序節 マヤとライナ 七 遺髪
翌日のことである。
昨夜の事情を知る女官の一人が事の顛末を宮中に漏らした。昨晩に蹄笳は、居合わせた者に緘黙するよう命じてはいた。しかし、あの乱暴は女官らの好奇を大いに刺激してしまい、元々の喋り好きの性格が災いして沈黙を守ることができなかった。しかも、内容の重大さからか尾鰭が付く間も無い位の速さで宮中に広まってしまったのだ。
それは噂好きな女官達の間だけならばまだ良かったが、宮中を守護する禁軍府の耳にまで入ってしまい、ただの噂で括れる話では無くなってしまった。禁軍司が親那帝に害を成したとして調査に乗り出したからだ。
禁軍は宮中と帝族を守護することを任とする親那帝室直属の兵士である。いくら親那帝の不作法が事の起こりといえども、親那帝の肉体を傷負わしたのであれば、事情を知らずに過ごす訳にはいかないのだ。
禁軍府は、親那帝の警護に当たっていたあの晩の禁軍兵士から事情を聴いて、湯を掛けられたという話が真実であるという証言を得たのである。禁軍府は伺候府を通じて、親那帝にお目通りを願った。即日でそれが叶うと、直ちに拝謁し、兵士が証言した話が事実であるとを、親那帝の赤らんだ顔から得たのである。
禁軍府は次に、伺候府の長である蹄笳に事情を問い合わせた。蹄笳は少しばかり事実を捻じって昨夜の事を話し、加えて、非は親那帝にもあるので情状を酌んでくれと願い、誰彼を罰する事の無いよう念を押した。禁軍府もそういう経緯ならば致し方無いが、こちらも任務であるので、どうか一晩、玉体に疵を負わした者の聴取を取っておきたい、と、そう蹄笳に話すと、老人はこれを承諾した。
これを、翌々の日にこの話を聞かされたライナは、一も二も無く「心得ました」と引き受けて、その旨をマヤに説明した。これにマヤは、とても不安な顔を見せた。不治の病を告げられたような顔であった。ライナは察して、マヤに「体を冷やさないように」と横になっている彼女に布団を掛けて、静かに頭を撫でて、優しさを見せてやった。マヤはもう何も言わなかった。ライナが部屋を出て行く時、曲がった小さな背中を、ただじっと見つめていた。
翌日。朝になったがマヤの前にライナの姿は欠片も無かった。その日の昼になっても、その日が暮れても、彼女の姿は雫も無かった。マヤは不安が一杯になって女官に聞いた。
「ライナは今、何処に居るの」と。
女官は、解りません、と、それ以外の答えを知らないようであった。丸一日が経ったても帰ってこないライナ。一晩だけと言っていたのに、と、マヤはそう思い返した瞬間、心の中に不気味で不吉で、何か気持ちの悪い予感が蠢いているのを感じた。
マヤは女官に詰め寄って、怒りを込めた声を放った。
「何故、ライナは戻って来ないのっ」
女官は言葉を尽くして宥めたが、服を掴んで決して離さないマヤに根負けして、蹄笳に事の子細を問い合わせた。これに蹄笳は驚いた。彼の内では、ライナは先夜に何事も無く、マヤの元に戻っていると思っていたからだ。そういう話になっていた筈であった。蹄笳は急急に有線電話で禁軍府の府長に事情を問い質した。返ってきた答えは、然る者が彼女を連れて行った、であった。これに蹄笳は誰かと問うと、府長は口を濁して明確な返答を避けた。問い返してもそれの一点張りだった。
これはいけない。
蹄笳は居ても立っても居られず、直ちに禁軍府本府へと出向き、今さっき電話した府長と面と向い、どういう事かと詰問した。だが、のらりくらりと話を躱して、なかなか核心には触れさせず、しまいには自分の命と引き換えにこの件には目を瞑ってくれと泣きを入れてきた。それが禁軍府の長が返答できる精一杯だった。
だが、それは蹄笳に大きな示唆を与えることとなった。彼は伺候府に居る配下の者を集めると心当たりのある場所に電話、電報を構わず入れて、通じない所には人を遣わせる等々、使える手段を選ばず使い、時間が深夜になろうとも相手への気遣いを忘れてライナの居場所を探った。
だがそれは効を奏さず、翌朝になっても依然として行方知れずのままだった。それでも蹄笳は諦めず、他に方法が無いか伺候府の者等と相談しながら粘っていた。老人と形容してまったく差支えない蹄笳であるが、疲れなど知らぬように伺候府の府員らを差配していた。先日の夜に、マヤがしがみ付いて離さなかったあの老婆は、親那へ嫁入りするマヤにとってたった一人の味方なのだ。親那に一人で来たあの娘をこれ以上悲しませないためにも、何が何でも無事にライナを彼女の元に帰してやらなければならい。
しかし、その思いは一本の電話によって打ち砕かれた。禁軍府から電話が掛かってきて、こう言ったのだ。彼女の一部が戻ってきた、と。それを聞いた瞬間、送話器の線を電話から引き千切ってそのまま電話に叩き付け、ありったけの怒声を叫んだ。周囲の者は彼の怒りように圧倒されて、ただ棒のように立っているだけであった。
報告にあったライナの一部とは彼女の髪のことだった。勿論、それは遺品として送られたことを意味しており、その送り主は暗にこう告げているのだ。
『ライナは既に亡骸である』と。
このことをマヤが知ったのは、髪が届いたその日の夜であった。
蹄笳がマヤの部屋を訪れて、ライナの髪を届けた後、彼女は呆けたままただじっと蹄笳の顔を見つめていた。それも長い間、まるで人形の様に寸も動かない。
マヤは放棄していたのだ。この髪が届けられた事実から、もう一つの事実に繋がるまでの思考の動きの一切を必死に放棄していたのだ。違うとすら思わない。これは事実では無い。こんなことがある訳が無い。これが遺物と知っているからこそ、というその矛盾に気付かずに。
だが死体でも無い限り思考は嫌でも流れるものである。その事実に辿りついてしまったまさにその時、マヤでは制御仕切れなくなる程の感情が溢れ出てきて、失神してしまった。
その後の直後の事についてマヤは覚えていない。
気が戻ったのは翌日朝。マヤはそのまま寝台の上に丁寧に横たえられていた。
目が開き、天井が目に入る。
朝。
横を見る。いつもマヤよりも早く起きているライナが身支度の準備をしている筈である。
だが、彼女の姿は影も形も無かった。
何故。
不意に思考が巡り昨日のことを思い出すと、一番に思い出したのはライナの灰色の髪束だった。
ライナ、そして死。
峻拒していた言葉を符合したとき、真っ白な現実に見舞われたマヤ。その瞬間から天をも裂く程の慟哭と突き上げるような激情と、それに伴う嘔吐の繰り返しを三日三晩続けたのだった。
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