一節 維摩 一日目

一節 維摩 一日目 一 本と女

「そうですか。逝ってしまわれましたか」


 便箋を片手にしながら何か呆れたように汽車の中で呟くと、天を仰いで大きく息を吐く女が一人。その内容は、つい先日にライナが銃殺に処された件について書き認められていた。


 それを事も無げに郵送用の封筒に戻して懐中に仕舞うと、脇に積んであった読み物の一番上にある新聞紙を手に取った。その新聞は親那国の神城とその周辺で発行されている一般大衆向けの日刊紙で、親那国のあらゆる記事が掲載されていた。これは今しがた発った駅で購入したもので、日付は一昨日。まぁ、神城の印刷所で刷られているので日付が過去日なのは致し方ないことだ。手に取った新聞を目の前で広げると、汽車がレールの上を猛進するような速度で文字に目を走らせた。


 極東域討伐戦線は依然膠着状態……治政院の官吏によると、帝國西部において反乱に呼応する公算が大の諸侯、または臣下あり……立令院典長が辞任。後任は不来候国の雅卿。侯国出身者の就任は初……巍玉相場下落。市場の流通量が増加か……武器の値段も高騰。市場監督院が調査に乗り出す……旧市街で殺人。先週、同箇所で殺害された男の遺体と状況が酷似。連続殺人か……季簾斎王宮下逝去から半役……等々。

黙々と文字を追っているその時、横から唐突に声を掛けられた。


「アグリの御嬢さんは皆、新聞を読まれるのですかな」


 渋い声だ。


「いいえ。どちらかというと珍しい方に入ります」


 澱みなく答えて声の主の方へ顔を向けると、そこには腰が折れている老翁が一人。顔に刻まれた皺からはかなり歳を重ねているようだったが、ぱりっと糊のきいた服を着ているためか全体で見ると幾分若く見える。


「あいや、突然失礼。アグリの御嬢さん。前の席を譲って頂いても宜しいかな」


「どうぞ、どうぞ。元々空いている席ですので、私に構うこと無くお座り下さい」


「ありがとう」


 礼を言って、よいしょと大げさな声を上げながら腰を落ち着ける。そしてこの老翁、話し相手がいないためなのか、それとも喋り好きなのかは知らないが、気兼ねをせずにこちらへ話し掛けてくる。


「世は事も無し、ですかな」


「ええ。戦塵が舞っていることを除けば、概ね」


「ほほう。さいですか。あいや、ぶしつけに申し訳ない」


 老翁は眉を八の字にしながら掌をこちらに向けて恐縮した。


「ただ、この歳になると知人が少のぅなってきての。誰某構わず話し掛けてしまうでのう」


「構いません。私も読み物の相手ばかりで退屈していたところです」


 新聞を手早く四つ折り畳み脇にばさりと置いて、笑顔で応えた。


「それは良かった。随分難しそうなのを読んでいるので本の虫かと思うての。邪魔しては申し訳ないと思ったのだが」


 老翁は相手の横に積まれた本に目をやった。これらは何れも親那で刷られたもので、人気小説、政治書、思想書などで、中でも目を引いたのが一番下にある分厚い本だ。


 背表紙には『親那家史 第伍巻』とある。これは七十五役前にまとめられた親那の歴史書で、親那が全土を統一する過程を紀伝体で記録したものである。この世家第十二巻はアグリでの人気が特に高い。何故かというと、当時の親那王が率いた軍団と北方にあった大王国との大戦争において、親那側に参戦していたアグリ王の軍勢が、敵に対し圧倒的寡勢ながら大勝利を収めた話が載っているからである。この本はアグリ国民の家庭に一冊はあると言っても過言では無い程の人気で、親那の表意文字が読めない者や本を碌に読んだこともない家庭ですら後生大事に持っている程で最早、一種の守り札のような存在になっていた。


 女は新聞を置いた手で本の束を撫でた。


「長旅。それも一人旅となれば彼らに相手してもらうと良い暇つぶしになるのです」


「ほほう。ではその出で立ちが示す通りわざわざアグリから親那まで」


「はい。もう三日目で汽車からの景色にもすっかり飽きてしまいました」


「はっはっはっ、それはそうじゃろう……んっ」


 ここで老翁は頭に疑問符を浮かべた。


「個室では無いのかえ」


 夜通しとなれば普通はもう少しお金を払って個室を選ぶのが常である。個室であれば、椅子が寝台となりそのまま床に就くことが出来るのだ。


 彼女が乗車している客車は、警備付きの女子供老人専用の客車であるとはいえ、夜通し使うには少々不便だ。もし、混雑などしていれば座ったまま寝なければならず、若いとはいえ肉体への負担を考慮すれば、ゆったりと横になれる個室を選ぶのが常識なのである。


「この車両の個室は少なく、実はこの時期、真央(神城)行の人はあまりおらず、夜ともなれば隣の席を拝借して一人二席としても咎める人は誰も居ないのです」


「それは知らなんだ。乗務員は何も言わないのかい」


「ええ。鉄軌管理省が寛大で助かっています」


「それにしても異な事ですな。この時期に親那行の者が少ないとは。三節と祖汲とも外れているし不思議だのう」


 三節は親那の暦祭、祖汲も西方の祭事を意味し、現世に残っている家族が祖先の事を想うためのものである。祭事と重なれば、親那から故郷に帰る人のために神城発の下り汽車は大混雑となり、対して上り汽車は閑散とするのが常であった。しかし、今はそのどちらの時期からも間がある。それ故に老翁は不思議がっていたのだ。


