女は蹄笳に、夕餉の食膳を運んできたのだが案の定、御召し上がりにならないと報告する。これで六日目。女官の顔は心配の色で染まっていた。


 蹄笳も女官も、どう手を尽くしていいのか、その手段を探しあぐねている様子であった。それがために、二人は何も言わずに頼みの綱として維摩の言葉を待った。


 これを感じ取った維摩は、マヤ姫と二人きりで話がしたいと蹄笳に要望すると、彼は即座にこれを承諾した。女官は急いで寝室へと向かい、そこ居るもう一人の女官を呼び寄せて、維摩を客室に残して、三人が廊下からこれを見送るような形になった。


「では、後は維摩宮が頼りです。宜しくお願い申す」


「はい。それでは失礼致します」


 維摩は部屋に足を踏み入れると後ろの引き戸が静かに閉められて、部屋には夕闇が沈んでいるような静寂が訪れた。


 『雪驥』と名付けられたこの客室の内装は、大陸中央の文化的気風、所謂、親那様式を基調にしたもので、調度品は何れも質実ながら自然の機微を見事に捉えており、閑寂ながら温もりを与え、威厳を醸しながら細部には華美な装飾が拵えられた逸品ばかりである。


 維摩はこの部屋を軽く見回すが、マヤの姿は無かった。やはり、奥の寝室にいるのだろう。維摩は部屋の入口から左に位置する厚そうな戸の前に立った。


「斎王宮下。イヅマ家の維摩です。王后様の命によりマヤ様の御付を命じられ参上致しました」


 ……。


 奥からの返事は無い。恐らく、扉が厚いために中へ維摩の声が届いていないようだった。これでは仕様がない。維摩は分厚い木製の戸を開けて寝室へと足を踏み入れた。中は居間より少しだけ小さい間取りで、その中央には大きな寝台があり、見覚えのある栗色の頭が半分だけふっくらとした布団から覗いていた。


「失礼致します」


 維摩はそっと戸を閉め、寝台横へと歩を進めた。マヤは寝台に寝そべって顔を埋めたまま、ぴくりともしなかった。


「姫御子様」


維摩がマヤの名を呼ぶと、マヤの体が微動した。


 女官らがマヤを『斎王宮下』、または『斎王様』と敬称するが、これは親那の習わしで、帝室に入る未婚の女性を呼ぶのに用いる。だが維摩は、アグリの習わしでマヤを呼んだ。この差異にマヤは気付いて、維摩が意図した通りに彼女は反応を示した。


 マヤは顔を布団に埋めたままに首をまわして額を維摩に見せ、そして、そっと顔を上げていった。目だけを横に向ける。そこにはちょうど維摩の腹部辺りで、彼女の故郷の色で彩られたアグリ民族調の衣装柄が目の前を彩った。マヤはばっと顔を上げて、その彩衣の主を確認すると、そこには見慣れた顔が一つあった。


「お久しぶりです、姫御子様。イヅマの維摩です」


 維摩の顔を見たマヤは一瞬だけ力が抜けて寝台に崩れかかった。が、顔をくしゃくしゃにしてから維摩の腰に抱き着き、噎び泣いた。マヤはやっと心許せる者が目の前に現れたことで、戦い前の弓弦のように張っていた気が緩み、感情が極まってしまったのだ。


 抱き着かれた維摩の方は少し困ってしまった。何分、物心付いたころから泣き付いたことも泣き付かれたこともないので対処の仕様に困ってしまったのだ。しかも相手は自分の主だ。頭を撫でてよしよしとする訳にはいかないだろうし、心からマヤを慰めることができる言葉も思いつかなかった。


「うぅ、維摩ぁ……ライナが……ライナが……私のせいで……」


 維摩はマヤが自分を責めている事に気付く。


「姫御子様、どうかお気に病まないでください。主家に仕える者は皆、覚悟を持って望んでいます。ですから、どうか我々を顧みることなく姫御子様は御身の御名分を全うして下さい」


