序節 マヤとライナ 四 訪問

 マヤはアグリの服に着替えると、どっと寝台に転がった。


 ライナはマヤが投げるようにして寄こした上着を丁寧に畳み終えると、アグリ産の葉茶から茶を煎じた。これはアグリの山地に根付くとある気の葉を発酵、乾燥させたもので非常に甘美なのが特徴である。甘い香りが部屋に広がると、マヤは食いつくようにして椀に口を付ける。


 「どうでしたか。親那の儀式は」


 「とっても緊張した……アグリの節始めの挨拶を百回こなした気分。とっても疲れたわ。これから一錬(八日)の間、ずっと寝ていたいくらい」


 一息ついて、ようやく寛緩とした時の流れに身を任せる事ができた。そんな様子だった。


「家畜ですら草を食むため足を運ぶというのに」


「例えばの話っ。なら、本当に寝てもいいのよっ」


「出来るものならどうぞ」


マヤはじとりとした目でライナを見据えてながら茶を啜った。


「それと、これを」


 ライナは封筒から紙を取り出してマヤに手渡そうとするが、椀を片手で持ちながら受け取ろうとするのをライナははしたないと窘め、渡そうとした紙を遠ざけた。


「手紙は椀を置いてから両手でお受けなさい」


「……」


 不承不承言われた通りにすると、ライナは『頂戴』をするように両手の平を上に向けて手紙を受け取る。


「何」


「改名です」


 マヤが二つ折りにされた紙を広げると、そこに『摩耶』という文字が書かれていた。


 アグリと親那は口語水準ではほぼ同じなのだが、文字の部分で違いがある。アグリでは昔、文字が無く口伝という方法で知識の継承をしていた。文字の発達は親那の方が早く、アグリでは文字の開発が遅れていた。このためかアグリでは名前の文字に表音文字を用いるのが専らであった。それに対して親那では文書のみで知識を残すために表音文字の欠点を補う形で表意文字が発達していた。文化文明の発達した現在でも新しい文字が開発されているのである。親那でも表音文字で名前付けすることがあったが、次第に表意文字が主流となりはじめ、今では他国の人が親那の人となる場合は必ず表意文字による改名を行わなければならない事となっていた。


「如何ですか」


「んー、書くのが難しそう」


「嫌ならご自分で決めてください」


 ライナはマヤの教師でもある。文字の知識はライナに遠く及ばない。


「これでいい」


 親那の文字を深く知らないためマヤは、ライナの提案を信用して了承するしかなかった。


「これも皇国での決まり事ですので」


「決まり事ね。決まり事、決まり事……それに仕来り、仕来り。ああ、息が詰まりそう」


「他所の国への嫁入りなんてそのようなものです。大陸の端から端へと嫁いだら、一から十まで違っているので、もっと大変ですよ。日常の言葉から礼の仕方まで全部一から覚えなければなりません」


「想像したくもないわ」


「なら我慢することです」


「はーい」


 マヤが戯けた返事をしたのでライナがマヤを睨んだ。マヤはすぐさま萎む様な声で「はい」と言い直す。昔から躾けられているだけあってライナに怒りにマヤは従順で、ライナもそれを知っているのでそれ以上何も言わなかった。


 「さぁ、そろそろ寝に入られてはどうですか。明日は挨拶回りだけで何件あると思っているのですか。まさか、知らないとは言わせませんよ」


「うう、忙しくなりそうで、もう目が回りそう」


「寝不足で失態でもしてごらんなさい。アグリの姫は礼儀を知らない、なんて影で言われてしまいますよ」


「……」


 小言の連打が始まりそうだったので言われた通り床に潜り込む。暖かい。布団の素材は何であるかは知らないが、晴天の雲に挟まれているようで、寝心地は至極であった。自然と眠気が降りてくる。


「また明日。ライナ」


「また明日に。姫御子様」


 二人が就寝の挨拶を交わした。しかし、その直後であった。マヤとライナの居る部屋の呼び鈴が鳴ったのだ。二人が過ごすこの静かな一時を見咎め、まるで罪と言って責める立てるように。ライナは急いで客室の戸を開けた。そこには軍服姿の二人の若い女が立っていた。内、目の薄い方の女が口を開く。


「夜分に申し訳ありません。宜しいでしょうか」


 何か只ならぬ事を告げようとする真剣のように研ぎ澄まされた声色だった。ライナは気を引き締めて伺った。


「承ります」


「今しがた、伺候府から連絡がありました。我が君が、こちらに御出でになると」


「まさか、今からですか」


 我が君とは家臣が親那帝を呼ぶ時に使う尊称である。


「はい」


「なんと」


「お急ぎ下さい。間も無くです」


「お言伝、感謝です」


 会話を切って戸を絞めると、ライマは火事場から逃げる人間のように機敏な動作で寝室へ行き、箪笥から羽織物を取り出した。マヤはライナの様子から何か尋常でない様子を悟って事情を問う。ライナは平素の声色のまま、不安を煽らないように、女軍人から聞いた話を柔らかく咀嚼してから聞かせた。しかしそれでも、マヤはばさっと掛布団を退けて上半身を起こし、青い顔をしながら救いを求める目をライナに送っていた。


