序節 マヤとライナ 五 叫び
「陛下、ようこそ御出で下さいました。アグリ・ヤショ・マヤにございます」
手を付いて深々と挨拶をするマヤ。対する親那帝はその姿をじいっと見つめていた。
「……」
何か間違いを犯したか、マヤは心配になって親那帝の手が見えるぐらいまで頭を持ち上げた。するとその手は微かに震えていた。何故か。この問いにマヤの直感が答えた。私が后としてふさわしくないから……、と。
マヤは焦った。もし、私が親那帝に拒否されて、アグリに戻ることとなれば条約が無効となる。これはアグリの生命線。それが断ち切られる事態だけは避けなければならない。マヤは声が震えないよう丁寧に言葉を紡いだ。
「東方における一大事の砌、小国の愚身に過ぎないこの私を后として選り寄せし段、まこと光栄の至りにございます。私は生まれも育ちも山の国。それ故、美姫と称するには遠く及ばなぬかもしれませぬが、我が母はアグリ国において、その器量と美貌を謳われ、数十年に一人と言われておりました。私も二年、三年と経てばきっと陛下の御目に敵うことでしょう。何卒、よしなにお願い申し上げます」マヤは再び頭を垂れた。
「アグリの姫よ。私はそのようなことを気に掛けてはおらん」
透き通るような声。それは男らしさでも女らしさでもない、若々しい、だがはっきりとした抑揚を持ち、それでいて威厳のある高貴な声だった。そのような声でマヤの、謙虚から出た言葉ではあるが、自虐的な言葉を否定したのだ。悪い気はしなかった。そのためマヤは親那帝の手が震えていたことを隅に追いやり、顔を上げて親那帝の尊顔を拝した。
「っ」
目が合ったその瞬間、マヤの体に電流が走った。マヤを見下ろすその目は澱んでいて、忌憚無く例えれば、まるで自分の畑を荒らした畜生をこれから殺すかの様であったからだ。マヤは恐怖した。直ぐに頭を下げて平伏して、何が悪いかも解らないまま謝罪する。それ以外の術を知らなかった。
「申し訳ありませんっ」
「ふっ」
親那帝の曲がった口から笑みが零れた。
「噂通りの……真に噂通りの純真な姫のようだ」
「あ、ありがとうございます」
「その心を読んでいるかのような勘の良さ。良き母のような優しい声色。色情を知らぬような純真さ。そして、真に心服しているかのようなその形振り……」
これは褒詞ではない。何か危機としたものを悟ったマヤの心が警鐘をけたたましく鳴らしていたのだ。マヤの耳は途中から親那帝の声を捉えることができなかった。当の親那帝はマヤを見ていなかった。どこか虚空を見つめながら呟いていた。心はここに在らず。何処か昏い昏い場所へと捨て去ってしまったのか、マヤを心で捉えていなかった。
「だがな、だが……」
親那帝は腰に佩いた刀の柄に手を添えた。カチリと鞘口の音が鳴ると、マヤは心身で俎上の魚のような危うさを感じた。
「朕は……」
刀が抜かれ、ギラリと鈍い光を放つ刀身が露わになる。その刃の先、憎悪の向かう先は紛れもなくマヤの方を向いていた。
「どうか、お許しを」
マヤは請うた。許しを。突然の恐怖に溺れながらも、必死に声を絞り出した。しかし、親那帝には響かなかった。
「貴様を……」
空を切る音が鳴り、縮こまっているマヤの直ぐ横を掠めた刃が寝台に刺さった。
「はぁ、はぁ」
身を乗り出した親那帝の息遣いが直ぐそこに聞こえた。だが、言葉は無意味と悟ったマヤは、ライナが羽織らせてくれた表衣を握り締めながら体を強張らせ、小さく弱々しい身体をがたがたと震わせた。
「おのれ」
まるで、何かの敵のようにマヤを睨みつける。
「黙っていれば朕が情を掛けるとでも思っているのかっ」
「申し訳……ありません」
「おのれ小国の小賢しき姫如きに朕の妃が務まるとでも思っているのかっ」
親那帝はマヤの頭髪を鷲掴みにして、無理に顔を引き上げた。マヤは抵抗すまいと、親那帝の腕の力が向く方向に自身の頭を持って行った。努めて従順を示す。しかし心は恐悸して張り裂けそうで、頬は涙で濡れていた。
