一節 維摩 一日目 二 枢侍

 彼女の名前はイヅマ・グイ・ユイマ。名に親那の文字を当てると『維摩』となる。


 出はアグリの首都マユタで歳は十四と半年。代々に渡って王家の侍官『枢侍』を輩出してきたイヅマ家に属し、彼女自身もまた王家に仕える身である。


 ここでいう侍官とは、親那帝国における侍従、女官とは少し毛色が違う。アグリは幾つかの『家』というのもがあり、その家々が代々において国家の大事を司る職務を受け継ぎ、国家に奉仕してきた歴史を持つ。例えば、書を読んで知識を蓄え時勢を観察して国家の行く先を指南する文官として仕える家、武芸に勤しみ兵法に長け有事の際には武勇と軍略を以て敵に挑む武官の家、そしてイヅマのように王族の側近として務めてきた家もある。このような家々を包んで重家と称した。故にイヅマの維摩は単純な女官ではなく、王族の側近という国家の要職なのである。


 侍官の役目は侍従女官と近い役目もこなすことはあるのだが、主務は王族の補佐役である。それは、他の重家が代々専門としている職務が狭い範囲を深く追求するものであるのに対し、侍官は幅広く知識を有し、時には頼もしい配下として、時には厳しい教育者として、時には智謀溢れる策士として、実に様々な役回りをこなしてきたのだ。アグリの従者は主君と定めた王族に付き従い、主君から決して離れる事無く、主君の絶対的な忠義者として、アグリの長い歴史の中で国家と王家を陰ながら支え続けてきたのである。


 機織られている歴史に打ち込まれた緯糸のように、維摩も枢侍を輩出する重家の四家の内の一家、筆頭ではないものの王家に仕えた歴史が最も長いと言われているイヅマ家の長女として生まれた。そして、彼女もまた当然のようにアグリのに仕えているのである。


 そんな中、彼女は五日前までアグリに居て日々の職務を全うしていた。だがその日の夜、白楼閨こと、ライナの身の上が王妃の元に届くと、彼女の代役としてアグリ先王の第二子であるアグリ・ヤショ・マヤ姫御子の侍官の任を拝命したのである。


 維摩は私事を二の次にして身支度を整えると、夜が明けるのと同時に汽車でマユタを後にして、親那の都市『七略』から昼夜運行の急行列車で神城を目指した。


 話し好きの老人と出会ったのはその道中の四日目のことである。維摩は老人と一夜を共にし、その翌日の昼、汽車は神城に入京した。窓を開けると神城の空気が客車の中に注がれた。それを久しぶりに嗅いだ維摩は、昔のものとあまり変わらないと思った。臭いで何かが解るほど動物染みてはいないが、昔を知る者として変化が無いということにどこか心が安らぐものがあった。


 維摩は革製の大きな鞄を持って汽車を下りると、老人と別れの挨拶を交わし、駅員に自分の迎えが来ていないか尋ねた。駅員は維摩の身の上を尋ねて、その応答を聞くや畏まり、停車場まで維摩を慇懃に案内した。停車場には白色の五人乗り自動車が一台あり、その傍らには親那三色の軍服で身を包んだ男が一人、暇そうに立っていた。


 彼は禁軍の兵士であった。駅員は駆け寄って維摩の事を話すと、兵士がこちらを見たので維摩はぺこりと礼をした。それに兵士は敬礼で応え、そして、維摩に近づいて幾つか質問を投げ掛けた。本人と確かめるためのものである。それをすらりと答えると兵士は目の前にいる彼女が目的の人物で間違い無いと確信し、停車場へ導引して自動車への乗車を促した。


 自動車は神城の街を疾駆してマヤの居る宮殿へと向かった。道中、流れる神城の街並みを眺めていた維摩は、その景色が昔と幾分違うことに気付いた。維摩が神城に居たのは随分と昔であり、この通りも片手で数えられる程度の頃に通ったぐらいであったが何棟か建物が建て替わっているのに気が付いた。何れも階数が多い高層の建物で、人口増加を続ける神城の事情を反映しているようであった。


 それを暫く目で追っていたが突然、長い壁が両道を覆った。宮殿の南側にある親那軍の軍営に差し掛かったのだ。壁の向こうは軍隊の土地である。辺りを見ると市井の人に代わって色取り取りの軍服に身を包んだ男達が闊歩していた。


 それを過ぎて更に堀と城壁を過ぎると帝室宮殿『師々王々宮』の城壁が、巨鳥が目の前で翼を広げたように視界を覆った。自動車は南門を潜って、そこから少々東寄りの煉瓦で造られたいかにも堅牢そうな建物の前で停車をした。兵士からの簡単な説明で、ここが帝族を親衛する者が控える禁軍府であると知った。自動車から降りた維摩は同乗していた禁軍衛士に従って禁軍府に入る。府の扉には帝国の象徴である狽を模った紋章が付いていた。


 維摩はそこで少し面倒なことを聞かされた。応答検査を通らなければならないとのことであった。維摩としてはなるべく早くマヤ姫と見えたかったが、禁軍も仕事であるし、維摩は部外の者。そもそも少し前までアグリは敵国であったのだから仕方の無い話ではある。そう自身に言い聞かせて納得した。