 維摩はマヤの栗毛を手で梳きながら言った。


「……うん」


 マヤは、維摩が自分を慰めてくれたのだろうと思ったが、同時に随分と変な言い回しをするなとも思った。だが維摩が、アグリの者が傍に居るというのは迷子の子供が親と出会ったことと同じぐらいの安堵感を与えてくれていた。マヤは、自身の気持ちが落ち着いたのを知ると、維摩から離れて寝台の上に腰を落とした。だが一抹の不安まで拭い切ることはできなかったため、縋るように維摩の服の袖を掴んだままでいて、その姿は小さな子供のようであった。


「姫御子様」


 維摩がマヤの名を呼ぶと、鼻声で応える。


「……何」


「白楼閨の最後を御覧になったのですか」


 マヤの顔が悲哀に暮れて、維摩の袖から力無く手を放し、下を向いてうなだれた。


「そうですか。御覧になりませんでしたか。ですが白楼閨のことです。取り乱すようなことは無く、ただ神妙に受け入れたことでしょう」


 ライナは歳に相応しているというのもあるが、とても落ち着き払っていて、まるで隙が無い。彼女を良く知る者によると種々様々な仕事をこなしていたが、その仕事ぶりに全く過失が無く、また過去にそのようは話も聞いたことも無いとのことだった。兎にも角にも非常に沈着冷静であったと聞いている。そのためか、ライナがマヤの侍者を拝命した際、マヤを貞淑な姫君に育てたかったという意向が、今は亡きアグリ国王にあったようだ。だがその目論見は外れたようであった。見かけは一国の姫として相応な気風を備えているように見えるが、中身はおてんばとおっちょこちょいを足して二で割ったようなものとなってしまった。国王はそのことでマヤをよく囃し立てていたという。だが国王は、ライナの躾が間違っていたとは言わなかった。むしろ称揚していて、マヤ姫を大層可愛がっていた。このことは一見、国王の教育方針に沿ってマヤを育てる事ができなかったが結果を以て良しとした、と捉えられる。だが維摩は、そうではなく徹頭徹尾ライナの計画通りであったのでは、そういう不思議な確信があった。維摩はそれからというもの、ライナは他人の知り得ない事を全て熟知しているかのような錯覚を覚えていた。


 このことがあって、維摩は彼女が不祥事、つまりは失態を犯したという話にひどく疑問があった。しかし今、この疑問をマヤにぶつけることに適当かどうか迷った。しかし今後、親那で生活するためにも、事の詳細を把握しておく必要があるのではと思い、維摩は言葉を慎重に選びながらマヤに問い掛けた。


「姫御子様」


 マヤは目頭を擦りながら「なあに」と応える。


「白楼閨の件、差支え無ければ、この維摩にお聞かせ願えませんか」


 マヤの顔がどんよりと曇った。そして、やたらきょろきょろと視線を移して、悪戯を咎められた子供のように返すべき言葉を探しているようだった。ただ、死という事実を伝えるのは簡単であるが、それが愛しい者であった場合、これをどういう風に伝えたらいいのか言葉を選べずにいた。しかしマヤは彼女の主である。後任である維摩のために、事の子細を伝える必要があるのは少女であるマヤも重々承知していた。少女はしばしの沈黙の後、たどたどしくではあるが言葉を繋げていった。


「ライナは……私が殺されそうになった時……その、私を庇ってくれたの。お湯を掛けて。その後、抱き締めてくれて一緒に泣いたわ……そしたら、次の日に、ライナは連れて行かれて……直ぐに戻ってくると思っていて……」