その顔に嫌気を起こしたのか、親那帝は腕を引いてマヤの顔を無理に下へと向かせた。マヤは焦眉の急に、痛い、口惜しい、といった類の感情を湧かせる暇すら忘れて、ただ親那帝へ許しを請うた。只管に。威も力も無いマヤにはそれ以外無かった。
「私が、私が、陛下の嬖を賜るにはあまりに卑しい身でありますが……どうか、力足らずは承知しておりますっ。ですが、何れは、何れはっ。どうか……」
生まれたての動物のように身震いしながら必死に哀願するマヤ。まるで客の取れない娼婦がぞんざに扱われるようだった。最後は計らずも、声の力を無くした。同情を誘おうと、そう本能が自然と働いたのだ。
しかし、少女の哀願は届かなかった。
「毒婦、この奸婦、帝国の明日を鳴こうと賢しがるこの牝鶏が」
擦れた、心の奥底から捻りだすような罵声だった。マヤはただただ憐れみを乞うのみであった。
「どうか、どうか……御情けを」
触れたら折れてしまいそうなか細い声だった。その声に触発されたのか親那帝は握っていたマヤの髪を離して、何本か抜けて指に絡んだ長い髪を掌ごと見ながら言った。
「情が欲しいと言うか」
「……どうか」
握られて髪をそのままに頭を寝台にこすり着けて嘆願する。マヤは怯臆から震えが止まらなかった。体は恐怖で一杯になっていて、溢れ出そうなくらいであった。そこに慈雨のような一言が降り掛かった。
「ならばくれてやろう」
「か、感謝致しますっ」
一も二も無かった。ただ命を保てたという安堵で全身から力が抜けて行き、腰が砕けてへなへなと全体を寝台に預けた。しかし、親那帝はマヤの肌着の襟をひん掴んで体を起こさせる。マヤは既に命が安堵されたと思っていたため、気が抜けた顔のまま泣きじゃくっていた。
だがしかし、親那帝は少女の微かな望みを割いて引き千切るように、握った襟を力任せに引き下げてマヤの素肌を開いた。
「情をくれてやる。その後に突殺にしてくれる」
「っ」
マヤは咄嗟に露わになった肌を隠そうとしたが、その腕を親那帝が掴み、そして土足のまま寝台へと上がると、肩を押して寝台に無理矢理寝かせた。
「脱げ」
マヤは思った。何が彼を怒らせたのか、と。しかし、マヤには全くもって解らない。
「朕の手を煩わせるのか」
『仮に怒らせたとしても……』
「ならば脱がせてやろう」
故郷を燃やされ、愛する人を殺され、自身は人身御供のような扱いを受け……それでも自尊心を殺して平服した。これが宿命であろう、と。そういう星の下に生まれたのだ、と。それでもまだ足りないのか。マヤはそう問いたかった。尚も自身に過酷を強いる存在が居るのならば。そして、それを同じ憂き目に遭わせてやりたかった。だが解る。その存在はマヤの苦悩を嗤いの種にしているだけだと。
マヤに多い被さった親那帝は彼女の服の襟を力付くで左右に開いて、若いマヤの乳房を露わにした。マヤは親那帝の手を掴んで抵抗したが、その細い腕では甲斐無しであった。
このまま犯され、そして刀で突かれて殺されるのであろうか。絶望が心を過った直ぐ後に、故郷の人々の想いが去来した。来るな。そう念じても彼らの顔が嫌という程浮かんできた。もう、振り返らないと決めたのに。
『それなのに……』
何が悪かったのか。
一体、私の何が悪いというのか。
神に正直に生きてきたつもりだった。
王族とはいえ贅沢らしい贅沢もしてはいない。他人を卑しんだつもりもない。
幾つか叱られるようなことはしたが、どれもこれも些細なことだ。
罪と言える罪があるなら教えて欲しい。
『それなのに……』
マヤの腕は掴まれ、寝台に強く押さえつけられた。余った彼の片手はマヤの裾着たくし上げて下肢を露わにした。
何の抵抗もできないまま、圧倒的な力の前にただ平伏せられる。
まるで、祖国が親那に蹂躙されたように。
ここでまた、その再現をしようというのか。
ただ彼の嗜虐を満たすだけに、この世に生を受けたのか。
もしそうなら……、もしそうであるのなら……。
『この世にこれだけの無情があっていいのかっ』
曝された肉体の芯から発せられた救いの一言を心の限り叫んだ。
「ライナァっ」
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