序節 マヤとライナ 六 涙
何か、おかしい。
異常な雰囲気を感じ取っていたライナは、蹄笳の様子を窺った。
彼はただ一点を見つめたまま微動だにしなかった。大概、壮年の男がこんな様子なのは、気を揉んでいるような場合である。彼の心配事は間違いなく無く親那帝のことであろう。だが、それが何故であるかをライナは図り兼ねていた。親那帝がマヤに手を出すのではないかと邪推したが、即座にその考えを否定した。マヤを欲したのは親那の側である。婚姻を成立させるのであれば当然、親那の慣例に倣って進められるものだ。しかし、悪い予感は、痼のように胸中に在って消え無い。
『親那帝。青いと言えば青いが分別を知らない歳では無い。いくら君主といえども、親那の慣例に逸脱するようなことはしないであろう』
このライナの推測は誤ってはいない。邦国とは色であり、色の違いがあるからこそ隔てられているのである。その色を成す要素として文化や宗教などというものがあり、その邦国の民はそれを生活とし、また誇りとするのだ。それを壊すということは、邦国の色を壊すという事に等しい。まさか一国の君主がそれを知らないとは思えない。狂っていれば話は別だが。しかし、まさか……。
心配が募りに募ったたライナは、蹄笳に「もし」と声を掛けた。蹄笳はライナの方を向くと、無理矢理に和らげた表情を見せた。
「なんでしょう」
「お伺いします。陛下はどういった御用で、こちらに御運び遊ばしたのですか」
「い、いえ。唐突に御目に掛かりたい仰るもので……」
そう言ってから、不安でしかたないといった様子で寝室の戸口の方を見つめた。ここからライナは直感的に理解した。同じだ、と。彼もまた、悪い何かが起こるのではと危惧を懐いていたのだ。
その時である。
戸の向こう側からこの世のモノとは思えない物凄い金切り声が戸を突き抜けてきた。
「っ」
ライナは考えるよりも早く、まるで戸を弾き飛ばすかのようにして開けると、蹄笳と共に部屋の中に飛び入った。
「ライナっ。ライナあっ」
マヤの声が直に響く。今まで聞いたことのない、救いを切望するマヤの声。どのような恐怖を味わえばこんな声が出せるのか……あまりの事態に老いたライナの頭にも、どっと血が上った。
「何をなさいますかっ」
ライナが叫ぶと、背を向けている親那帝が振り返って睨んできた。その下でマヤは虫のように蠢き、泣きじゃくっている。傍らには親那帝が佩いていた刀が、抜き身で寝台に突き刺さっていた。まさか切られたのか。ライナは気が気では無くなっていた。
これは蹄笳にとってもあまりのことであったようで、彼は前に出て大喝一声を放った。
「止さんかっ。このっ、痴れ者がっ」
腹の底から出た、よく響く声だった。これに親那帝は一瞬怯んだが、奥歯を噛み締めて自らを奮い立たせると、刺さった刀を抜いてその切っ先を二人の前に向けた。
「出て行けっ」
蹄笳は一瞬、悲しい表情をしたが、また直ぐに憤怒を帯びて怒声を浴びせた。
「貴様が出て行けっ。先人を畏れぬ大馬鹿者めがっ。このような醜聞、他に例を知らんぞっ」
「この女も親那に仇なす姦賊よっ」
「アグリの姫には何もありませぬっ」
「あるっ。朕は親那を守らねばならぬっ。祖先から継いだ社稷を守らなければならないのだっ。何としてもっ」
「兎も角、剣を収めよっ」
「止めてくれるなっ、朕のこの手で、この手でっ」
高らかに宣言するようにそう叫んで、刀の柄をを逆手で握ってマヤの上に掲げた。これから胸を串刺そうという格好であった。
「やめよっ」
蹄笳は叫びながら親那帝に飛びかかろうとした。しかし、それよりほんの少し前にライナは寝台の横に駆け寄っていて、マヤに茶を煎じた際に熱湯を入れた急須を手掴みして、それをそまま親那帝の方へと投げつけた。急須は見事、親那帝の頭部へと当たって、急須から零れた熱湯は湯気を上げながら親那帝の肌を熱した。
「っ」
親那帝は怯んだ。湯が目に湯が掛ったのだ。服の袖で必死に顔を拭っている。蹄笳はこの機を見逃さず、親那帝の腕を背中越しに掴み、そのまま寝台から引き摺り下して刀を取り上げた。そして、衛兵と女官を呼び、親那帝を拘束するよう指示をした。