 マヤの口からぽろぽろと零れる言葉を拾い集める維摩は、ふと手に取った一言に首を傾げた。


「殺されそう……とは一体何の話でしょうか」


「大皇陛下よ」


 己が耳を疑った。聞き間違いだろうとそう思っていたので「お手数ですが」と断ってもう一度事情を教えてくれるようマヤに乞い求めた。


「大皇陛下が……私を……殺そうとしたの」


「親那帝が。で、ございますか……」


 マヤは無言で頷く。


「何故、そのような事態に」


 同じく無言のまま首を振るマヤに、維摩は絶句せざるを得なかった。親那帝は一体全体、何故そのような悪行に何故及んだのか、その一切の理由を探り当てることができなかったからである。


 そもそも、マヤとの婚姻を破棄するということは、親那が条約を破棄することと同義であり、それは即ちアグリへの再宣戦へと繋がる。とはいえ、条約の内容は親那為政者の評議を経ている。何か不満があるのならば継戦、または条約にその旨を盛り込めばよい。それだけに、親那帝の動機が全く以て不明なのである。


 兎も角、事態が全く不明である故に、一旦の処置としてマヤを安堵させるのが優先であった。


「ですが姫御子様、今は御辛抱下さい。伺候府は姫御子様を悪く思っていないようなので、同じ事はそうそう起こらないでしょう。その間、大皇陛下の御真意を正し、誤解があればそれを解いてみせましょう。白楼閨に代わり、この維摩がそれを成し遂げて御覧に入れます」


 なるべく安心を得られるよう、優しく語り掛ける維摩。だがマヤは維摩の慰めの言葉を得ても、微塵も心を動かなかった。どうしてライナの死を共に悲しんでくれないのか。どうして自分を害そうとする者と縁を結ばなければならない私を同情してくれないのか。王侯の倣いとはいえ、そして、アグリのためとはいえあまりにも惨めではないかと、そういう思いに駆られていたからだ。


 ライナと比べて維摩は、国家護持という公を優先しているようで、マヤの自信の心を慮ることは二の次のようであった。そうマヤは察した。維摩にとってそれは、マヤと共通の認識であるとの思いであったが、当のマヤにとってみればそれはとても残念で寂しい事実だった。マヤは思った。この寂しさを埋めてくれる人は、この世に居ないと。私の味方は、私のこの苦しみを察してくれる人は、この世に唯の一人も居ない。そう、唯の一人も。マヤはそれを心で強く噛み締める度に苦いものを感じた。


 だが維摩はそれに気づかない。それどころか、話を別な方向へ向け始めた。


「ところで姫御子様」


「ん」


 維摩はマヤがこちらを向いた瞬間、彼女の顔を観察した。記憶より青白い肌に艶がなく、頬が少しこけていて、唇が渇いているその不健康そうな顔つきから、食事を摂っていない話は事実であると確信し、マヤの肌に手を触れる。


「随分とお顔の色が悪いようですが、お体に大事などありませんか」


 直接マヤに理由を聞いてもいいが、それだと頑なになるかもしれないと思い、少し遠回しに問うてみる。


「いいえ、何も無いわ」


「そうですか。しかし、病は気からと申します。姫御子様、白楼閨のことを忘れるべきではありませんが、それは思い出のみを大切にし、悲しみや苦しみは風なり水なりに任せて彼方へと運んで頂きますよう。仮に白楼閨のことを気に病んで姫御子様が病臥するような事があれば、白楼閨も悲しむことでしょう」


 維摩は表面に理と情を薄く塗ったような言葉を吐いた。相手から距離を置き、何か音の立つ物を足元に投げて、反応を窺っているようだった。しかし、マヤはその本意を覗き見ることができなかった。


「姫御子様、御膳はお済ましでしょうか」


「……」


 マヤは黙ったまま、維摩の身体から離れた。聞くな。そう告げているようで、これが維摩の確信の助けとなった。つまり、『蹄笳は嘘を吐いていない』、という確信である。


 維摩はこれに内心に焦燥を得たが、勿論それを表には一切出さなかった。むしろ、マヤが食膳を欲しているとそう、偽りの態度を装いながら、にこやかに食膳をマヤの寝台まで運ぶ。その姿は一寸の変哲も醸しておらず、徹底して日常を演じた。