「羽織物を。寝巻姿では失礼になります」


 羽織を広げてマヤに掛けようとするライナだったが、酷く不安がっているマヤに微笑み掛ける。


「心配は不要です。少し御話をされるだけでしょう」


「う、うん」


「いいですか、言葉だけは間違えないように」


 マヤは唇を締めて「わかったわ」と頷く。


 ライナは床子をマヤの手前、向かい合うようにして配置し、辺りを見回して何か不備が無いかを確認し、それを終えると、戸の前に立って親那帝を待った。


 その間、マヤはずっと下を向いていた。自分より高位にある者といきなり面と向かうのは失礼であるため目を伏せるように。そう、躾けられたことをを守っているだけなのだろうが、今の彼女は怯えているようにしか見えなかった。


 これから会うのはマヤの祖国を焼き、それでいてその地の姫を娶ろうとする男。マヤには、まだ若いからであろうが、その動機や心理が一向に理解できなかった。マヤは特段の美貌の持ち主ではない。強国の姫でも無い。むしろ、罪国の姫である。故に自分が選ばれた理由を全く知らない。だから恐ろしいと、マヤは思った。何を考えているのか全く読めないからだ。今の親那帝は気難しい方と聞いている。一つ間違えば何が起こるか解らない。


 異国の暗闇は怖いものである。得体の知れない何かに囲まれるようで。しかし、今のマヤは、もっと深い闇が下りてきてその身を包み込み、ただそれをじっと、厄災から少しでも自分を守ろうと身を縮めたまま朝日が昇るまで耐え忍ぼうとしているようであった。


 親代わりのライナとしては代われるものなら代わってあげたいと心底思っていた。だが、相手は動物ではない。人だ。礼節さえ重んじれば悪い様にはしないであろう。ライナは目に見えて怯えるマヤの姿を見て、何か良く無い想像しそうになる思考を振り払った。


 大丈夫、マヤは平凡な子だが、礼節についてはしっかりと躾てきた。また心根が優しく、芯も強い。今日の族交儀でも歳にしては堂々としており、歳相応以上の威厳を感じ、諸侯に評判であったと方々から聞いている。きっと親那帝も気に入ってくれる筈だ。この子は私の特別なのだから。ライナは、そう自身に言い聞かせた。


 再び部屋の呼び鈴が鳴った。ライナはまた戻って戸口の方へと向かうが、戸越しに外で男が誰かを叱咤するような声があった。ライナの背筋にぴりっとしたものが走る。


参られたか。


 直ぐに戸を開けると、そこには今日の儀式のままの親那帝が首を傾け、ライナを見下すような姿勢で立っていた。


「これは我が君。夜分遅くに御足労頂き畏れ入ります」


 ライナは戸口の端に寄って親那皇に道を開けた。親那帝はライナには目もくれず部屋の中へずかずかと踏み入ると、寝室の戸の前に立った。その直ぐ後ろには枯葉のような老人が苦々しい形相をしながら付いて行った。


 彼の顔を見たライナは直ぐに誰であるか見当が付いた。今日の族交儀に参列した伺候府の長官である伺候大司の蹄笳(ていが)であった。前頭が禿げあがり、後頭が白髪で染まった、痩躯で長身の男であった。


「ご侍者、夜分に申し訳ない」


 蹄笳はライナに向かって本当に申し訳なさそうに詫びてから、軍隊で鍛えたであろう、良く響く男の大声を放ち、額に皺を寄せ親那帝を叱責した。


「待てというにっ」


 女ならばびくりとしてしまうところであろうが、親那帝は背中でそれを嗤うようにして、マヤの寝室へ無遠慮に入っていった。蹄笳の声が再び鳴った。


「我が君っ。不躾に姫君のお部屋に入るものではありませんっ」


 直に蹄笳の声に触れたマヤは、そのあまりの大喝一声にびくりと体を震わせる。ライナは不動ではあった。しかし何故、蹄笳が皇帝を怒鳴り付けているのか見当がつかないことを訝しみ、内から不安が湧き出るのを感じていた。


「蹄笳。御主が大声を出すから、アグリの姫君が身を震わせているぞ」


 怯える小動物を気遣うように言うが、その言葉は平淡であった。しかも見ると、薄らと笑っている。相手を侮る笑みであった。蹄笳は喉に物が詰まったようにぐっと言葉を飲み込む。これ以上言っても無駄であると悟ったからである。


「蹄笳、下がっておれ」


「十五朸。それ以上の時間は許しませぬ」


 蹄笳はキッと親那帝を睨みつけるも、親那帝は全く意に介さない。


「姫の従者。そなたも下がれ」


「仰せには従いますが、我が姫は親那を訪れてまだ一日。諸般の事情にも暗く、万が一ににも……」


「下がれと言うにっ」


 有無を言わさなかった。なればここは従った方が賢明。そう思ったライナはそれ以上何も言わないで部屋の外に出て戸を閉めた。居間にはライナと蹄笳の他に衛兵が一人。それと先ほどこの部屋を訪れた女官が二人いて、それらの三人は怒れる蹄笳を不安そうに見つめていた。ライナも蹄笳に何も聞かなかった。唯事であるように。何事も無いようにと心の中で祈りに祈るのみであった。

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