一方のライナは掛布団を掴んでマヤに掛かった湯を手早く拭っていた。手塩に掛けた娘を疵ものにしてはなるまいとする母のように懇切丁寧に布を這わした。一方のマヤは袖で顔を覆っていた。過酷な現実から自分を隠すように。
「大事無いですかっ」
ライナの声が近いのを知ったのであろう。マヤは袖の端から辺りを窺って、親しみのある顔を認めると、その体を抱き締め、胸に顔を埋めて恐怖に震えながら嗚咽した。ライナは掴んでいた布団を、マヤの露出した肌を隠すように巻きつけ、その上から体全体で庇うように覆った。雪山の急峻に取り残されて、吹雪に堪えながら必死に暖を取ろうとするように二人して抱き合った。抱き合って嘆いた。
マヤは屈辱を呑んでアグリの民のためにと、親那の母になるのだと、覚悟した。その結果がこれか。これではあまりにも不憫だ。気付けばライナは、親那帝に向かって怒声を放っていた。
「いくら宗主様とはいども、これはあまりの仕打ちではありませんかっ。小国の姫であれば、野の花を踏みつけるように蹂躙しても良いのですかっ。このような非道、あってはなりませんっ」
居る者の全ての視線がライナに集まる。誰一人、この哀叫に抗弁はしなかった。彼女を見る者全てが、申し訳ないような気持ちになって同時に目を逸すだけだ。親那帝も屍のように力無く、近衛の腕に身体を預けているだけで、何も言わなかった。蹄笳は歩み寄って、頭を下げた。
「申し訳ない……誠に……」
身体を直角に曲げて、誠心誠意からの謝罪をした。だが、その言葉に二人は反応しなかった。
無理も無い。この一役の間、親那はアグリの人々から尊厳を奪い続け、かろうじて残ったその欠片すら粉々に砕いたのだ。彼女達を慰められる言葉などありはしない。如何様な言葉を投げ掛けても、空へ礫を投げるようなものであって、何処にも届きはしないだろう。
蹄笳はそれ以上何も言わず、女官と衛兵に抱えられた親那帝と共に部屋から出て、静かに寝室の戸を閉めた。
静寂が訪れ、二人は暫く寝台の上で抱き合っていた。マヤの涙は枯れることなく泉のように湧き出でライナの服を濡らして、ライナの肌まで滲み渡っていた。ライナは宥めようと布団の上からゆっくりとマヤを摩った。もう大丈夫、安心していいよ、と、マヤが落ち着くまで絶えなくゆっくりと擦り続けた。
温もりと優しさによって、心振いしていたマヤは自分の呼吸を取り戻しつつあったが、嗚咽は止まなかった。その、やっと利けるようになった口で、ライナに詫びた。
「ライナ……ごめん。ごめんね。私、駄目だったみたい。駄目な子だったみたい」
恐ろしさや悔しさよりもまず謝罪の言葉を口にしたことにライナは驚いた。マヤが受けた恐怖と屈辱は彼女の心をへし折るのに充分過ぎるぐらいのものであったであろう。にも関わらず、それ以上に育ての親であるライナの期待に応えられなかったこと、マヤにとってそれが何より残念でならなかったのだ。育ての親の自慢でありたいという健気な少女の気持ちに打たれ、ライナは目から涙がとどめなく溢れてきた。
「何も悪くありません。何も悪い所はありませんよ」
ライナが涙声でそういうと、マヤは再び嗚咽を漏らしながら「ごめんね」を何度も繰り返し、その都度ライナはマヤを許した。その後、マヤは母親に甘える子供のように、若しくはぐずるようにライナの名を呼んだ。
「ライナァ」
「……はい」
「ライナァ」
「はい。ここにいますよ」
「帰りたい。帰りたいよぉ」
マヤに胸に顔を擦り付けられながらライナは懇願された。できるものならば直ぐにでも願いを叶えてやりたかった。アグリに連れて帰り、命尽きるまで静かにマヤと暮らしたかった。だが、その願いは叶わない。叶えられないのだ。唯一、出来ることといえばマヤを精一杯抱きしめて一緒に泣いてあげることだけだった。
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