「おお、なんと豪勢な」


 膳を覆う蓋いを取ると、見事な親那式の料理が姿を現して、同時に食思をそそる匂いが鼻孔の奥を突く。親那料理とは糧秣から発展したものが多く、基本的な調理は煮る、炙るで、それに加えて、発酵や香辛料を効かせた保存料理が多い。しかし、これらの食膳は、敢えて匂いの強い調味料を用いた焼き料理であるようだ。恐らくは、食指が動くように大炊寮の者が計らったのであろう。食は舌よりもまず目と鼻から吟味するものだ。これは良いお膳立てである。


「さぁ、冷めない内にお召し上がり下さい」


 維摩は、台車の側面にある引き戸を開けて中を探り、予想通り小皿と箸があったのでそれを二つずつ取り出した。


「姫御子様、何からお召し上がりになりますか」


「……」


「この焼き料理など如何でしょう」


 丁度よく焼けた肉であった。恐らくは馬肉だろう。親那は昔からの騎馬の育成に熱心であったのと、品種の改良もあって圧倒的に馬肉が多く、またそれを糧食としてきた経緯がある。そのために馬肉料理が非常に盛んなのだ。維摩は皿の上で規則正しく整列されたそれ一つを摘んで小皿に採ると、臭いを嗅いでから一口にした。毒味である。


「固くもなく、臭みもなし。美味の一言。流石、帝室で出されるものは一味違いますね」


「……」


 維摩は手を付けていない方の箸と小皿を手にして、今しがた維摩が口にしたものと同じものを採り、マヤの前に差し出した。


「さぁ姫御子様、どうぞ」


「……」


「やはり具合でも」


「悪くないって言ったでしょ」


 ならば、と維摩は箸で馬肉を挟むとマヤの口許までもっていった。


「いらない」


「一口だけでも」


「維摩」


「はい」


「私が食事をしていない事、聞いているでしょう」


「はい」


 維摩は間髪入れずにそう答えると、彼女の小癪な策謀に嫌気したマヤが睨め付けてきた。


「貴女のそういうところ、私は好きじゃないわ」


 維摩は箸を下して小皿を下げる。マヤの意思は固く、どうやら一筋縄ではいかないようだ。


「申し訳ありません。ですが、維摩は姫御子様の体を気遣っただけで御座います。姫御子様は頑なにものを口にするのを拒みなさるとのこと。なればこの維摩、姫御子様のために足りない頭を絞り、その結果、姫御子様は意固地になっておられるだけかと思いまして」


「馬鹿にして……」


 マヤはぷいっとそっぽを向いてしまった。


「姫様、どうか」


「嫌よ」


「なれば維摩にお聞かせ下さい。どうすれば姫様に御膳を召し上がって頂けるかを」


「……」


「私では役不足ですか。なれば他の者をお付け下さい。今からアグリに電報を打つのでご指名を……」


「誰でも同じよ」


「その前に訳を」


「もういい加減にしてっ」


 癇癪を起したのか台車に乗っていた膳を手で掃い退ける。肉は床に転がり、汁物は床の絨毯へ滲みこんで無惨な姿となった。維摩は特に驚きを表すこともなく、ただじっとマヤを見つめていた。