 試問では維摩が維摩であることを確かめるため、姓名、出自、経歴は勿論の事、アグリやマヤ姫の事まで具に問われた。維摩は、特に返答に窮することなく淡々と返していった。ただ、少し不可解な質問が幾つか飛んだのだ。それは、ライナに関する質問で、彼女との関連についてやたらしつこく聞かれた。親しかったか、彼女のアグリでの地位は何か、等々。中には、どれだけアグリ王宮の内情を知っていたか、どのような要人と親交があったかなど、政治に纏わる事情を問われた時は内心驚いた。とりあえず確信の得られないことについては「存じ上げません」と答えるに止めた。相手に必要以上ことは教える必要は無く、自身が維摩であるとの証明できれば良く、それ以上の情報を与える必要は無い。そう判断したからである。


 検査の結果、良の評価を貰った維摩は子殿から親殿へ入ることを許された。案内に従って禁軍府内の奥へ進んでいくと、長い廊下に差し掛かった。どうやら子殿と親殿を繋ぐ廊下らしく、ここから親殿内にある、この世で最も固く閉ざされた場所、親那国宮中へと続くのである。廊下の向こう側ではやつれた顔の老人が一人で立っていた。彼の前に立った維摩は老人に頭を垂れて恭しく挨拶をし、老人もそれに応じて理想という型にぴしっ嵌った礼を返してきた。彼は『蹄笳』と名乗り、帝室の伺候長を務めていることを告げた。維摩は彼がこの世を統べる帝王の最側近だと知ると、少し幻滅を感じてしまった。彼は随分と疲れた顔をしていて、纏めた髪も所々解れており、覇気、権威、英気などなどが全てどこかに飛んでいってしまっている風に見えたからだ。こんな者を重用している帝室にアグリが屈したと思うと、どこか口惜しく思われた。


 ここから維摩は蹄笳の案内を受けることとなった。わざわざ伺候府の長が宮殿内を案内してくれるというのだ。だが、用向きはそれだけではなかった。維摩に身体検査を受けるように言ってきたのだ。これは性別に偽りが無いか、病気を持っていないかなどについて確かめるためのものであるらしく、彼曰く受診は義務とのことであった。


 維摩は宮付きの医者である『禁医』が居る診療用の一室に入ると、五十ぐらいの歳の男が本を読んで暇そうにしていた。彼が禁医であるらしく、彼の前の椅子に座るよう促されたので言う通りにした。問診に始まり、診脈、そして服を肌蹴て上半身を露わにすると打診と続く。ここまで素直に言われるとおりしていたが、次に体全体を確認したいので服を脱ぐように言われるとちょっと躊躇してしまった。


 ここまでするものなのか、この中年男は私の体を見たいからこんな事をさせるのでは、と勘繰った。だがよくよく考えれば、アグリのように側仕えを旧い家筋で固めているのであれば、知った仲のようなもので、王族と臣下、または臣下同士の関係の中で信頼が醸成されていた。


 その家筋の一つに生まれた維摩は、アグリの常識を以て親那の杞憂を計ろうとしていたことに気付いた。そもそも、家筋に側仕えを任せるようになったのも王家に害を成す者を極力排除するためだと聞いたことがある。対し親那では様々な国、種族、格式、家筋からの者が帝室に仕えている。邪な理由を持って仕えようとする者も居るだろうし、淫靡な過去があれば体に病気を持っているかもしれないのだ。そう考えればこの検査の妥当性を認めることができた。


 まぁ、これから皇后となるかもしれないお人に仕えるのだ。先が読めない程、愚かでは無いだろう。維摩は立ち上がり、布帯を解いてから上着と肌着を脱いで椅子に掛けた。月ものでは無いので下着の類は一切付けておらず、靴を履いたままの足より上は、一糸も纏っていなかった。


 それから視診のため、体の前後左右を隈なく彼の眼前に曝した。そして、次に股を広げるよう言われたが、これには内心、かなりの抵抗を感じた。しかし、ここまできて感情を露わにしたら負けだなと、非論理的思考による実に感情的な経緯を経た結論に達し、無感情を装った何の躊躇も無いかのような挙動で椅子に座って股を広げた。


 検査が終わり、禁医が可を出したので服を着て診療室を出た。維摩はちょっと損した気分だったが、「仕方ない。これも仕事だ」と割り切ることにした。だがここで、そこでハッとした。もしかして、マヤ姫にも同様のことを強いたのか。彼の目の前で、あられもなく股を広げさせられたのか。これはアグリと姫の沽券に係わる問題でる故、姫に後で問う必要があった。


 次に維摩は蹄笳の執務室へ連れられると、予め準備されていた複数の書類に署名捺印を促された。身分証明書、滞在勤労許可申請書、入帝室許可証、諸侯官位申請書、軍役免除証、等々……内容の確認も行うので随分と時間を要することとなってしまった。最後に改名手続申請書について説明を受けることとなったが、改名については済ませていることを彼に継げて、ようやく手続き処理から解放された。


 こうして、全ての手続きを終えた維摩は晴れて帝室の者として従事することが許されることとなったのである。これら過程を全て経るのに凡そ半日を要し、気付けば窓の外は夜の帳が下りていた。だが、これでようやくマヤ姫に見えることが叶う。そう思うと旅の疲れも少しは甲斐のあったものだと思うことができて肩が少しだけ軽くなった気がした。


 だがしかし、本当に面倒なのはこれからである。誰よりもそれを自覚している維摩は、気を抜き過ぎないよう自らを鼓舞し、戒めた。

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