「仰る通りです。ですがよくよくお考えて下さい。この路線は神城より北西に真っ直ぐ延びております。北西は親那の穀倉地帯。そしてこの時期の彼の地は収穫期にあたります。農家の人達は収穫期となれば田畑から離れられない。故にこの地方の人の移動が著しく減るのです」


 老人の頭中の疑問という穴にぴったりと何かが嵌ると、目と口を一杯に開いてまるでご先祖が蘇って自分の目の前に現れたような顔をした。


「加えて、親那の暦は戦のために作られた暦です。なので……」


「土を知らぬ者はこのことを知らぬのだっ」


 にっこりと笑って、人差指をぴっと上げた。


「正解です」


「成程、成程のぅ。いつもごった返している神城行の汽車が、日の上っている今時分でさえ空いているのはそのためか」


「ええ。そのためです」


「……」


 女のこの話を聞いた老翁の顔が、急に渋いものになる。


「……随分と感慨深いお顔をしていますが、何か思う所がおありですか」


「ああ、わしの家は代々農を営んでおっての。親の手伝いでよく借り入れをしていた頃が懐かしくて、懐かしくて。日に焼けた親の顔が今でも目に浮かぶ。厳しかったが働き者だった。新しく田畑を耕してわしにくれてやると言っておって、他の農家が畑を休めている間も土に塗れておったわ。ただ儂は若い頃、都市に出たくて仕方なくての。親が止めるのも聞かずに家を出て都市の人となったのだ」


「……なんでまた」


「ん、何か」


 家を捨てたのか……止む無くならまだしも、自らの意思で……。だが喉まで出かかったそれを引っ込めた。なんとなくではあるが、理由が察せられたからだ。


「いえ、なんでもありません」


 老人は構わず話を続ける。


「……だがわしは、今の今まで農家の人間であると、心の一部は耕した土でできていると、そう思っていた。今の今まで、老いさらばえたこの時までな。その証拠に何年か前までは○○の風を体で知ると刈り入れの時期だな、と自然に思い起こせたものだ。だが、アグリのお方。貴女と話して初めて刈り入れの時期を忘れている事に気付いたのだ。これでやっと、わしは、心の隅々まで都市の人となったとそう思った、思えたのだ」


「そうですか。私の言葉で随分と寂しい思いをさせてしまいました」


「あいや、何も気に病むこと無い。これでやっと本当に家出することが出来たというものだ。はっはっはっ」


「あはは……それで、田畑は」


「うん、田畑がどうかしたのかえ」


「……ご実家の田畑はどうなったのですか」


「ああ、わしは兄妹がおらなんだ故、親が裏界に発った時に売り払ったよ。地力が弱くてあまり良い値では売れなかったがな。それにしても、よくもまぁ、そんな土地で代々農家をやってこられたなぁと、感心というか呆れるというか……」


「そうですか……」


 老翁は思い出話として語っていて、懐かしさに浸っていることだろう。だが、聞いているこちらとしてはとても悲しい話に聞こえた。土地を守ってきた親はどう思っていたのか。本当は子に土地を守って欲しかったのではなかったのか、そう思えてならなかった。私がこの老翁の親ならば、よしんば子がどれだけ出世しようとも、家が継いできた土地を売るなんてことをされれたら親不孝の以外の何でもないと思うのだが。まぁ、それも他人の事情なので仕方の無い話ではある。女は話を続けた。


「すると今は神城に御在住ですか」


「ああ、そうじゃ。ただ、ここ暫くは他で仕事をしておっての。建物設計の仕事なのじゃが、弟子がどうしても手伝ってくれというので暫くそこにおったのよ。そんでようやく目途がついたので帰路についた、という訳じゃ。御嬢さんはアグリに住んどるのかえ」


「はい。つい四日前までは」


「と、いうと」


「もうすぐ私も親那の、神城の人となる、ということです」


「はー。嫁入り……という訳でもなさそうじゃな」


 訳を聞きたそうな老翁だったが、察して口にそっと人差指を当てる。


「なんじゃい。意地が悪いのう」


「ふふふ」


「改名は済ませたのかえ」


「何役か前に」


「すると出戻りか」


「いいえ、生まれはアグリです」と言って、掌を自分の肩ぐらいの所に持ってくる。

「まだ、背丈がこれくらいの頃、親那に住んでいましたので」


「成程。その格好で親那の新聞を読んでいることにも得心がいったわい」


 親那では葬祭冠婚でもなければ、紺や茶の類の派手で無い色をした服が常だ。老翁もその類に漏れない格好をしているが、こちらは違ってアグリの民族衣装を着ている。それは絹で織られていて、茜色を基調に桃、黄、茶といった紋様が織り込まれている、少し派手やかなものだった。従って、親那の人々に囲まれるとどうしても視覚的に浮いてしまう。


 女はちらりと鮮やかなそれに目をやってから「嗚呼」、とわざと驚いてみせた。


「言われてみればこの格好で親那の新聞を読んでいれば、嫌でも目に付きますね」


「んむ」


「だから尊老は私に興味を持たれたのですか」


「はっはっはっ、そうかもしれんな」


「それとも別に理由がおありですか」


 女は老翁と視線をぴたりと合わせると、ニコリと笑い掛けた。すると、老人は口をへの字に曲げて不機嫌な顔を見せる。


「小賢しい者はあまり好かんのう」


「失礼しました。ですが、これでも謙虚な方で通っております」


 老人は、ふん、と軽く笑った後、問い掛けた。


「アグリの娘さんは皆、御嬢さんのように美しいのかな」


「いいえ。私はどちらかというと自信のある方に入ります」


「正直者は好きじゃ」


 老翁は呵呵と旅の一興を満喫した。

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