「姫御子様、そのような子供じみたことをしても何も変わりはしません」


「黙っ……て」


 寝台の上で蹲るマヤは随分と息苦しそうだった。維摩は水差しを手に取るや杯に水を灌ぎ、先ずは自分がそれを呷った後、もう一つの杯に改めて注いでマヤに勧めた。


「いらない」


「まさか、水物も」


「……」


 確かマヤが何も口にしなくなって六日。人は水無くば十日までと言われている。


 これはいけない。せめて水だけでも口にして貰わなければ、本当に死んでしまう。維摩はどうにか打開の糸口を掴むべくマヤの頑なになった心に隙を見つけようとする。


「では姫様。維摩に命じて下さい。どうすれば姫様の苦しみを取り除くことができるかを。維摩はその命を見事果たして見せましょう」


 マヤは維摩を見据えて言った。


「なら、ライナを」


「ライナを、とは」


「ライナに、会いたい」


「白楼閨の命はこの地で散りました。ご諒承ください」


「嘘吐き」


「ならば姫御子様はこのまま餓死を望まれると」


「ええ、そうよ。わたしもライナと共にここで果てるわ。そうすればライナとずっと居られるもの」


 馬鹿な、と維摩は心の底から思った。


「何を以てそのように愚かな考えを……お改め下さい」


「愚かとは何よっ」


「いいですか姫御子様、それは我儘というものです。姫御子様の御身は姫御子様御自身が好き勝手にしてよいものではございません。姫御子様はアグリそのものなのです。姫御子様が自死されるということは、それ自体がアグリの意思として捉えられてしまうのです。姫御子様がここに居る理由は人と人との所縁によるものでは無く、アグリと親那の、国と国との所縁なのです。それはお解りでしょう」


「そんなの……そんなの知った事では無いわっ」


 肌が水を弾くように、維摩の諫言はマヤの断固とした意思に退けられた。


 維摩はマヤの中でライナがどういう存在であったか、どれだけ彼女の助けとなり支えとなっていたのか、それは維摩が推測していたよりもかなり重いようであった。王家に仕える者は同時に国にも仕えている訳で、これはアグリの侍者とってまた王家の者にとって当たり前過ぎる認識なのだ。それなのに彼女はどうしたことか。ライナはマヤにその道を踏み外すよう教育をしてきたのか。マヤのこの言葉がライナの成果であるというのならば、維摩は腑に落ちなかった。


「ライナをこの地で一人きりになんてできない。寂しいもの、可愛いそうだもの。私が一緒に居てあげないと駄目なの」


「それは大変な思い違いというものです。白楼閨も臣です。そのような君臣の間柄を弁え意ない私事、思いもしないでしょう」


「そうね、その通りよ。ライナは賢臣よ。公私の区別くらい当然つけるわ。もし私の命が散り、ラカでライナと会ったらきっと怒るわ。ええ、怒られるわよ。でもね、絶対……絶対に一人よりはいいと、そう思う筈よ。私を目一杯叱っても、心では私の気持ちを抱きしめてくれるわ。ライナはとっても優しいのだから。あんな優しい人をこんな異国の地で一人にするなんて酷過ぎるわ。物心付いた時から一緒にいてくれたのに……私、お礼も言ってないのに……」


 マヤは体から絞り出すように涙を流すと、それを袖で拭う。袖はを見ると、涙と鼻水を何度も同じ箇所で拭ったためだろうか、とてもテカテカとしていた。何日もの間、服を着替えずに泣き続けた様子が目に浮かんだ。


「ライナは慶んでくれた……大陸の后となることを……相応しいって、言ってくれたの。祝福、してくれた。皇太子の母となれると……それが楽しみって言ってくれた、のに」


 数え切れない程に哀痛し、その度に幾百もの涙を流したのであろう。細い肢体が涙に咽ぶ姿は憐憫そのもので、同情を禁じ得ない。勿論、維摩もその一人である。だからといって、マヤの命を彼女の言う儘に諦めていい訳がない。維摩はマヤに間違いを認識させるため、叱咤するかのように語気を強めた。


「ならば、その気持ちにずっとしがみついているつもりですか」


「そうよ。悪い」


 ライナのため。その思いで完全に心を覆い、閉ざしてしまっている。この気持ちを賜うことが、不遇な彼女に対するせめてもの褒賜であると信じて疑わないようだ。たかが一臣に、と維摩は呆れ気味だが、まぁそれだけ優しさを植え付けられたということだろう。ならば、と、維摩はそれを逆手に取った。


「ならばこの維摩、姫様より先にラカへ行って、白楼閨と共に姫様に尽くさせて頂きます。それで宜しいですか」


 ラカとは『裏の界』という意味で死後の世界を意味し、これは大陸中央部に根差している死生観である。対して現世に生きる者をリカ、『表の界』とされており、人はリカからラカへ向かって、そこで死後の生活を営むとされている。正確にはライナとリカの繋がりはまだ保たれていて、彼女はリカの入り口に立っている。繋がりを断ち切るには、現世の者から完全に忘れ去られるか、または儀式的に、つまりは葬儀を営むことにより、リカとの係累を完全に断ち切って死者をリカに送ってやらなければならないのであるが、会話上でそこを厳密にすることは無いのが、貴賤を問わず普通である。


「なんであなたまで来るのよっ」


「姫様にお仕えするようにと、后妃様からの御命令であります故。それが出来なければ死んでお詫びしなければなりません。何れにせよ私はこのラカに居られないことになります」


「なによ、あんな義母の言うことなんて聞くこと無いわっ」


 今の言葉を聞かなかったことにして、マヤに念を押す。


「宜しいですか」


「駄目よ。ラカに行っても貴女とは口を利かないもん」


「なら私に生きる道を与えて下さい」


「道……」


「はい。私が生きたまま姫様にお仕えできる道でございます」


 この言、普通の者であれば、軽い脅しの類と捉えることだろう。維摩自身も、マヤのために自らを惜しもうとは思っていないが今がその時とは思っていなかった。だがしかし、マヤは至極本気にしていた。マヤは少女といえども、アグリの王族である。アグリ王家を支える者達が今までどれだけの命を擲って忠誠を示してきたか。その歴史と覚悟を知らない筈がない。そのため、維摩のこの文句を戯れや脅しの類と取れないでいるのだ。そして、マヤは同時に彼女に死んで欲しく無いという優しさを持ち合わせていた。これにより、マヤは維摩に条件を出さざるを得ない状況に追い込まれたのである。


 マヤは唇を噛んで深く考える。そして、暫くして維摩に向かって言った。


「なら、元に戻して」


「何を、どうすれば宜しいのですか」


「罪死したライナの名誉。これを恢復すること。ライナを汚した罪を拭ってあげて」

維摩は眉一つ動かさず、「以上ですか」と問うた。


「それと、謝らせて。頭を垂れさせるのよ」


「誰のを、でございますか」


「あのひ弱な愚帝のをよっ」


 マヤの恐れを知らない物言いにどきりとした維摩は、彼女の耳元で声を絞った。


「そのような事をめったに口走らないで下さい。どこに耳があるか解りません」


「何よ、あんなのっ」


 維摩はマヤの口に手を添え、「お止め下さい」と、溢れる彼女の感情に栓をしようとした。だが、この行為を卑屈とみたマヤは、維摩に食ってかかった。


「維摩は悔しくないの、これじゃ私達、屠殺を待つ家畜みたいじゃない」


 アグリは弱小国なので親那にしてみれば家畜も同然、と言おうとしたが、それを既の所で呑み込んで、実際は「解りました。解りましたから」と、会話を元の軌道に乗せるためにマヤを宥めた。


「それで、姫御子様が仰せになった条件ですが、親那帝が謝辞を述べられた上で白楼閨を赦罪なされて、またその名誉を恢復させればいいのですね」


「そうよ。それが叶うまで私は何も口にしないわ」


 この返答を受け、維摩は心の中でよしよしとほくそ笑んだ。


「それが叶った暁には、ラカに留まって頂けるのですね」


 維摩があまりにとんとんと話を進めるので、マヤは少し躊躇した。まさかそんな方法があるのか、と驚きの感情と共に、ライナの無念を少しでも晴らしたいという心、ライナの元に行きたいという気持ちが複雑に絡み合い、了承していいのか悪いのか解らない情態となっていた。そのようなマヤの内面を維摩は読み取っていて、考えを改められる前に念を押すことにした。


「姫様、宜しいですね。もし、約束を破るような事がありましたらこの維摩、姫様に倣い死を以て抗議させていただきます」


「ま、待って」


「早速、翻意ですか……それはライナの教えによるものですか」


 マヤは額に皺を寄せて維摩を睨んだ。感情が高ぶりやすい相手ほど、与しやすい者は居ない。しかし、マヤを侮ったような感情が内に起こったことに、直ぐに不敬であったと自身を戒めてマヤの返答を待った。


「……いいわ。けれど小細工は無しよっ。あの男が、心の底から、真摯にライナに己が誤りを謝して、ライナの名誉を恢復し、ライナの気持ちを慰めるのが条件。それが出来なければあなたはそのままアグリに帰りなさい。いいわねっ」


 マヤが人差指を維摩に向かって指先を振りながらそう言い切る。すると、同時に維摩はマヤに深々と頭を下げた。アグリにおいて君命を承った家臣が主君に対してとる儀礼である。


「畏まりました。イヅマの維摩、姫御子様の御命に従い、陛下に白楼閨の名誉を祀るよう取り計らいます。それまで姫様の命は、この維摩が預からせて頂きます」


「ふん、大袈裟ね。どうにもならないのだから、好きにすればいいわ」


「ただですね……」


 維摩が何かを言い掛けた時、マヤの訝しむ目が維摩に向けられる。何か、狡いことを謂うのではないかと警戒したのだ。しかし維摩は素知らぬ風にただ笑みを湛えながら台車の上に置いておいた杯を取って差し出した。


「暫く時間を要する事ですので、一錬程の時間を頂戴致したく存じます。それまでに姫殿下が白楼閨の元に行ってしまわれるのは困ります。ですので、せめて水だけでも召し上がってください」


「飢えの苦しみが長く続くわ。嫌よ」


 この言葉を聞いた維摩の頭にふと一つの疑問が湧いた。


「改めて思ったのですが……それ程までに自害を望まれるのであれば、女官に『果物を割きたいから』などと騙し、短刀の一つでも借りて、それで胸か首を一突きにされればよろしかったのでは」


 マヤは痛い所を突かれたと、きまりの悪そうな顔をした。


「……綺麗な体のままリカへ逝きたいの。リカへ行ったら胸に穴が開いていたなんて嫌だもの」


 維摩は成程と手を打った後、高い声で「実に姫様らしい最後の選び方でございます」と小さい子供を褒めるかのように言うと、これがマヤの癪の虫刺激したようで、怫然となって声を怒らした。


「馬鹿にしてっ」


「いえいえ、姫様の御覚悟を疑った訳ではありません。とりあえず、水を御召しになってください」


 マヤにぷいとそっぽを向かれてしまう。


「なれば、姫様の下知は承り兼ねます。よって維摩は先にリカへ赴き、衣食住に差支えが出ないよう整えて……」


「解ったわよっ。飲めばいいんでしょっ」


 杯を捥ぎ取ると、そのまま一気に呷った。ただ、飲み方を誤ったのかそれとも忘れたのか、水が気管に入ってしまってごほごほと咽てしまった。


「ありがとうございます。実に良い飲みっぷりでございます。では祭祀の件、取り計らいます故、暫しの間お待ちください」


 維摩はそのまま寝室を後にした。


 これで、とりあえずではあるがマヤの命を長らえる事に成功し、そのことに維摩は安堵した。だが、マヤはライナを諦めた訳では無い。故に、大変なのはこれからで、マヤの命とアグリの未来、この二つを長らえるという重大な使命を維摩はその荷を女の背で負うこととなったのだ。維摩はアグリ王家に仕える侍者として、是が非でもこれを全うしなければならないのだ。しかし、この大任に維摩は怖気を感じることはなかった。むしろ、自らの才を生かす好機であると捉えていた。

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